You’re The One.
「すみませんありがとうございました!」
「棚から取りたいなら俺に頼めばよかったのに。危ないな」
「……でも、あなた怪我をしてますよね。手首と、ふくらはぎも」
彼女なりに気遣ったのか、と頷いた。
腕には包帯があるのですぐわかっただろうが、足は長ズボンだし引き摺るような素振りも見せていない。戦闘のプロでなければ見逃すような違和感ぐらいだ。そしてこの子が拳の一つ握ったところで脅威にも思えない。
「問題ありません、傷は塞がってますから」
「そうですか? なんとなく、まだ何かある気がして。包帯が必要なくらいには」
隠した傷の場所を正確に見抜いた少女は、鋭く感知しているようだ。燻る魔の気配などを。
腕の包帯に手をかけて、一瞬止まった。
そこらへんのお嬢さんなら見せるのはためらうが、聖職者なら魔物につけられた傷は慣れているだろう。
「こういうわけで」
包帯を外せばゆらりと黒い靄が立つ。爪痕は石炭のようになっている。指で表面を撫でると日焼けした皮膚が剥がれるように、ぺろりと一枚剥けた。
「お城の人と似てますね」
少女は至極冷静にしている。
「城の中に魔症した人間がいた?」
疑問ではなくひとりごとだった。
王城の中心部に魔物が入ったとなれば大騒ぎか噂くらいにはなるはず。もしくは上位の人間が関わっていて揉み消されたか。少し前には国王が体調不良で臥せっているとのことだったが、とっくに公務に戻られたという。
魔物が物理的に国王に触れることはかなわない。王族が魔に倒れる理由はひとつ、この世に魔が飽和してしまったときだ。しかし、国王が短期間で快復したとなれば単なる病気だったとしか考えられない。
「ましょう?」
少女の疑問にシャーロは訝しむ。聖職者なのに、魔症も知らないのはおかしい。文字面そのまま、魔の穢れを発症した、という意味だ。
「魔の症状が出る、魔の穢れに侵されることを言う」
「そういえばそう言ってたかも……。はい。ほとんど全身にこの症状がありました。こんなに真っ黒じゃなかったですけど、灰色に近くて」
「全身に? ……それは助からなかったでしょう」
「いいえ、元気になりましたよ」
「一体どうやって。手遅れだろ」
ありえないことを耳にして、ついシャーロはつっけんどんになってしまった。
「試してみます?」
少女は腰帯につけた袋を開いて、小ぶりのゴブレットを手にした。彼女が両手を使えばほとんど隠してしまえるくらい小さい。金を貼られた足部分と取手には模様が隙間なく彫られている。二つある取手に白い指を添えて、意識を集中させている。邪魔はできなかった。
みるみるうちに杯の底から銀の液体が満ちる。どこにも仕掛けは見当たらなかった。銀色は量を増していき、縁から溢れ出す。
「失礼しますね」
シャーロの腕に片手を添えて固定し、反対の手でゴブレットを傾ける。聖水は液体のような動きをしたが皮膚に濡れた感覚はない。感触はごく弱い冷気を帯びたそよ風に近い。そうして銀の水が黒い靄を打ち払い、傷口に触れる。聖水は色を失くし床に着く前に空気に溶けた。
「よかったら、足も」
続いて足の魔症も立ち消えた。傷跡はまだ治りかけのピンク色だが、これからは自然治癒を待つだけだ。
「これで魔は祓えました」
少女は聖杯を袋に仕舞い、シャーロに微笑む。
騎士は少女の手を取って立ち上がらせ、今度は自分が膝を地につける。
「聖女さま」
浄化と治癒のできる教会を頼ったとて、聖職者による実際の治療は三ヶ月後の予定だった。治療を開始しても教会に一ヶ月は毎日通い、やっと治ると診断されていた。魔の穢れは根強く残るもの。それが一瞬で終わる偉業を成せるのは、もはや神にも等しい聖女しかいない。シャーロは頭を垂れた。
「え? ああ、フェリおじいちゃまもそう呼んでましたけど。顔を上げて、立ってください。私に頭を下げる必要はありません」
「手ずからの施療にシャーロ・ロバーツが心より感謝を申し上げます」
「余計なお世話かもと思いましたけど、よかったです。ロバーツさん」
「とんでもない。どうぞ私に敬語は使わず、名前もただシャーロ、とお呼びください」
「すみません、たぶん歳上の男性に気安く話すのはちょっと。呼び捨てにするのも抵抗あるので勘弁してください」
「そうですか、ではお気の召すままに」
「えーと。しゃ、シャーロさんとお呼びしますね。私はカ……カリナです」
「カリナさま。ご芳名を直に教えていただき嬉しく思います」
彼の笑顔が輝いた。
「いや名乗っただけですけど。えっと、急に堅苦しくなってどうしちゃったんですか?」
「私は騎士団でも下位騎士です。あなたの正体を知って無礼な口をきけるほど、馬鹿ではありません。ですが殿上人のあなたを平凡な聖職者だと思い込み、侮ったことをお詫びします。申し訳ありませんでした」
「侮ってましたっけ? いやそんなことどうだっていいです。気にしてません」
「お許しいただけるとは慈悲深い」
「許すもなにもないんです。シャーロさんだって、私が台所で落ちそうになったところを助けてくれたじゃないですか。そのお礼と思ってもらえれば」
「私の行動と、魔を祓ったあなたの神業は同等に扱える事柄ではございません」
元はと言えば、シャーロが大声で脅かさなければ落ちなかっただろうし。
「あの反射速度、神業じゃなきゃありえないですよ。
もうわかりましたから、やめてください」
ようやく彼を立ち上がらせることができた。
「私には身分も権力もありません。……シャーロさんは前の話し方が素ですよね? さっきまでは無理してるっぽかったですし。シャーロさんの素で接してほしい、と言ったらわがままなんでしょうか。やっと、まともな人と話せたのに……」
心底参った様子で、大きな瞳で見上げてくる。シャーロは頭痛がしてくる思いだ。
「お望みであれば……ああもう。少し俺も混乱していて……、すみません。どうしてあなたのような方がこんなところに押し込められているやら」
通常なら聖女など王城専用の教会で王族さながらに、平民となど顔も合わせず過ごす。侍女も護衛もなしに歩き回れる立場にもない。悪戯にしてもタチが悪い。
「お話ししてもいいんですけど長くなるかも。シャーロさんは時間大丈夫ですか? お仕事があるのでは?」
「俺は魔症のせいで半休職中扱いなので、退勤の時間までわりと自由に過ごせます」
「そうですか。もっとぞんざいに話してもいいですよ?」
「戻します、戻すので……あと少し時間を、くださ、くれないか」
吃るシャーロに、カリナは屈託なく笑った。
You’re The One.
(あなただ。)