Mother of Monster
この世界には"Monster(以降怪物と記載する)"が存在する。
怪物と一括りにしても多種多様で、動物のような風貌の幻獣や人の形をした亜人、名状しがたい生物などのことを指している。
未確認生命体UMAや妖怪と言われる類も怪物の一部だ。
道徳的理由などから動物の様に檻の中に入れることもできず、密かに戦争や反社会的理由に用いられている場合もある。
友好的な怪物もいれば、人に襲い掛かる怪物もいる。
人を守ることもできるが、簡単に人や動物を傷つけることができてしまう。まるで生きてる兵器だ。
そんな怪物の存在を知っている人間は少なく、各国の政府関係者または一部の反社会組織などだ。
団体『Mother of Monster』はそんな怪物の保護や管理を行っている。
仕事内容の一つは、友好的な怪物を保護し、観察や教育を行うこと。もう一つが敵対する怪物や組織を抹消することだ。
この団体は太平洋のど真ん中の無人島を改変し、本部兼保護施設にしていた。
団員は軍人や学者などで、国々から少しばかりの支援金を受け取っているが、その金は殆ど怪物の保護に使われ、電気や食事はすべて島で作られている。
Mother of Monsterの目的は怪物の生態を調べ、住みやすい世界を作ることだ。
それがボスであるMotherが望む世界だ。
―――――
月夜 代美は眼が覚めると見知らぬソファで横にされていた。
「えっ…」
渾沌する意識の中、何があったかを思い出しながら体を起こす。
代美はコンビニの帰り道に何者かに攫われ、何かを吸わされた途端に意識が泡沫のように消えた。
ふと頭の中に、ニュースで見た拉致問題が過る。
まさか自分が…。
そんな恐怖からくる気分の悪さから今にも吐いてしまいそうになり、胃酸が喉まで込み上げてくる。
咄嗟に自分の頭に巻いていた包帯が外されていないことを確認し、安堵の息を漏らす。
「"Hello"」
「ひっ」
突然声がかけられ、全身が跳ね上がる。ソファの後ろに転げ落ちそうになったが、間一髪の所でとどまった。
机を挟み、反対側のソファには金髪の白人女性が座っていた。右目は包帯で覆われていて痛々しい傷がはみ出ており、左腕は失われており袖がだらりと垂れている。
辺りを見渡すと、校長室みたいな部屋で色々な物が置かれていた。棚には所狭しと書物やファイルが並べられ、クリアケースの中には勲章や表彰状みたいなのが飾られていた。
ソファの横には防弾チョッキを身に着けて、短機関銃を持った黒人男性が一名立っており、部屋の端に同じような武装をしたアジア系の男性とヨーロッパ系の男性の二名と黒髪の女性が一名。彼らは代美を静かにみつめていた。
「…おぇ」
代美は銃を見たことで、死という明確な恐怖に我慢ができなくなり胃酸を吐いていしまった。
「"Oh dear!"」
金髪の女性が我が子を心配するように近づき話しかけてくるが、とある事情から学校にあまり行って無かった代美には英語の理解ができない。逆に嘔吐してしまったことで叱ってると感じられた。
近くで見ると綺麗な髪とは対照的に、傷の痛々しさがより不気味に見える。
パニックになった代美立ち上がって逃げようとするも、横で立っていた黒人男性にぶつかり尻餅をつく。
「ひっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
心の底からの恐怖に、体だけでなく声まで震えて、頭を抱えてその場に伏せる。
まるでライオンに囲まれて逃げ場を失ったウサギのようだ。
「"Oh…please do not worry! Aww, Do not be afraid."」
「ソッソーリー、ソーリー。アイムイッパンピーポー」
よく分からない英語を叫ぶ。
だが金髪の女性に、そんな叫びは届かず、ただ困り顔を浮かべているだけだった。
それでも代美は必死に命乞いをしている。言葉のキャッチボールどころか、そのボールすら持っていない状態だ。
金髪の女性も頭を抱えて黒人男性の方を見るが、黒人男性は首を横に振り親指を部屋の端に居る男の一人を指した。
「"Hey Nagi! Help!"」
「"I understand, mother."」
"Nagi"と呼ばれたアジア系の男性がゆっくり代美に近づいていて、目線が合うように腰を下ろした。
金髪の女性が一歩後ろに下がり、二人の様子を見守っている。
「怖がらせて悪かったな嬢ちゃっ――」
男性が日本語で話しかけ、宥める様に肩を優しく撫でようと手が軽く触れた途端、その手首を代美に掴まれて綺麗に投げられる。それはもう合気道のお手本の様に。
そのまま男性は手足をソファやテーブルに当て、床に打ち付けられ、肺から息が漏れるような声がでた。
手首を掴んだまま、代美が反対の手で床に落ちた男性の銃を拾い上げ金髪の女性に向けた。
「動くな! さっきから意味わからない言葉話して。誘拐犯だか何だか知らないけど、動いたらこの人を撃つよ」
途端に周りの全員が銃を構えようとしたが、金髪の女性が両手を上げると全員がそれを見習った。
代美の銃口は明らかに震え、目から動揺が伺える。
代美によって押さえつけられている男性は悲痛の叫びを上げていた。
「痛い! 折れる、腕が折れるから放してくれ! 俺らは誘拐犯とかじゃない、嬢ちゃんを保護する目的があってだな……あっこれヤバいかも」
「何ってるんだか意味が分からな……あれ、意味が理解できる。日本語……って事は貴方は日本人なの!?」
代美が驚き半分嬉しさ半分に男性を見て、僅かに腕を引く力が緩んだ。
「そうだ俺は日本人だ。よろしくな、お嬢ちゃん」
「ねぇここはどこなの! 貴方たちは誰なの! どうして私がこんなところにいるの! 保護ってなに! それになんでみんな銃を持っているの? それから……」
彼女の口からマシンガンの様な質問を凪にぶつける。
「分かった! 嬢ちゃんの問いに全部答えるから、落ち着いて話そう。だからその手を離してくれ」
「あっごめんなさい」
男性は腕が放されると、立ち上がり腕を軽く回す。
よっぽど強い力で握られていたのか、腕には握られた跡が残っている。まるでゴリラにでも腕を掴まれていた跡だ。
ふと男性の鼻腔に異臭が入ってきた。腹部を見てみると、べっとりと代美の胃酸が付着している。
「"Damn."」
男性はぼそりと呟くと苦笑した。
着替えを済ませた男性は代美とテーブルを挟んんで向かい合って座り、用意された紅茶を一口飲む。
男性の後ろにはさっきの金髪の女性と、武装した黒髪の女性が立っていた。
「怖がらせて悪かったな。嬢ちゃん、君の名前は?」
「月夜 代美です」
代美はまだ少し動揺した様子で、男性を見ている。
少し落ち着きはしたが、まだ現実を受け止められていない。
「俺は伊佐 凪だ。そうか月夜 代美で間違いは無いみたいだな」
「あの、伊佐さん。ここは……」
「ここはMother of Monsterの本部だ。俺たちはここの職員みたいなものだ。代美はここに保護された。保護と言っても安全に暮らしてもらうだけだ。銃を持っているのは戦うためだ。さぁ、他に質問はあるか」
先程、代美が咄嗟に聞いた質問を凪が淡々と答える。
さっさと進める話に代美は置いてかれそうになっていた。
「えっと、そのマザーオブモンスターって言うのは?」
「極秘裏にモンスター……怪物の保護や管理を行ってる団体だ」
怪物。その言葉を聞いた途端に、代美は心臓を握りつぶされた感覚に襲われる。
頭の中でトラウマがフラッシュバックした。
代美は生まれた時から怪力で、子供が持てたい様な物を軽々しく持ち上げていた。
それにこの怪力が原因で事件を起こした。
クラスメイトから、友人から、色々な人から、自分を見て『怪物』と恐れられていた。
終いには父には見捨てられ、母は病を患い、祖父の家に引き取られた。
自然と呼吸が荒くなり、包帯の巻かれた額に何かを隠すように手を置く。
「どうした代美」
凪の声で現実に引き戻された。
目の前にいる凪は、優しく逞しい瞳をしている。
彼は私の力を知っているのだろうか。きっと知っているから連れてこられたのだろう。
知っていて、心の底で私の事を怪物だと嘲笑ってるのではないだろうか。
そんな事ばかり代美は考えていた。
「いえ…何でもないです。その、怪物ってなんですか」
興味本位と救いになることかもしれないという思いからの質問だった。
「怪物は公になっていない生物の事や、突然変異体のことを表している。妖怪とかUMAって言うと分かりやすいか」
「あの、もしかして私もその怪物なんですか……」
「その可能性は高いが、今は判断することができない。代美のその力が何なのか、検査を受けてもらってそれからだ」
「そうなんですか」
怪物じゃないと言ってほしかった。
だがここに連れてこられた時点で、普通の人間としては見られていないのだろう。
そう思うと少しショックで何も言えなくなってしまった。
「他に聞きたいことはあるか、何でも答える」
「……その、じゃあもしも私が怪物だったら、伊佐さんは私の事をどう思いますか」
代美は自分で何を言ってるか分からなかった。
何でも答えてくれると聞いて、咄嗟に出た質問だった。
保護される怪物を、この凪という男はどう思っているのか。
嫌な方にばかり考えて、自分が嫌いになっていく。
すると凪は小さく微笑んだ。
「家族だ。ここに居る皆も同じだ、ここに保護されているやつらは皆俺らのファミリーだ。それが俺たちのボス、Matherの考え方だからな」
そう言って凪は金髪の女性に目線を向ける。金髪の女性も凪に向けて微笑んだ。
予想外の言葉に代美は呆然と凪の顔を見ている。
「なんだ、じっと人の顔を見て」
「いえ、何でもないです」
代美は視線を凪から外し、床を見る。
「あの、おじいちゃんや母は……連絡とかって出来ないんですか」
再び凪の顔が曇ってしまう。
そして申し訳なさそうに凪が口を開いた。
「悪いがそれは出来ない。恐らく親族や世の中には死んだと伝えられるだろう」
「どうしてですか!」
「怪物を公に晒す訳にはいかないんだ。たとえそれが家族だろうと、怪物の事を話せない」
「それじゃあ、私はもう家に帰れないのですか」
「悪いがそうなるな」
自分が死んだことにされ、複雑な心境になる。
もう一度母の見舞いをしたかった。もう一度母と話をしたかった。もう一度祖父に合気道の稽古をして欲しかった。
そう思うと終わりのない。
心の中にモヤモヤとした気持ちが渦巻く。
「さてと、もう聞くことがないなら検査に行こうか。ドクターを待たせている」
「あっ、えっと……」
少し口籠って、恥ずかしそうに問う。
「検査って痛いの?」
凪は驚いた顔を見せるが、再び微笑んだ。
「心配することはない、少しチクッとするだけだ。そこの綺麗なお姉さんが面倒見てくれる」
親指で後ろに立っている黒髪の女性を指した。
代美が目線を向けると目が合って、はにかみながら手を振ってくれる。
綺麗な黒髪を頭の後ろで束ねている。
身長は高く、恐らく凪と同じくらいだろう。
「彼女が医者なの?」
「医者は別にいる。リリーは元アメリカの軍隊の軍医だ、怒らせると怖いぞー。鬼も恐れる戦場の花だからな」
「"Hey Nagi. What did you say?"」
「"Nothing much."」
凪の笑みが弱々しい苦笑いになった。
「今なんて言ったの?」
「俺が代美に何を言ったか聞いてきたんだ。だから何も言ってないって答えた。……あいつ日本語わからないはずだろ。あっ俺が言ったこと秘密だからな。と言うか英語はどれくらい話せる」
「ハロー……」
ぎこちない笑みの挨拶。
英国の三歳児の方がもっと真面な挨拶ができるだろう。
「オーケー、暫く俺が通訳として働こう。それじゃあ行こうか」
凪は立ち上がり部屋の扉を開けてくれる。
代美も立ち上がると黒髪の女性が後ろに立つ。
部屋を出ると廊下があり、窓から外の景色が見えた。
「うわぁー」
太陽に照らされた木が青々と生い茂っている。少し離れた森の奥には大木の頭が見えた。
更に空には見たこともない鳥が飛び、遠くに日差しに反射してキラキラと輝く綺麗な海が見える。
海の先には何もなく、世界の境目の様な水平線が引かれている。
「凄いだろ」
自慢げに凪も外を見ていた。
「うん、凄い。こんなの見たことがない」
「そうだな、検査が終わったらゆっくり案内しよう」
「本当!?」
興奮気味で輝かせた目を凪に向けた。
クリスマスプレゼントを目の前に用意された子供みたいに嬉しそうな顔だ。
―――――
検査と言ってもやることは健康診断や体力測定みたいなもので、小一時間ほどで終わった。
途中で握力測定器が壊れるトラブルが起き、結局握力は測定不可になってしまったが、それ以外は問題なく検査が行われた。
代美は持久力測定で運動場を走らされ血液検査で血を抜かれ、すっかり疲れ果てた様子で医務室で昼食を済ませるとソファーに寝そべってしまった。
通訳として付き添いをしていた凪は、医務室の外で冷たい水を飲みながら一息ついていた。
コップの水が半分くらい減るとヨーロッパ系の男性が近づいてきて、英国のアクセントで話しかけてくる。
「よおゲロ男。お姫様の護衛はもういいのか?」
「アーサーか。この後はお姫様が島をめぐるからその護衛だ」
この男はイギリスの軍人だったアーサー・スペンサー。
今は凪の部隊の隊長で、共に怪物の保護や管理を行っている。
代美を保護するために指揮を行ったのもアーサーだった。
「ひゅー、羨ましいな。可愛らしい日本の嬢ちゃんと俺もデートしたいねぇ。それでそのお姫様は?」
ニタニタと嫌な笑みを浮かべながら凪を見ている。
「疲れて医務室のソファーに寝そべってる、それが起き上がるの待ってるんだ」
「なるほどな、デート前の待ち合わせのもどかしい時間って訳か」
アーサーは何やら一人で納得した様子だった。
「それにしてもあの嬢ちゃんはやばいな。凪を軽々しく投げ飛ばしやがった。あれもジュードゥ―だろう?」
「いや、あれは合気道だ。柔道とは少し違う」
「それでも柔道の神の子であるお前を投げ飛ばしたんだ、相当のやり手であることに間違いはないだろ」
「神の子ねぇ…何年前の話だよ」
凪は苦い顔をする。
顔を引きつりながらも水を一口含み、胸の蟠りを流し込む。
「どっちにしろ嬢ちゃんは普通ではないだろ。なんでも握力測定器を破壊したんだってな」
興味本位にアーサーが聞いてくる。
「あぁ。始めは手を抜いてやってたみたいだが、手加減せずに本気で握れって言ったら、測定器が悲鳴を上げて変形してた」
「なんだそれ、ゴリラか?」
冗談ぽくアーサーが言ったが、凪にはあながち間違いには感じられなかった。
腕を見ると、先程代美に握られた所が痣となって残っている。数日では消えそうにない。
「まぁゴリラだろうと何だろうと怪物は保護するのが俺たちの役
目だろ」
「管理するのも俺たちだがな、その事を忘れるな」
「……分かってるさ」
アーサーの言ってる管理とは、殺傷を表している。
人に危害を加える怪物や、敵対する怪物などを保護することが危険な為、止むを得ず殺す場合がある。
そういった怪物は捕らえてドクターの研究対象になることもあった。
恐らく殺されるよりも、研究対象のマウスにされる方が辛いだろう。
アーサーは懐から矢庭に煙草を取り出し、徐に火を着けた。
白い息を大きく吐くと、口角を不気味に少しだけ上げる。
「少し道徳的な話をしよう」
「随分と唐突だな」
「どうせお嬢様が起きるまでの暇つぶしだ。それに凪が管理について理解しているのかのテストでもある」
そう言って目尻を下げたアーサーの表情は、何かを見透かしてるかのみたいで気味が悪い。
「まある線路でトロッコの制御が効かなくなった。このまだと作業中の五人の職員がトロッコに轢き殺されて、無様な肉塊になってしまう」
「なんだトロッコ問題か?」
「まぁ、最後まで聞きな。貴方は分岐器の側に立っている。そこで進路を切り替えれば五人の肉塊ができる心配は無くなる。しかしその分岐先の別線路にはもう一人作業している人がおり、五人の命と引き換えに一人の肉塊ができる。ここまでが普通のトロッコ問題だ」
そこまで言うと、煙草で一呼吸する。
「これに二つの条件を加えた。一つは、線路を切り替えろという命令が下った。そしてもう一つ、別線路にいる一人はお前の愛しい人だ。さてお前はトロッコを別線路に引き込む事ができるか?」
「……悪趣味な問題だな」
苦虫を嚙み潰したよう顔をして、アーサーを睨む。
この追加条件はトロッコ問題の葛藤に「仕事と私どっちが大事なの!?」と言う面倒な女に似た悪質さが増されている。
「さあ凪。早く決断しないと、五人の肉塊と仕事をサボった罰が待ってるぞ」
「線路の進路を変える。それが俺らにとっての最善な答えだろ」
呆れた声で凪が答えた。
するとアーサーは鼻先で笑い、横目に凪を見る。
「この問題に最善も正解も無いさ、あるのは間違いだけだ。その凪の答えは、仕事の正しさを疑わず、自ら愛しい人を殺した後悔を一生背負って生きる事になるだろう。逆に線路を切り替えないと、仕事を遂行せずに五人の死者を出した。決断を強いられた者にはそんなジレンマしか無いんだよ」
流暢に事を語る内容には、目に見えないアーサーの力強さや傲慢さが感じられた。
「何が言いたいんだ」
「言っただろ、これはテストだ。だが口先では何とでも言える。実際に行動するのは別だ。行動は言葉よりも雄弁に語るってな。凪が決断を強いられた時には後悔が無い方を選べ、何せどちらも間違いだからな」
静かに向けられるアーサーの瞳には、嫌な光が宿っていた。
「……何を企んでるんだ」
「サプライズは話したら面白く無くなるだろ」
アーサーは何やら面白いものを見る目で凪を見ていた。
凪とアーサーが睨みあっていると、医務室の扉が開き、白衣を着た男性が出てきた。
ポルトガルの医者であるジョゼ・ヴェガ。ここではその医療の腕からドクターと呼ばれている。
身長はすらりと高く、色白な肌で男にしては長い黒髪を後ろで纏めている。ドクターの青い瞳が凪に向けられた。
「伊佐、嬢ちゃんがお呼びだ」
「分かった、今行く。じゃあまた相手してやるよアーサー」
「あぁまた相手にされてやるよ」
アーサーは手をひらひらとさせて、廊下を歩いて行った。
「それにしても随分あの子に好かれてるみたいだな、起き上がったと思ったら伊佐の名前を呼んだよ」
「ただ日本語が話せるからだろう。ところでドクター、代美に変わったところはあったのか」
人型の怪物には、殆どは人間と同じだが臓器など体の作りが違うものや、身体が変化する人狼の様なものもいる。
前者は見た目では分かりにくいが、後者は体の一部に特徴がある。
十中八九代美は前者だろうと凪は予測していた。
「そうだな、伊佐も知ってるとは思うが筋力が異常に高い。あとは額の包帯を外させてくれなかったんだ。まぁこれから血液とレントゲンとかを見るから、詳しいことは何とも言えないけどね」
「額に傷でもあるのか」
「恐らくな。女の子ってのは顔の傷を見られるのを嫌うからな。それより、ほら早く行ってきなよ。嬢ちゃんが待っている」
凪が医務室に入るとソファーに腰掛けている代美と目が合った。
代美が不安そうな顔から、一気に明るくなる。
「体調はどうだ」
「大分良くなりました、あのお医者さんにも水を貰いましたし」
テーブルの上には、水が三分の一程入ったコップが置かれている。
ドクターは冷蔵庫からボトルを取り出すと、テーブルの上に置く。
「特製のスポーツドリンクだ。血を抜いたばっかりだし、ここの環境にも慣れてないだろうから持っていきな」
「分かった」
テーブルの上に置かれたボトルを代美は不思議そうに見ていた。
「なんですかこれ?」
「スポーツドリンクだ。血を抜いた後だから、定期的に飲んどきなってさ」
「分かりました。そのありがとうございます」
ボトルを手に取り、ドクターに向けて一礼をした。
ドクターは爽やかな笑顔を浮かべて、「"De nada."」と短く返す。
「じ、なーだ?」
「ポルトガル語でどういたしましてって意味だ」
「へー、伊佐さんはポルトガル語も話せるんですね」
「有名な言葉しか知らないけどな。ここに居れば様々な言語が勝手に身につくさ。さてと、日が暮れる前に外を見て回った方がいい。立てるか?」
座っている代美に手を差し伸べる。
代美はおずおずと躊躇いながらもその手を取り、代美が立ち上がった。
「あの、その……ありがとうございます」
代美の顔がほんのりと赤くなった。
そんな二人を傍観していたドクターが笑い出した。
「ふっ、まるで父親と娘みたいだな」
「黙ってろドクター」
ドクターは椅子に座り、指で口の前にバツを作った。
だが、面白い物を見るような目で二人を観察している。
「日が暮れた頃にここに戻ってくるからな」
「……」
口の前でバツを作ったままそっぽを向いた。
その姿に、思わず凪はため息を漏らす。
「それじゃあ行くか」
「はい」
嬉しそうな返事が、医務室に響く。
ドクターに見送られながら、二人は医務室から出ていった。
―――――
本部棟を出ると体力測定を行った運動場があり、更に奥にはビルの様々なコンクリート製の建物が並んでいる。
運動場の東側には二重の金網があり、その奥にも建物や倉庫などがあった。
その金網には"WARNING"と赤色の標識が貼られている。
「あそこには何があるのですか?」
そう言って代美が金網の方を指す。
「そっちは軍事基地だ。危ないから近づかない方がいい。そうだな……まずは先生を紹介するか。学校に案内しよう」
「……学校」
その単語を聞いた途端に、表情が明らかに暗く曇る。
「行きたくないか?」
「あっ、いえ、大丈夫です」
ハッと自身の闇を隠すかのように、取り繕った笑みを浮かばせた。
「そうか。ここでは英語が主流だからな、代美にはまず英語を学んでもらう予定だ」
「勉強かぁ……」
代美は苦々しく笑む。
「まぁ、その気持ちは分かるが我慢してくれ」
凪は学校に向かって歩き始めた。
その後ろを、キョロキョロと辺りを見渡しながら代美がついて行く。
代美の目に入る物の殆どが目新しく感じられた。
道を歩いてる人々――基怪物は多種多様で、人に動物の尻尾が生えてる人型や、中型犬ほどの大きさで赤い毛で身を覆って四足歩行をする生物がいる。
しばらく歩くと、学校の入り口に到着した。
学校は大学のキャンパスみたいな作りで、研究室や資料館などが置かれている。大きさは本部棟とほぼ同じくらいだ。
そこでは学者が午前中にまだ幼い怪物に教育を行っている。
十五時過ぎの今は、大抵の学者は自由な時間だ。
凪は代美を連れてとある研究室を訪れていた。
研究室の中は本や資料が溢れており、壁には色々な言語が書かれた紙が壁紙みたいに埋め尽くしている。
「ヒルデはいるか」
凪がそう言うと、奥の方から何かが動く音がした。
音の方から出てきたのは、背丈の小さい女性だった。
無造作に伸びた茶色い髪が膝位まであり、気怠そうな目をしている。
彼女はドイツ人の学者である、ヒデル・マルティーニ。学校で語学や歴史を教えている学者だ。
更にヒデルは世界中の言語を学び、時折任務の通訳者を請け負うことがある。
一つ欠伸をすると、流暢な日本語で話しかけてくる。
「やあ凪。それから隣にいるのは……ガールフレンドかな? 私と言う人が居ながら罪な男だね」
冗談ぽく問うヒデルに、呆れたように凪が答える。
「この前話しただろ、日本から保護してくるって。代美、この人はヒデルだ。ここで俺以外に日本語を離せる数少ない人の一人だ」
「初めまして」
丁寧に代美が一礼をする。
「ほう、確か……月夜 代美だったか」
眠そうな目がゆっくりと開き、代美を捉えた。
代美の頭の先からつま先まで、隈無く眺めながらゆっくりと近づいていく。
すぐ目の前に来ると、ヒデルが代美の胸を鷲掴みにする。
「ひえっ」
いきなりの事で代美は自分が何をされたいるのか理解が遅れた。
「なるほど、C……いやDカップか」
「あの、ひっヒデルさん、んっ……何を、してるんですか」
代美は胸を揉まれてるせいで、艶めかしい声が漏れる。
「これはある国の挨拶だ、覚えておくといい」
「そうっなんですか……」
頬を仄かに紅めながら、吐息が漏れる。
そこへ凪が近づき、代美からヒデルを引き剝がす。
「淫行の為に偽りの挨拶を教えるな。てかどんな卑猥な国だ」
ヒデルは不服そうな目を向け、ため息を一つ漏らす。
「羨ましいからって無理矢理に離すことはないだろう。まあそう言う君の強引な所も私が惚れた一つだがな」
そう言って正気のない笑みを浮かべる。
凪はヒデルから甚く気に入られているようで、事あるごとに呼びつけられている。
時に冒険と称しエジプトの遺跡へ、時に買い物と称し中国の裏市場へ、時に旅行と称し国として認められていない地へ、そんな世界へ連れまわされていた。
「えっ、もしかしてお二人って……」
二人のやり取りを見て、仄かに頬を赤めた代美が二人を交互に見る。その目には「交際」という文字が浮かんでいるようだった。
「うーん、私はいつでもいいのだけど。彼がね。」
ヒデルはその後の言葉を濁して凪を見た。
それにつられて、代美も凪を見る。
「なんでですか伊佐さん!」
「なんでって、俺は軍人だ。いつ命を落とすか分からないし、ずっとここに居るわけじゃない。だから大切な人なんて作りたくないんだ。俺はいつでも死ねる人間でいたい」
「伊佐さん……」
代美は複雑そうな顔で、目を泳がせた。
薄ら笑いでヒデルが伊佐に問う。
「流石日本人は建前が好きだな。それで本音はどうなのだ、いつでも死ねる軍人様」
「お前みたいな変人とコンビを組んだら、俺まで白い目で見られそうだ」
「はっはっはっ、代美ちゃんこういう事らしいのでね」
ヒデルが豪快に笑い、代美がむすっと膨れる。
「ちょっとロマンチックでカッコイイと思って損した」
「凪はそんなやつだ」
息を吐くようにヒデルが呟く。
「そんなやつで悪かったな。一先ず、ヒデルには代美に英語を教えてあげて欲しいんだ」
「あぁいいとも。まあ、私としては英語だけに限らず色々な事を手取り足取り教えてあげたいのだけれど」
指を厭らしく動かしながら、代美へと近づける。が、凪に腕を掴まれてしまった。
「何を教えようとしてるんだ」
「ナニって、世界の歴史や文化だよ。私はそちらにも明るいからね。凪は一体どんなことを想像したのだろうねぇ」
嘲笑で歪めた目を凪に向ける。
「はぁ……お前は何をしでかすか分からないからな。とにかく、教えるのは英語だけでいいからな。それじゃあそろそろ別の場所に行こうか代美」
「えー、もうちょっとここに居てもいいのだよ。まだお茶も出してないし、喉渇いたでしょ代美ちゃん」
ヒデルが代美に抱きつき、足止めに入る。
「代美にはドクター特製のスポーツドリンクを持たせてある。それに日が暮れたら本部に戻らないといけない」
代美の手には水筒の様なボトルが握られている。
それを見て仕方なさそうにヒデルが離れた。
「はぁ分かったよ、代美ちゃんまた来てね。その時には英語を教えてあげよう」
「はい、お願いします」
そう言ってヒデルに一礼すると、研究室から出ていく。
凪が扉御出る前にヒデルの方を向く。
「じゃあな」
「今度来るときははお菓子の一つくらい持って来てよね」
「考えとく」
二人が言葉を交わすと、扉がゆっくりと閉められた。
それを確認すると、ヒデルから肩の力が抜ける。
「相変わらず優しい野郎だな、凪は」
密かに心の底から微笑みながら、しまった扉は暫く見つめていた。
「さてと、いつでも代美ちゃんが来てもいいように部屋の片づけしとこうか」
気持ちを切り替えて、ヒデルが片づけを始める。
しかし十分後には読書タイムになっていることは、いつも通りのことであった。
――――
学校を出ると、少し歩いたところの寮に立ち寄った。
寮と言ってもホテルみたいな造りで、同じような建物が三つ建てられている。
寮に入り、一室の扉を凪が開く。
鍵はカードロックシステムで、カードをかざすとガチャリと音を立てて扉が開いた。
「今日からココが代美の部屋だ、好きに使っていい。もし足りないものがあったら言ってくれ、出来る限り用意しよう」
「えっこれが私の部屋?」
「なんだ、気に入らなかったか。なら別の寮を準備しよう」
「いえ、その、大丈夫です。むしろ大丈夫すぎです」
そういってカードの鍵を受け取り、靴を脱いで代美が部屋に入ろうとするが、片足を脱いだところで身体をピタリと止める。
「あっ、外国では靴を脱がないんだっけ」
「その辺は代美の自由にするといい。別に米国でも靴を脱ぐ家庭はあるし、ここでは俺も自室では靴を脱いでるからな」
「そうなんですか! ってきりアメリカの人とかは皆靴を履いて家に入ると思ってました」
意外そうに代美が靴を脱いで部屋に上がる。それに習って凪も部屋に入った。
玄関を上がると廊下があり、すぐ横にはバスルームとトイレがある。
バスルームの反対側にも部屋があり、そこはベットやクローゼットがある寝室になっているが、代美が住んでいた家の自分の部屋よりも二倍くらい大きい。
廊下の奥はリビングになっていて、ダイニングとキッチンが広々と用意されている。窓からはこの島と海の美しい景色が一望できる。
家具や電化製品は充実しており、テレビはもちろん電気ケトルや空気清浄機なども用意されていた。
代美の手には余るほど、充実した部屋だった。
「凄い、豪華なホテルみたい」
瞳を輝かして、部屋の隅々まで見て回る。
代美は旅行に行ったこともないが、パンフレットなどを見てはこんな部屋に憧れを抱いていた。
気分はハワイにでも旅行に来たみたいだ。
「本当にここを自由に使ってもいいんですか」
「あぁ、壁紙とかも言ってくれれば手配する。とりあえずは気に入ってくれたみたいでよかった」
そう言って凪が微笑む。
「まあ部屋は後でゆっくり見るといいさ、次はちょっと森の中に入るか」
「はい!」
威勢のいい返事をし、代美は凪の後を追うように自分の部屋をでた。
森は寮から出て、少し歩いたところにある。
入り口付近には畑やビニールハウスがあり、ここで食料などが作られている。
森に入ると道は石畳で舗装され、森と言うよりも植物園の様な雰囲気。
葉っぱの屋根で日陰になっているので、ひんやりと涼しく心地がいい。
木々の隙間からは羽の生えた豚や、足が八つ生えた何にも例えられない動物などが顔を覗かしていた。
そんな怪物たちに代美は時に目を輝かせ、時に目を逸らして怯えていた。
暫く歩いていると、一軒の小さなログハウスが見えた。
傍には小川が流れており、家の周りには綺麗な花畑が広がっている。
その花畑や小川にはホタルに似た小さくてキラキラしてるものが浮遊している。
まるで森の住人の隠れ家だ。
小さくてキラキラしたものが三つほど凪と代美に近づいてくる。
段々と近づいてくると代美はその正体を理解した。
そして代美の瞳もキラキラと輝く。
「妖精だぁ」
羽の生えた小さな人、妖精だった。
妖精は飛び回り、小さく笑う。
「管理人さん管理人さん、私たちと遊びに来たの?」
「その子は新しい管理人さん? 私と一緒に遊ぼうよ」
妖精達は凪などの職員のことを、基本的に管理人と呼ぶ。
知能が幼児程しか無いので、一人一人の名前を覚えるのがとても難しかった。
なので妖精達にも名前は無く、お互いの事を英語で話す時は”Friend”と呼んでいる。
ただし例外はあり、凪などの軍人を兵隊と呼ぶ妖精や、ヒデルなどの学者を先生と呼ぶ妖精も居る。
「新しく保護したこの子に島の案内をしているんだ。アヴァンは中に居るか」
アヴァンはフィンランドの男性で、植物の言葉が分かる特異体質の為ここで保護された。
今はここで森の管理を任されている。
「アヴァンは森の長の所に行ったよ、暇だから私たちが案内してあげるよ」
「あぁそうだな、時間は十分あるし頼むよ」
森の長とは、さらに森の奥にある巨大なオークの木のことで、人の魂の宿っている。
アヴァンが言うには、その木を育てていたお爺さんが死後木の根元に埋められたらその人の魂が宿ったようだ。
妖精と会話をしている凪を不思議そうな顔で代美が見ていた。
「伊佐さんは妖精の言葉も分かるんですか?」
「いや、妖精にも英語を学んでもらったから会話はできるんだ。ただ妖精同士で話すときは何ってるかサッパリ分からないけどな」
「へーそうなんですか」
代美がまじまじと妖精を見た。
それに気が付いた妖精は、代美の鼻先を指で優しく突く。
「"Hello"」
「ハ、ハロー」
急に近づいたことに驚きながらも、不器用な挨拶を返す。
「"Hey,where are you from.?"」
「"Nice day to fly around.Let's hang out!"」
「えっ?」
一気に話しかけられて、代美は戸惑って居た。
その様子を妖精はクスクスと笑っている。
「可愛い子ね、食べちゃいたい」
「あんまりいじめるなよ」
凪が目を細めて忠告する。
「あら私たちはちょっと遊んでるだけよ」
「そうそう、苛めるなんて悪いこと妖精はしないわよ」
一匹の妖精が腕を組んで頷く。
しかし妖精は悪戯好きな個体が多く、急に現れて驚かせてきたり、服を引っ張ってきたりする。
可愛い悪戯ばかりだが、怪我をする可能性もあるので注意が必要だ。
「それじゃあ森の長の許へ行きましょうか」
一匹の妖精が腕を頭の上に挙げる。
「さんせーい」
「散歩だ!」
他の二匹の妖精もそれを真似て、腕を頭の上に挙げた。
妖精三匹が先導して森の中へ入った。その後ろを凪と代美がついて行く。
妖精たちが木の隙間をひらひらと華麗に飛び回り、代美と凪は獣道を歩いていた。
遠くからは川のせせらぎや、妖精たちの話声が聞こえてくる。
代美は幼い頃に読んだ絵本の中に迷い込んだみたいで胸を躍らせた。
森は一層深くなり、冷たい空気が肌に触れる。
木々の隙間から目的地が見えてきた。
そこへたどり着くと、開けた場所で、巨大なオークの木の周りを無数の妖精が飛び回っている。
そんなオークの根元にアヴァンが腰掛けていた。
背が低く、長いベージュ色の髪を三つ編みにして、フード付きのパーカーを着ている。
華奢な体付きで、男性なのに可愛らしい容姿をしている。
これで耳が尖っていたら現実世界に遊びに来た男エルフだ。
彼は凪たちの姿を見ると、にこやかに手招きをする。
「やあ凪、それから……」
「新しく保護した月夜 代美だ。今この島を散歩してて立ち寄ったところだ」
「へー、日本の子か。始めまして、気軽にアヴァンと呼んでね」
そう言ってアヴァンは握手を求めるように手を差し出した。
代美はアヴィンの手と凪の顔を交互に見る。
「彼はアヴァンだ。この森の管理をしている。挨拶に握手をしたいって言ってるよ」
「あっはい」
代美がアヴィンの手を取り、握手を交わす。
「悪いな、彼女はまだ英語が話せないんだ」
「そうなのか、お話できないのは残念だね」
悲しそうな笑みを代美に向けた。
手を離すと、妖精たちがアヴァンの周りを飛び回り、フードを引っ張っている。
「ねぇアヴァン、遊ぼうよ遊ぼうよ」
「そうだねもう帰ってお茶にしようか。森の長、また今度来るよ」
アヴァンは振り返り、オークの木の根を優しく撫でる。
するとオークの木の幹の割れ目が動き出し、声を発した。
「何だもう行ってしまうのか、悲しいのう」
「ごめんね、また栄養剤持ってくるから」
突然木が話し出したことに、代美は震えた指をオークの木に指す。
「木がしゃべった……」
「あの木は森の長って呼ばれてる人の魂が宿った木だ、あれも怪物の一つとして保護してる」
「人の魂が宿った木ですか」
代美は森の長をジッと見つめていた。
それに気が付いた森の長は、幹の割れ目を歪ませて笑顔らしき形を作る。
「やっぱりちょっと不気味かも」
ぼそりと呟き、引きつった笑みを代美は浮かべた。
その後、森の長が居る広場からアヴァンを先頭に小屋へ戻っていった。
小屋の中はワンルームで、本棚やキッチン、テーブルと椅子などがある。
天井から吊るされたランプがそれらを明るく照らしてた。
ログハウスだからか、ほんのりと木の香りがして落ち着く空間だ。
数十匹の妖精がフラフラと部屋の中を飛んでいた。
アヴァンは紅茶を淹れてクッキーを出すと、妖精たちがクッキーに群がってた。
「そう焦らなくても一人一枚あるよ」
クッキーは妖精たちの顔くらいの大きさで、一枚食べれば十分に満足できる。
そんなクッキーを妖精たち嬉しそうに貪っていた。
妖精たち微笑ましく見つめ、凪の方を見る。
「その子にも食べさせたあげてよ」
代美は妖精たちが群がる皿を、静かに見つめていた。
「代美もクッキー食べるか」
「食べてもいいんですか?」
「アヴァンが食べて欲しいってさ」
代美がアヴァンの方に向き、小さく一礼をしてからクッキーに手を伸ばした。
「いただきます」
クッキーを一口齧ると、口の中に優しい甘さが広がり解けていく。
思わず代美の口元が緩んでしまう。
「凄く美味しいです!」
「好評みたいだ」
「そんな表情をされると、作り甲斐があるよ。シマリスに餌をあげてるみたいだ」
二人が話をしてる間にも、代美は持っていたクッキーを食べ終え、また一つ手に取る。
嬉しそうに頬張る代美を見ていた凪の口元までも緩んでいた。
暫く代美は妖精とのティータイムを楽しみ、凪とアヴァンは森についての事務的な話をしていた。
森については、備品や入り口の畑、それから森に住む妖精などの怪物たちの話で、特に変わった様子はないらしい。
時計を確認し、凪が立ち上がった。
「そろそろ移動しよう代美」
「わかりました、それじゃあね妖精さん」
代美は妖精たちに別れを告げ立ち上がった。
どこかへ行ってしまうことを察した妖精たちは、表情を曇らす。
「えー、もう帰っちゃうの」
「もっと遊ぼうよ、遊ぼうよ」
妖精たちは子供の様にごねて、代美の服を引っ張る。
「こらこら、あまり困らせるんじゃない。あんまり我儘言うと次からおやつは無しだよ」
「「はーい」」
アヴァンに注意された妖精たちは渋々代美から離れていった。
まるで母親と子供たちを見ているみたいだ。
「俺たちはそろそろ別の場所へ行くよ、紅茶とクッキーありがとな」
「またおいで、今度はケーキでも作って歓迎するよ」
そう言って玄関で妖精たちと共に、二人を見送った。
―――――
森を出る頃には太陽は西へと傾き、空が紺色から茜色へグラデーションを作りながら染まってく。
日が沈む前に凪は海を訪れていた。
海からは柔らかな風が吹き、静かな波の音が聞こえてくる。夕日に照らされて水面がほんのりと赤い。
永遠には続かない風景はどうしてここまで美しいのだろうか。
そんな海の光景に代美はすっかり魅了されていた。
「綺麗」
そう短い言葉を溢すので精一杯だ。
横では凪が軽く身体を伸ばし、肺一杯に空気を吸う。
「うーん、海の匂いだ。いい匂いだぞ、代美も嗅いでみな」
それを聞いて代美も鼻から空気を吸う。
だが、心地良さそうに目を閉じる凪とは反対に代美は顔を顰めた。
「ちょっと変な臭い」
「その変な匂いがいいんだろ」
「うーん」
もう一度、海の香りを鼻から吸い込む。
「やっぱり変な臭い。でも、嫌な臭いじゃない……かな?」
「そうだろ」
しばらく、二人は静かな海の空気に包まれていた。
微かに聞こえる波の音や鳥の声、夕日の眩しい光、海の変な香り。
そのすべてが愛おしく思えてくる。
「少し聞きたいことがあるんだ」
そう凪が聞いてきた。
「なんですか」
代美が海の遠くを見つめながら返事をする。
「五年前の事件についてなんだが」
「えっ」
その言葉に啞然と凪を見た。今まで幻想的だった心が、一気に崩れて嫌な記憶が頭の中を過る。
なぜ凪が知っているのか、どれ位知っているのか。
不安や恐れ、そんな感情が胸の中を渦巻く。
「実は事前に代美の事を調べさせてもらってたんだ。生まれや家族関係、それから五年前の『病院送り事件』についても」
病院送り事件。
五年前に小学生六年生の男子児童が同クラスの女子児童に悪ふざけをして喧嘩になり、末に男子児童が病院送りにされた事件。
男子児童は女子児童により頭を殴られ、気を失って重症。
すぐに男子児童は病院に運ばれて一命を取り留めたが、重い後遺症が残った。
報道規制により名前は公表されていないが、その女子児童が月夜 代美だった。
「知ってたんですか……」
「悪いがそれも仕事なんだ」
怪物を保護するためには怪物を知る必要がある。だから事前に代美についての事を調べてあった。
凪は優しい瞳を代美に向ける。
「辛いかもしれないが、その時の事を詳しく話してくれないか」
「……あまりいい話じゃないですよ」
代美は自身の腕を強く握る。
薄々感じてはいた。この人だったら話してもいいのではと。
出会って数時間しか経っていないのに、なぜか凪の事は信用できた。
いや、信用するしかなかった。
周りで意味も分からない英語を話してる中、日本語で通訳をしてくれて、色々な事を教えてくれる。
そんな人の言葉を代美は信じるしかなかった。
代美はゆっくりと口を開いた。
「私はお母さんに言われて極力人を避けてきたんです。私は力が強すぎるから、人を傷つけるから、……人とは違うからって。だからずっと教室の隅で本を読んで、話しかけて来る人を突き放して、なるべく関わらない様にって」
湧き出てくる感情を抑え込みながら話し続ける。
「でも、クラスメイトの男の子が私に話しかけてきたんです。始めは他の子と同じように突き放してたんです。でもその子はしつこく話してきて、だから私は無視をしてたんです。そしたら私の筆箱を奪って『返して欲しかったら奪い返してみろ』って」
手に力が籠る。
だが手の中だけじゃ留まらなく全身が力む。
凪は黙ったまま代美の話を聞いていた。
二回ほど呼吸をしてから、代美は再び話し出す。
「その筆箱に付けてた熊のストラップはお母さんがくれたもので、私は御守りみたいに大切にしてたんです。それが取られたから、取り返そうとしたら……男の子が筆箱を窓の外に投げて」
舌を動かして乾いた口内を唾液で潤す。
「そしたら理性が保てなくなって、体が勝手に動いて、顔を殴っちゃって……男の子から血が出てきて倒れて、床に血が広がって、周りから恐ろしいものを見るような目で見られて、もう頭の中が真っ白のなっちゃって、何が何だか分からなくって、その場から逃げるみたいに私も気を失って」
少し強くなった海の風が目にしみる。
一度大きく目を瞑ると、視界がボヤけていた。
何かが頭に上っていく感覚。話にも力が籠っていく。
「目が覚めたら保健室のベッドで横になってました。起き上がったら窓から赤い光が見えて、遠くからは救急車のサイレンの音が聞こえて、私がやった事を思い出しました。それで手には殴った時の嫌な感覚が残ってて……。なんで自分がこんな目に合わなきゃいけないんだろうって」
自分が普通じゃないから。
自分が怪力だから。
自分が怪物だから。
望んでもない力があるせいで、人を傷つけた。
「皆がその男の子を憐れんで、皆が私を虐げて。それから人の視線が怖くなって家に引きこもるようになったんです。お父さんとお母さんはそのことが原因で離婚をしましたし、お母さんもその後に病気になって、私は祖父母の家に預けられました」
大きく息を吐くと、潤んだ瞳を拭い、凪に向けた。
「つまらない話ですよね。もしかしたらその男の子死んでたかもしれないんですよ。そしたら……私は人殺しの化け物ですよ」
代美は似合わない愛想笑いをした。
満面の笑みとは程遠い、花畑に取り残された一輪の花みたいな悲しいげな笑みを。
凪は一歩だけ近寄ると、右手を代美の頭の上に置いた。
「ごめんな」
そっと呟く。凪が持つ全ての優しさを込めて。
「えっ」
「もっと早く保護できればそんな思いせずに済んだのに」
凪は優しく代美を抱き寄せて頭を撫でる。
「辛かったよな。代美は悪くない、代美は悪くないんだ」
暖かく宥める凪の声が心にまで沁みていく。
奥底に隠していた感情が溢れてくる。
「もう誰も代美を虐げたり責めたりしない。きっとここで友達だって出来るさ。そうだ、まずは俺と友達になろう。って言っても俺みたいなおっさんと友達は嫌か」
冗談交じりに凪が小さく笑う。
代美は目尻が熱くなり、凪の服を握り締め、額を凪の胸にくっ付けて体重を預ける。
かなり強い力で服を握り締めているのか、凪は腹部は僅かに圧迫されていた。
「なんでっ……なんで、そんなに優しいんですか」
濡れた声で、途切れ途切れに代美が言う。
「なんで私が言ってほしい事を全部っ……全部言ってくれるの」
代美の瞳からは涙が溢れていき、頬から垂れ落ちると砂浜に消えていった。
今まで抑えてきたものが、噴き出てきて我慢できなくなる。
鼻を啜る度に涙と海の匂いがしてくる。
「言っただろ、俺にとって代美は家族も同然なんだ。どれだけ強かろうが、普通じゃなかろうが、関係ないさ。それに代美の気持ちは良くわかるからな」
「うっぐ……」
凪の優しく声が、余計に涙を誘う。
「沢山のことを我慢して、一人で抱えて、大変だっただろ」
「んうっ……」
何かを言おうとしたが、嗚咽で上手く出てこなかった。
「代美は頑張った。よく頑張った」
「うぐっうっうわああああ…………」
我慢できなかった気持ちが叫びになって体の外に出ていく。
その叫びは広大な海へと響き渡った。
わんわんと泣き続ける代美の足元の砂は少し湿り始めている。
今まで感じていた事、抱えてきた事、それらすべてを凪は受け止めてくれた。
皆が私を責めたのに、凪は褒めてくれた。
自身の事を理解してくれた。
それらの嬉しさで胸が満ちていく。今までの辛さが胸から薄れていく。感情が渦巻いて高まって涙が止まらなかった。
涙が尽きる頃には、太陽の半分が海に飲まれていた。
袖で瞳に溜まった涙を拭うと、凪から離れる。
「その……ありがとうございます」
「いや、礼を言いたいのは俺の方だ。正直に話してくれてありがとな」
柔らかい笑みを凪は浮かべた。
「何だか凄く楽になりました」
重りが無くなったみたい体までが軽くなる。心の中の雲は消え、晴れ渡っている。
「さて、そろそろ日が暮れるし本部に戻ろうか。今日は結果を聞いて、その後はゆっくりと休みな」
凪が歩き始めた。
「あのっ」
それを代美が引き留める。
「どうした」
「その、さっき言ってた事……」
口をもごもごと動かし、言葉を探す。
「友達に、なってくれるって……」
その言葉を口にすると代美は全身が熱くなってくる。
恥ずかしい。そんな羞恥心が血液を巡って、全身に広まっていく。
でも、それでも凪が友達になろうと言ってくれたのが嬉しかった。
凪は目を丸くして代美を見ると、クスクスと笑い始めた。
「ちょっと、なんで笑うんですか!」
「いや……悪いな。そっか友達か、こんなおっさんと」
「ダメですか」
涙で濡られ赤らめた瞳に、凪は断る理由が見当たらなかった。
「ダメな訳がないだろ、今から俺と代美は友達だ」
そう言って凪は代美に手を差し出した。
「はい!」
その手を代美は徐に握り、握手を交わした。
花畑に取り残された一輪の花は、暖かな男性に摘み取ってもらい満開の笑みを咲かせていた。
―――――
日は海に沈み、空には月が上っている。
海を後にした二人は、本部棟へ戻ってきていた。
医務室の前まで来ると、中から二人の声が聞こえてくる。
一人はドクターだ。語勢を強めて何かを訴えている。
そしてもう一人はアーサーだ。圧力のある声と言葉で鎮圧しようとしている。
「なぜだアーサー!」
「なぜだ? この結果を見て理解できないのか」
「だが敵対する様子はないじゃないか。なのに――」
二人の話に割って入る様に凪が医務室の扉を開いた。
凪を見たドクターは小さな驚きを見せ、アーサーは小さく笑う。
「何を揉め合ってるんだ。廊下まで聞こえてたぞ」
「それなんだがアーサーが……」
「丁度いいタイミングに帰ってきたな。そのお姫様の検査結果が出てるからお前も見てみろ」
アーサーはドクターが言い終える前にかぶせて話し出した。
手には紙が数枚握られており、それを凪に向けて揺れ動かす。
ドクターが報告用にまとめた代美の診断書だ。
文字が並べられた資料が三枚。脳や身体のレントゲン写真が五枚。
凪はそれを受け取り、流し読みをし始めた。
書かれていることは代美の血液型や身長と体重。その他は殆どが医学的な文字列だ。
資料の三枚目を読み始めると、とある一文に目が止められた。
『"she is ogress."』
オーグリス。
伝承や物語などで登場する凶悪な人型の怪物、オーガの女性の事だ。
日本だと鬼女として訳されることが多い。
頭部のレントゲンを見ると、額に妙な突起物が折れた痕跡があった。
額に巻いていた包帯はこれを隠していたのだろう。恐らく折るなり削るなりして、このことを隠していた。
オーガはヨーロッパでは人喰いとして恐れられており、Mother of Monsterで処分対象とされている。
現にこれまで発見された二名のオーガは全て殺していた。
つまりは、この結果は代美を処分することを指している。
凪が紙から目を離しアーサーの方を見ると目が合った。
「読み終わった?」
「……流し読みだがな」
「十分だ」
お互いが沈黙する重苦しい時間。
何を話しているか分からない代美でも、息苦しさを感じるほどの空気だった。
凪とアーサーは目と目を合わせて何かを詮索する。
嵐の前の静けさ。これから争いでも始まりそうだ。
先に動きを見せたのはアーサーだった。
「おい凪。そんなに見つめるなよ、気持ち悪い」
目尻を下げて、ほんの少し口角を上げる。アーサーの嫌な笑みだ。
凪はそれでも黙ってアーサーを見続けていた。
するとアーサーの顔から一瞬にして笑みが剝がれ落ち、隠されていた表情が露になる。
凍りついた表情。冷たくて酷な、人に有無を言わさない力がその表情に込められていた。
「早くその娘から退けよ。そいつは処分対象だ」
一瞬、凪の息が詰まった。
想像してた通りの言葉だ。
一度後ろに居る代美を見ると、不安や恐怖を混ぜた顔で凪を見ていた。
その顔を見た途端、自分の中で決意が固まった。
代美を、年の離れた友人を守らなければと。
「マザーの判断か?」
「俺の判断だ。これは俺に一任されている」
今回の任務はアーサーが全てを任されていた。
だから保護するか処分するかはアーサーが決めることだった。
それら全てを一任するほどアーサーはマザーから信用されていた。
「納得ができない。代美は人を食した事もなければ、人を殺めたこともない。なのに殺すのはおかしいだろ」
「五年前にクラスメイトの男子に重度の怪我を負わした。それも死の一歩手前の怪我だ。彼は現在も頭部外傷性認知症に悩まされている。怒りで人を殴っただけで人の人生を狂わせた。これが人に害をなすとは考えられないか?」
「あれは事故だ。代美は自身の力を理解し、抑えてきた。自身の力に溺れるような奴らとは違う」
「いいや、その娘は自身の力を理解していない。お前も知っているだろ。オーグリスは人喰いだ。人肉を喰らうことは至上の幸福であり、自身の力を強めていく。一度でも人の肉の味を知れば、もう普通の人間と同じような暮らしなんてできないだろうな」
「っ、それでも敵意のない怪物を保護するのが俺たちの役目じゃないのか!」
自然と声に力が宿っていた。
圧倒的に不利なのは凪なのが目に見えて分かる。アーサーの言っていることは正しい。
もし代美が人肉を食べたら自我は保てないだろう。
アーサーが眉間に皺を作り、目を細めて凪を見た。
「お前、その娘に同情してるんだろ。それで庇ってるのか」
「……」
即座に否定できなかった。
その無言は肯定を意味する。
「柔道の鬼才として幼い頃は英雄だったが、大会で強引に投げてしまい大怪我をさせた。それからは恐れられ、怖がられ友人なんてものは居なかった。ほとんど同じ境遇じゃないか」
「俺の事は関係ないだろ」
凪の中で苛立ちが込み上げてくる。
「過去の自分を重ねちまって、その娘を守ろうとしてるんじゃないのか」
「違う」
「そうして守って、優しくして、結局は自分の過去の傷を癒そうとしてる」
「違う!」
凪は声を荒げ、アーサーを睨む。怒りや憎悪を宿らせた瞳が光っていた。
「伊佐さん……」
後ろから驚きと恐怖で震えた代美の声が聞こえてくる。
幸か不幸か代美に話の内容は伝わっていない。だがこの状況が良くないものだとは理解ができた。
明らかに怯えている代美を見て、自分が怒りを感じていることに気が付いた。
冷静になるために小さく呼吸を繰り返す。
「大丈夫だ、心配ない」
そう言い聞かせて落ち着かせる。不安がってる代美を、頭に血が上っていた自分を。
熱くなった体が冷めていく感覚。でも体の内側には熱が籠っていた。
アーサーは凪を咎めた鋭い眼を向ける。
「下手な感情移入はやめておけ、損するのはお前だ」
「言いなりになっても得はしないだろ」
「オーグリスを処分するのは規則だ。寧ろ今すぐにその娘を殺す事が凪の仕事だろ。それに駄々言ってるのはお前だ。仕事を遂行するのが言いなりだと? 敵を殺す、少年兵でも言われずにやる事だ」
「俺はアーサーの判断に納得できないって言ってるんだ。確かにオーグリスは処分対象だが、悪心の無い代美を保護する事は可能だろ」
「確かに可能かもな。だが保護するかどうかを判断するのは俺だ、お前では無い」
「ぐっ…」
それを言われたら凪は何も言えなくなる。
何を言おうがアーサーの理不尽な力にねじ伏せられてしまう。
困窮している凪を見てアーサーはため息を一つ漏らした。
腰に巻いたガンホルダーから自動拳銃を取り出すと安全装置を外しトリガーを引いて、銃口を凪に向けた。
「ひっ」
代美は小さな悲鳴を上げた。
「もういい、最後の忠告だ。その娘から退け、さもないとお前が裏切り者になるぞ」
それはアーサーの脅しだった。
怪物を扱ってるため、スパイや工作員などが暗躍している場合がある。
そういった裏切り者は見つけ次第に処分したり、縛り上げて尋問を行い情報を引き出してから始末したりする。
退かなければお前も殺す。そうアーサー銃口が語っていた。
「おい、いい加減にしろアーサー! ここは血を流す場所じゃない」
ドクターがアーサーに組み付こうとするが、当然の如くそれを受け流した。
「これはジョゼが口だしすることじゃない」
「凪は間違えたこと言ってないはずだ。何も処分せずにしばらく監視して様子を窺えばいいだろ」
アーサーを睨むが、その視界にドクターは入っていない。
「黙ってろ、お前も始末書じゃ済まないぞ」
威圧的な声にドクターは何を言っても無駄なことを悟り、空気を噛んだ。
「それでどうするんだ凪。お前はこんなところで無駄死にするやつじゃないだろ」
「……」
代美を庇うことをアーサーは無駄死にと言っている。
そのことに凪は心の中に静かな怒りを感じた。
思考を巡らせて、この状況の打破を考える。
最初に思いついたのはマザーに直接話をすることだ。
しかし、今回の一件はアーサーに任されている。マザーに話したところで、アーサーの決断に傾くだけだ。
次に思いついたのは、代美を連れてここを逃げる事だ。
だが、それも思いつくと同時に不可能であることも悟る。
ここは海の真ん中にある小さな島だ。移動手段は飛行機や船、空か海の二つに限られている。
どちらも利用するのにいくつもの関門があり、逃げたところでそこで捕らえられてお終いだ。
それにここから出ようとするならアーサーは問答無用で撃ってくるだろう。
ではアーサーに立ち向かうのはどうだろうか。
だが、向けられた銃口が有無を言わさずに拒否をしていた。
少しでも変な動きをすればアーサーに引き金を引かれる。
最後に考えてしまったのは、代美をアーサーに差し出すことだ。
そうすれば自分の命は助かるだろう。だが代美は守れない。
この先、自分が守れなかったと一生後悔するだろう。
頭を働かして考えるほど何も思い浮かばなくなる。
心臓の鼓動が脳まで揺らす。全身に血が巡って体が熱い。
逃げる事も立ち向かう事もできず、代美を守れない自分の無力さに悲観する。
代美を見捨ててまで生きたいと考えてしまっている自分に失望する。
凪が立ち尽くしていると、小さな影が横切ってアーサーとの間に割って入る。
それの小さな影は代美だ。
「やめてっください」
怯えた声で、震える瞳で、勇敢に恐怖に立ち向かっている。
「なんて言ってるか訳せ」
アーサーは銃口を代美に向けた。
凪は言われたように、代美が言っていることをそのまま英語に翻訳する。
「伊佐さんは、悪い人じゃないです。私に色々教えてくれましたし、凄くいい人なんです……」
頭が真っ白な中、浮かんだ来た言葉をそのまま言う。
目の前にいる人の顔が見えない。あの銃に撃たれたらきっと死んでしまう。
そんな恐怖心が代美の体を凍らせる。
「お願いです、伊佐さんを撃たないでください。伊佐さんは、私の……私の初めての友達なんです」
凪は思わず口を閉ざしたが、アーサーに睨まれ英語に訳した。
それを聞いたアーサーは息を大きく吸い、長く吐き出す。
アーサーがただ一点、代美の目を見続ける。
「クッ……」
そんな言葉にならない言葉を漏らすと、ゆっくりと構えていた自動拳銃を下ろしていく。
凍り付いた表情から一転して、アーサーは哄笑し始めた。
「クハハハ、友達!? この嬢ちゃんとお前が……友達って。最高な笑い話だ」
伊佐達はアーサーの温度の変化に、驚きが隠せなかった。
そんな事を構う事なく、アーサーは愉快に笑い声を上げている。
「友達……そうか友達ときたか」
そう呟くと、ゆっくり代美に歩み寄る。
凪が警戒したが、アーサーから殺意は感じられなかった。
代美の前に立つと、柔らかな笑みを浮かべた。そこには冷たさや気味の悪さもない純粋な笑み。
何が何だか分からない代美は、ただ唖然とアーサーの顔を見る事しかできなかった。
「怖がらして悪かったな。凪がいいやつだってことは俺もよく知ってるさ、なんたって仕事よりも嬢ちゃんを選んだんだ。仲良くしてやってくれよ」
言葉の内容は伝わらない。だが、代美からは自然と恐怖が消えていた。残ったのはアーサーに対する驚きだけだ。
「おいアーサーどういうことだ」
凪の痺れを切らした問い。
「気が変わった、その嬢ちゃんは保護する」
「は? なんで急に」
「だから気が変わったって言っただろ。と言っても問題が起こればあっちも考えるがな。あぁこれ武器庫に返してきてくれ、弾は入ってないからそのまま置いとけばいい。俺はこの後、嬢ちゃんに関する資料をまとめないとだからな」
そう言ってアーサーが自動拳銃を手渡して、凪の横を通り過ぎて医務室から出ようとする。
「ちょっと待てよ、弾が入ってないって……」
「お前との『テストの答え合わせ』楽しかったぜ。やっぱり行動は口よりも正直だな」
それだけ言い残してアーサーは立ち去った。
凪は受け取った自動拳銃のマガジンキャッチを押し、マガジンを確認するが一発も弾が入ってない。
スライドを引くが弾は無く、ホールドオープンしても見当たらない。
あの時、弾も入ってない銃に怯えていた。
「クソが……」
凪は苦笑いをしながらソファー座った。
先ほどのアーサーの口ぶりからして、代美を殺す気はなかった。
いや、凪があの決定を反対していなかったら、代美は処分するつもりだった。
オーグリスは処分対象であり、保護するのは危険と考えられている。それを保護するには、余程の覚悟が必要とされる。
凪の決死の反対をさせて、その覚悟を試していたのだろう。
「またアーサーの悪戯か。完全に掌の上で踊らされたな」
凪が思ったことをドクターが代弁した。
「今度マザーに言いつけてやる」
凪はため息をつくと、放心状態の代美に目を向けた。
「おいで、何があったか話してやるよ」
戸惑いながらも代美はソファーに座り、凪からさっきの出来事を説明された。代美がオーグリスである事。何を言い合ってたのか。そしてアーサーの悪戯についても。
「じゃあ私は、その……オーグリスって危ない怪物なんですね」
代美は少し暗い顔をした。
「あぁ、だがそれは悪心のある怪物だけだ。代美は人の肉なんて食べたくないだろ」
「絶対に食べたくない。それに私はお肉よりも野菜の方が好きですよ」
「随分と健康的だな。だがもっと肉を食べたほうがいいんじゃないのか?」
代美の体を見る限り、割と細身な体だ。
胸もお世辞でも豊かとはいえないほどスッキリしている。
視線を代美の顔に向けると気色ばむ。
「伊佐さん、最近ではそれもセクハラになりますよ」
「あっ、いや、そういうつもりで言ったわけじゃないんだ。えっとだな、ここには美味い肉も取り寄せててな……」
困惑した様子で頭を掻き、訂正の言葉を探す。
そんな凪を見て、代美がクスリと笑った。
「食事のお誘いでしたらいつでも歓迎ですよ?」
まじまじと代美を見ると、耳は真っ赤になって口を固く閉じていた。
言った後に恥ずかしくなってしまったのだろう。
凪は大人の余裕かのように微笑む。
「ここには美味しい肉と野菜があるんだが、是非とも案内させてくれないか?」
「はい、行きたいです!」
その代美の笑顔はとても危険なオーグリスとは思えなく、可憐な少女そのものだった。
食堂に行き、二人は日本産のステーキと採れたての野菜を堪能した。
代美は疲れていたのか、部屋に帰るとすぐにベットで寝てしまった。