第35話 ジェイラル皇后宮の毒
ハエリス公爵が皇子宮に行って以来、私は魂の抜けたミイラのように数日間、ぼんやりして過ごしていた。
グレース皇子も、彼の兄のハエリス公爵が訪れた後、魂が抜けたようにぼんやりと毎日を送った。
何が起こったのか何度も彼に尋ねたけど、グレース皇子はおどおどして答えを避けるばかりだった。
もし私がいつものような状態だったら、グレース皇子の悩みについて真剣に話し合っただろうけど、私は日に何度も熱湯と水風呂を行き来していたのだった。
ハエリス公爵と私が互いに口を合わしてるムフッとなる想像が浮かぶたびに、全身が熱く燃え上がったからだった。
ハエリス公爵が私に与えた行動と話し方一つ一つに特別な意味を付与し、首を強く振ることを何度も。
私の心は一日に何度も春の花のように華やかに咲き、枯れたほうれん草のようにぐしゃぐしゃになることを無限に繰り返していた。
今日もアンナ夫人とメイドたちは、一日中呆然としているグレース皇子の世話をし、私はグレース皇子の空の書斎をぐるぐる回りながら、独り言を言っていた。
「あなたはピアノを本で学んだのか?他の人の前で弾かない方がいいな。私の弟が最近は憎らしくて大変だな!いやいや、これは明るすぎる。あの時ハエリス公爵閣下はちょっと寂しいような憂愁に満ちていたようだったよ!ふぅ、違う。エレイン!しっかりしろよ。一人で何やってるの?ハエリス公爵閣下はそんな意味ではないはずなのに」
深く考えるほどとても心が痛んだ。
私の思っているようなそんな気持ちで、ハエリス公爵は再び私に公爵家に戻れと言ったようではなさそうだった。
「そうだよ。ハエリス公爵閣下は公爵家にメイドが必要なんだよ。ハエリス公爵閣下の口に合うペパーミントキャンディーとお茶を上手に作るメイドが…」
美しいヒロインのセレナがハエリス公爵に付き添っていた。
この前、セレナの誕生日パーティーで親しく向き合っていた二人の姿が私の頭の中にふと浮かんだ。
その姿を想像するだけでも、私の心はまるで氷水をいっぱい浴びたように、ひりひりと冷えてきた。
熱く燃え上がった私の全身は、血が一瞬にして抜けたように冷たくなった。
ハエリス公爵が、「私のような人を好きになるはずがない」と、「余計な期待はするな」と、数え切れないほど自分を励ました。
「私がこういうのを考えてはいけないんだ。私は創作者として2人を応援しなければならないからね!私がハエリス公爵閣下のことを好きになったらどうするつもりなのよ!このバカ!!」
一瞬、私の言った言葉に自分で思わずぎょっとしてしまった。
「私がハエリス公爵閣下を…?これは話にならない」
(パチン)
私は意識を取り戻し、ほおをパンとたたいた。
容赦なくなぐりつけた私の手のひらがとてもひりひり痛くてつい涙が出てしまった。
そうして血の気のない冷たい指でじっと私の唇を触った。
私が毒に倒れた数日間、ハエリス公爵と何度も重なった(?)と思われる私の唇が、まるで火に当たったように熱くなった。
⦅はぁ…私もグレース皇子様に口を当てた時は何の感情もなかったじゃん。グレース皇子様を生かそうと、仕方なくやったことだった。恐らくハエリス公爵も同様だと思う。余計な誤解はやめよう。これ以上勘違いもしないでおこう!⦆
ハエリス公爵が私に与えたあらゆる行動と言葉は、すべて私の心から作り出した錯覚のようだった。
それと同時に私は悟ってしまった。私が創作した主人公であるハエリス公爵を異性として好んでいるという事実を…。
私は前世でも、今の現生まで異性を好きになったことがなかったので、この感情にはとても馴染みがなかった。
誰かのことを好きになれば、ひたすら幸せだったり、嬉しいだろうと思っていたけど、かえって自分の心が痛み、悲しいばかりだった。
誰かを好きな感情はマンガや小説の中の表現のように、まるで綿菓子のようにとろけるように本当に甘いのかな?と、たびたび気にはなっていた。
しかし、私が現在感じている感情をよく見れば、これまでの私の想像とは正反対だった。
まるで波のように、数え切れないほどの感情が絶えず押し寄せてきたけど、瞬時に抜け出し、再び思いっきり押し寄せてくることの無限リピートだった。
この渦巻きのような不慣れな感情に、私は大変混乱したばかりだった。
(コンコン、コンコン)
グレース皇子の書斎に出てきて、面識のある女性が入ってきた。
かつて皇室音楽会で挨拶を交わした皇后宮下女長ソフィアだった。
彼女はわたしを見てうれしそうな顔をして口を開いた。
「エレインさん?ここにいらっしゃったんですね。ずっと探していました」
「ソフィア様!お久しぶりですね。今までお元気でしたか?」
「勿論です。今皇后様がお探しです。一緒に行ってくださいますか?」
「え?急に私をですか?」
私は驚いた表情で、ジェイラル皇后宮の下女長、ソフィアを眺めた。
ソフィアはにっこりと微笑み、まず先頭に立って私を皇后宮へと案内してくれた。
私はイライラする心を落ち着かせて、下女長のソフィアについてジェイラル皇后宮に向かった。
華やかだと思われたグレース皇子宮とは比較にならないほど、ジェイラル皇后宮はきらきら輝く金や銀、宝石が飾られていた。
昔の皇室演奏会の日、夜明けに連れて来られた時は暗くてよく分からなかったけど、雄大で華麗な皇后宮の建物の前に立つと、気がぎゅっとくじける気持ちになった。
ジェイラル皇后宮の下女長のソフィアはこわばった私の表情を眺めながら、袖口をそっと引っ張った。
「保母様!さあ、お入りください」
「あ、はい」
私と下女長のソフィアは、色とりどりの花々が綺麗に飾ってある皇后宮の屋外の花壇を通り過ぎた。
そしてあと何分程歩いただろうか。白いシルクのカーテンが空中で揺れ動き、緑の芝生が目を冷やしてくれる皇后宮の庭園が現れた。
そこでは優雅な身なりの貴婦人がお茶を飲みながらひそひそと話を交わしていた。
「ジェイラル皇后陛下と4人の皇后様です。礼儀をわきまえる必要があります。保母様」
下女長のソフィアは、ひょっとして私がミスをするのではないかと思って、貴婦人らの身分を予め耳打ちした。
私は彼女にうなずいて感謝の気持ちを伝えた。
「はい。ありがとうございます。ソフィア様」
(ごくり)
私は固唾を飲み込んで緊張を隠し、ジェイラル皇后と4人の皇妃の前に出た。
そして丁寧な姿勢で彼女たちに礼を尽くして挨拶をした。
「皇国の月、ジェイラル皇后陛下と4名の皇妃様にお目にかかります。私はグレース皇子様の保母のエレインと申します」
ジェイラル皇后が私を見つめながら、微笑んで歓迎してくれた。
「とても久しぶりですね。エレインさん」
思ったより親切な彼女への挨拶に、私は呆気に取られた。
4人の皇妃がそれぞれ好奇心のこもった目で私を上から下に見渡し、小さな声でささやいた。
彼女たちの中で可愛い印象の涙点が目立つある皇妃が手をたたいて私に言った。
「あら!この子があの時あのピアニストだったって? オーマイガー!」
彼女のそばに座っている豊満な貴婦人は、注意深く私を見てお茶をちびちびと飲み干して口を開いた。
「ほう!詳しく顔を見ると合っているような気がしますね!あの時とは身なりが違ってそのまま通り過ぎたら見違えたでしょう。雰囲気があまりにも違いますわね?」
向かい側に座っていた青色が光る黒い髪のくせ毛が印象的な皇妃が、私を微笑ましげに眺めていた。
「ダルニング皇子」と顔立ちがよく似ていたけど、彼女の目には私に対する好感が込められていた。
「このようにお会いできてとてもうれしい。エレインさん、この前ダルニングにお茶をプレゼントしてもらったんだけど、とてもおいしかったよ。私の故郷フェルデン王国が思い出される味だったよ。フフッ。それでお茶の名前が「故郷の思い出」なんだって?ホホ」
「ありがとうございます。皇妃様。そのお茶の名前は、ダルニング皇子様が自ら作ってくださいました。私もとても良い名前だと思います」
「ホホホ。そうなの?今度は私にお茶の葉を別に頂けないかしら。お茶の味が美味しくて、機会があればぜひまた飲みたいわ」
「はい!かしこまりました。皇妃様。別に準備致します」
社交的な皇妃たちが私を見ながら、あれこれ話に肉をつけ、絶えずおしゃべりをした。
主に私を訪ねて皇居をしらみつぶすように探していた貴族の令息と紳士の話だったが、前で聞いているのがすごく恥ずかしかった。
この席でただ一人無言のまま、とある皇妃は大変退屈そうな表情で私をじっと眺めていた。
私はふと、好奇心に駆られてそっと頭を上げてはその皇妃をチラチラと見た。
優雅に茶わんを持ってお茶飲みする姿は非常に魅惑的な銀髪の美人だった。
神秘的な彼女の銀色の髪が世俗的に超脱した天女のように見え、とても印象的だった。
皇妃たちが休まずにずっとおしゃべりをするのが内心うるさかったようなのか、ジェイラル皇妃がイライラしながら話した。
「さあ、もうやめよう!うるさすぎる!君たちはその口が問題だ!そうでなくてもジュリエ皇妃があなたの作ったお茶の話をするので思い出して呼んでみたんだ。あの時のピアノ演奏もとても素晴らしかったしな」
「恐れ入ります。皇后陛下」
「話を聞いてみたら自分でお茶をたてるんだって?お茶を作ることを誰から学んだのか知りたいな!ピアノを弾くのも普通の腕前じゃなかったのにね。他に師匠でもいるのか?」
ジェイラル皇后の言葉に、私の額には冷や汗がにじんだ。
「いいえ、私は小さいころからお茶に興味があり、独学で勉強していました。師匠はいませんのでまだ実力は未熟です。皇后陛下」
「お!そうか?まさかピアノも独学で習ったわけじゃないだろうね?」
ジェイラル皇后は両目を大きく見開いて、好奇心に満ちた表情で私を見つめた。
私は仕方なくそっと嘘をつくことにした。
ピアノを独学で学んだと言ったガンゼイラル皇后に捕まって、多くの曲を書かなければならない不吉な予感がしたためだった。
「ち、違います。私にピアノを教えてくださった師匠がいましたが…。ずっと前に亡くなりました。人前に出るのがあまり好きではなかったので、名前を言ってもよくわからないでしょう。皇后陛下」
「そうか?本当に残念なことだな!ところで君は才能が多い!お茶にも造詣が深いし、ピアノも上手だなんて。ところでジュリエ皇妃の話を聞いたらお茶の味がとてもいいみたいだな?」
「恐れ入ります、大した実力ではないです。皇后陛下」
私は薬草と毒草を勉強していたうちに、お茶に造詣が深まったとは言わなかった。
ジェイラル皇后がこの世界のヴィランなので、彼女に伝える言葉の一言一言にはとても慎重になった。
幸い、ジェイラル皇后は別に疑問を抱かず、傲慢な表情で私を見下ろし口を開いた。
「そう?でもジュリエ皇妃にだけお茶をプレゼントしないで私にもプレゼントしてほしいな。私もお茶が好きなんでね」
「はい、もちろんです。皇后陛下と、このお席にいらっしゃる皇后様のお茶も一緒に用意させていただきます」
「フフッ! そうか、いいぞ。ではもう出てよい」
ジェイラル皇后が少し疲れた表情で、私に出て行けと手振りをした。
私は礼儀正しく挨拶をした後、下女長のソフィアの案内に従って皇后宮の庭園を抜け出した。
この世界に憑依して私が知ったことは、私が設定した小説の登場人物以外の人々は、私もよく知らないということだった。
前世で私が小説を執筆した時、皇妃たちの設定はほとんどしなかったため、原作者である私も皇妃たちの詳しい身の上は分からなかった。
ジェイラル皇后、レインネ皇妃を除くゲリマン皇帝の4人の皇妃がすべて他国出身であることを皇居生活の中で知った。
幸いにも皇后宮を抜け出した瞬間、緊張の紐がはっと緩むのを感じた。
「私はここでお別れしないといけないですね。エレイン保母様。ヘリ、あなたが保母様をお宮の外まで送ってあげなさい」
「はい、かしこまりました。ソフィア女中長様」
女中長のソフィアの言葉に、ヘリという背の低いメイドが私の隣に並んだ。
私は女中長のソフィアに簡単な黙礼をして、彼女と皇后宮の庭の前で別れた。
私はメイドのヘリの案内で、皇后宮の透明な白い大理石が敷かれた長い廊下を通り過ぎていた。
「ヘリ!ちょっと待って!!」
急に何か用があったのか、皇后宮で働いていた別のメイドがヘリを捕まえて耳打ちで何かをひそひそと話した。
彼女は何か急用でもあるかのようにハラハラした表情で私を見つめながら言った。
「あの、保母様。しばらくこちらでお待ちいただければ、すぐにお送りいたします。急用ができましたので。少しだけ失礼します」
「はい!分かりました!ゆっくり用事を済ませて来てください。私はここで待っていますね」
「ありがとうございます。保母様」
メイドのヘリと他のメイドが緊迫した足取りで皇后宮の廊下を離れて行った。
私はきょとんとして皇后宮の廊下の片隅に佇んで、彼女を待った。
しばらく待つのは退屈なようで、皇后宮の長い廊下を歩きながらゆっくりと見回った。
幸いにも退屈さを忘れさせてくれる古風な名画が、まるで美術館に来ているかのように展示されていた。
⦅わ、さすが、芸術を愛するヴィラン、ジェイラル皇后らしい…まるで絵の展示会に遊びに来たみたい!⦆
私は廊下をゆっくりと歩きながら、陳列されているいくつかの名画を鑑賞した。
その時、私の敏感な鼻にすっぱいような嫌な香りが感じられた。
⦅あれ?これは何の匂いなんだろう?⦆
私は仄かに匂ってくる嫌な匂いを追った。
不気味な匂いは、皇后宮に展示されている名画のいくつかの絵から漂っていた。
私はよく調べるために、妙な匂いのする絵の前に近づいた。
よく見ると、絵に塗られた油絵の具から一般人にはわからない毒のにおいがかすかに漂っていた。
毒の主要成分は違うが、鉛筆芯の毒配合と似た配合だった。
⦅ハヤルロバム、トットロック、ツリンの葉…⦆
絵に塗ってある毒たちは、主に人の神経を衰弱させる成分だった。
大きな殺傷力はないけど、長時間露出が続けば不眠症や不安症、睡眠障害に悩まされかねない成分だった。
⦅この配合!グレース皇子様の毒配合とよく似ているみたい…⦆
人によって顔や指紋が違うように、毒も配合する方法は配合する人によって千差万別だった。
このように似た配合率を持つ毒なら、グレース皇子に毒を塗った人と皇后宮に毒を塗った人が同一人物である可能性が高い。
私は素早く左右に廊下を見渡し、人がいないことを確認した。
幸い、ジェイラル皇后宮の長い廊下を通る人たちは見当たらなかった。
私はその絵にさっと近寄って舌を出して味わった。
もし他の人たちが私の姿を見たら、大変気が狂ったと思われる行動だった。
おそらく、ジェイラル皇后にこの姿を見られたら私の舌がスパッと切られるに違いないので、私の鼻には冷や汗が出ていた。
舌の先の油絵の味を見て、私は素早く絵から離れた。
⦅やっぱり私がよく知らない毒も入っている。 一体何だろう?皇后が自分に毒を被るはずもないのに…。この毒を作った人は毒の分野に精通した達人に違いない。本当に優れた毒術師だ。一体この絵に毒を塗った人は誰なんだろう?⦆
私はスカートのポケットからペパーミントキャンディーを取り出して口に入れた。
ペパーミントキャンディーの味が私の震える心を静めてくれるようだった。
⦅つまりこの間ハエリス公爵閣下とグレース皇子様を毒殺しようとした背後が、もしかしたらジェイラル皇后ではないかもしれないってこと?⦆
私はこの世界の原作者として、私の意図とは違う方向に流れてしまった話にすごく戸惑った。
これからどんな話が展開されるのか、原作者である私さえ到底見当がつかなかった。




