第26-2話 ピアノを本で習ったのか?
(よろよろ、よろよろ)
私はアヒルのような足で皇居の庭木を盾にして、ほとんど這い蹲って歩いていた。
数人の男から逃げて、あちこち皇居の中を逃げていたら、もう私がベイリオ皇居のどこに来ているのかよく分からなくなっていた。
元々はピアノ演奏が終わったらすぐにグレース皇子宮に帰ろうとしていた。
ところが、舞台裏から数人の男性の群れが、私が出てくるのを待ちながらうろついているのが見えた。
その男たちの表情はすべて、正常ではないようだったので彼らを避けて逃げたため、いつの間にか皇居内の知らないところまで流れてきたのだ。
「ここだ!ここにいる!」
「え?どこ!どこ?」
前世で芸能人だったけど、私生活まで追っかけるファンは一人もいなかったのに、これを喜ぶべきかどうかとても混乱している気分だった。
もしあの男たちに捕まったら、どんなひどい目に遭う分からないという気がするとグレース皇子宮に早く帰りたくなった。
それで私は、かなりうんうんうなりながら、アヒルの足でしゃがんで歩いて、また歩いていた。
その時、突然、私の目の前にある男性の細長い足と洗練された黒い靴が見えた。
⦅あら、どうしよう、ばれた!?仕方がない。ただサインだけすれば大丈夫かな?⦆
私は震える心で顔を上げ、私の前に立ちはだかったその男性を注意深く見上げた。
「あれ?ハエ…」
「シッ!」
私は立ちふさがっている彼を見つめながら、すばやく首を頷いた。
私の前に立ちはだかった男はハエリス公爵だった。
ベイリオ皇室の公爵らしく、彼は黒い燕尾服に金で華やかに刺繍された皇室礼服を着ていたけど、照明一つない深い闇の中でも一人輝いて見えた。
向こうの端で一人の男が言った「ここだ!」という声が、こだまのように聞こえた。
ハエリス公爵はしばらく周囲を見回してから、しゃがんだ私を注意深く立たせた。
彼は不機嫌な顔で浅い溜息を吐き、自分のジャケットを脱いだ。
私は彼に無策だけど、何か凄く悪いことをしたような気がして、彼には少し気後れした。
ハエリス公爵は私の両肩を見つめながら、黙って彼の真っ黒な瞳を左右に動かした。
私はなぜか「両腕を広げろ」と言ってるみたいで、小心に自分の腕を広げた。
ハエリス公爵は私に近寄り、自分のジャケットを慎重に着せてくれた。
「ふむ…」
私の体に自分のジャケットを羽織ってくれてから、また何かが気に入らないのか、もう一度私をじっと見つめた。
しばらく悩んでいた彼は、自分の皇室征服ジャケットのボタンを首から一つも外さず、下まで全部閉めてくれた。
ハエリス公爵のジャケットは大きすぎて、私はまるで開業式のときに店を宣伝するたわいない風船のようになってしまった。
ハエリス公爵が私に近づいて、低い声で私の耳元でひそひそと囁いた。
「さあ、そろそろ動いても大丈夫そうだな。行こうか」
私もハエリス公爵の耳元で小さな声でささやきながら話した。
「はい、わかりました。公爵閣下、ところでどこへ行けばいいですか?」
突然、わけの分からない深い熱気が私の頬とハエリス公爵の耳元をかすめた。
ハエリス公爵は返事の代わりに、彼の大きな手で私の手をしっかりと握り、私をどこかへと導いた。
しばらく通すぎた熱気だったけど顔が熱く燃え上がるのを感じ、とても顔を上げることができなかった。
地面だけを眺めながら、ハエリス公爵の率いるままにしばらく歩いているうちに、ベイリオ皇居のある場所に到着した。
ハエリス公爵が私を連れてきたのは、人のいた痕跡が長い間残っていない、名も知らぬ古い宮殿だった。
黄金色の屋根と大理石で華やかに飾られたベイリオ皇居にも、こんな古い場所があることを初めて知った。
私はとても気になった様子でハエリス公爵を見つめながら慎重に話し出した。
「あの…、ここはどこですか。ハエリス公爵閣下?」
ハエリス公爵はひどくおぼろげな目つきで廃墟となった宮殿を眺めながら、私に話を切り出した。
「ここは亡くなった私の母なる宮殿だ…。今は廃墟になったね。しばらくここで身を隠してから帰った方がいい」
「あ、はい…」
ハエリス公爵は私に彼のジャケットを着せてくれたので、ベストだけ着てる状態だった。
そよそよと吹いてくる夜風に彼が寒くないかと何となく心配になった。
ふとハエリス公爵が私を熱い視線で見ているような錯覚を覚えた。
彫刻のようにハンサムなハエリス公爵の顔が私の顔の前に来ると、一瞬ぎくりとした。
彼は、私の頭にかかっていた小さな葉を彼の手で取ってくれた。
「あ、ありがとうございます。ハエリス公爵閣下…」
私は、彼が私にキスをしてくれるのではないかと思いビクッとしたけど、そうでなくて気まずい思いをした。
何故そう思ったのか私にも良く分からないけど、彼の黒真珠のような黒い瞳が、私を見つめながら熱く燃え上がっているような気がした。
恐らくハエリス公爵が彼のジャケットを私に着せてくれて直接ボタンを閉めてくれたから、そんな錯覚をしたようだった。
春の夜、肌寒い天気だったけど、私の周りを覆っている空気はとても熱いようだった。
ハエリス公爵は何も言わずに、私をじっと見つめた。
彼の真っ黒な2つの瞳がまるで私を突き破るようで、私の口の中の唾が乾く思いだった。
「ふむ…ピアノを弾いてたな」
ふと彼は妙な目つきで私に口を開いた。
⦅え?何て返事すればいいんだろう?⦆
ハエリス公爵はおそらく、貴族の令嬢くらいにならないと習えないピアノを、一介のメイドが弾くことを可笑しいと思っているようだった。
⦅ハエリス公爵閣下。実は前世でやりたくないことを無理やり両親に引かれて学んだんですけどね…?⦆
なんてとても彼に言えなくて、私はただ黙っているしかできなかった。
ハエリス公爵と私の間に微妙な緊張感が漂っているようだった。
そのときハエリス公爵が私を見つめながら自分の重い口を開いた。
「もしかして…エレイン。ピアノも本で習ったのか?」
「え?」
ハエリス公爵はとても真面目な表情で話を切り出したが、私は彼の質問にどんな答えをしたらいいか分からなかった。
彼はしばらく何かを考えてから、また私に話しかけた。
「うーん…、本でピアノを習った割には上手だったな。でも俺が思うに、エレインにピアノの適性は合わないと思う。どうにも本で学んだからかな?なんか確かに技巧が足りない感じだったな」
「あ、はい…、あまりにも久しぶりにピアノを弾いたもので。今日は緊張してちょっと間違えました。もしかしてバレバレでしたか?」
「そう、やっぱりな。もうちょっと練習した方がいい。もし練習場所が必要なら、公爵家に来るといい。私のお屋敷にそなたが練習できそうなピアノが何台かあるから」
「はい、ありがとうございます。ハエリス公爵閣下。これからもっと上手く弾けるように頑張りたいと思います」
私はハエリス公爵の言葉に頷いて、感謝の気持ちを伝えた。
前世ではピアノを習うのが嫌だったけど、今度はもっと熱心に練習しなきゃと思った。
しかし、私の答えに満足できたのか、ハエリス公爵はかなり困惑した表情でため息を深くついた。
「ふぅ…エレイン、俺が言いたいのはこれからは人前でピアノを弾かない方がいいということだ」
「はい…?」
「……」
「はい…。分かりました。ハエリス公爵閣下」
ハエリス公爵は真剣な表情で黙って私をじっと見つめた。
実力不足だから人前でピアノを弾くなと酷評するのに、何故か私は気分がまったく悪くなかった。
むしろ私だけ見つめる彼の熱い眼差しに私の心の片隅がくすぐったかった。
私たちはしばらくお互いをまともに見られず、ぎこちなくじっと立っていた。
幾らかの時間が流れると、私とハエリス公爵は一緒にグレース皇子宮に向かった。
数多くの建物や庭園を横切り、私は幸いにもハエリス公爵のおかげで無事にグレース皇子宮に到着することができた。
この複雑で広い皇居で、もしハエリス公爵に会えなかったら、私は一晩中ここをさまよっただろう。
「本日は手伝っていただき、誠にありがとうございました。ハエリス公爵閣下、おかげさまで無事に帰ってこられました」
私は明るい笑顔でハエリス公爵に感謝の挨拶を伝えた。
ハエリス公爵のほっこりする赤い唇に、心地よい笑顔が描かれたようだった。
「俺はもう帰ることにする」
「お気を付けてお帰り下さい。ハエリス公爵閣下」
背を向けて数歩を踏み出していた彼が、突然足を止めた。
彼は再び向きを変え、彼を見送る私を見つめながら慎重に話し出した。
「エレイン、ベル執事が…」
「え?」
「ベル執事が作ったペパーミントキャンディーはあまり美味しくなかったな」
「え?そうですか?同じ調理法で作っても人それぞれ味が違うようですね…」
ハエリス公爵は熱い視線で私の顔をじっと見つめた。
もしかして私がまたペパーミントキャンディーを作ってくれることを望んでるのかな?という考えが、稲妻のように頭をよぎった。
「あの…それじゃ、公爵閣下?私が作りましょうか?」
ハエリス公爵の黒真珠のような黒い瞳が、真っ暗な闇の中で周囲を照らし、明るく輝いてるようだった。
公爵家ではいつも冷たくて無愛想な顔ばかり見ていたが、彼の新しい表情を見るととても不思議だった。
「そうだな…。頼もう。エレイン」
私は今夜、初めてハエリス公爵の照れくさそうな微笑みを見ることができた。
ハエリス公爵の微笑みに、私は一瞬呆然として彼を見つめた。
ハエリス公爵はとても気持ちよさそうな顔で、私に背中を向けてグレース皇子宮を出た。
私は立ち去る彼の後ろ姿を見つめながら、広い背中はとても男らしいと思った。
そして、このような言葉を付け加えるのもなんだけど、今の私に見せてくれたハエリス公爵の微笑みは、とても官能的だった。
私はハエリス公爵がいなくなるまでその場から身動きできなかった。
「ハエリス公爵閣下は他の人の前では笑わない方が良さそうですね…」
私はとても彼に伝えられない言葉をちびちびと口ずさんだ。




