1-3 独身
恒星暦569年7月3日
惑星メダリア 旧メダリア郊外
遺体の回収指揮や報告書の作成、遺族への手紙執筆を済ませて叔父の家だった家に戻ったのは、翌々日の夕方前だった。祖父とその配偶者は高等弁務官用の官邸に住んでおり、かつて5人で住んでいた家にはモーター音以外何も聞こえなかった。
かつての事件の後、修繕は完璧になされている。
玄関も、廊下も、部屋も、かつてそこで陰惨な事件が起きたとは、教えられなければ誰も気がつかないだろう。
「…ただいま。」
誰もいない玄関で小さく呟く。
靴をゆっくりと脱ぎ、眼鏡型の戦術情報表示装置を除き身につけていたものを全て脱衣所で脱ぎ、洗濯機を動かす。そのまま浴室に入るとシャワーを流し始めた。
静かな家にモーター音を上書きしたシャワーの音だけが響く。
シャワーを終えた後、ケンタは鏡で自分の姿を見つめた。
士官学校を卒業したときと、この家に住み始めたとき、そして、彼女と最後別れたとき、その時に記憶していた顔とどれも違う。
実際に記録されている画像を見てもそうだ。皮膚の色だけではない。表情筋の使い方、それが積み重なった顔つきの変化。今の22歳というより、地球で人類が剣を片手に這い回っていた頃の22歳といった感じ。
ケンタは無理をして唇の両端をあげてみた。すぐに元に戻す。どうもにあわなかった。
体をそこそこに拭くとそのまま台所に向かう。叔母や従妹がいれば決してしなかっただろう。いや、従弟や叔父の前でもしない。憲兵学校を修了しこの家に戻ってきて始まった悪習だった。水で足跡が残る。
冷蔵庫を開けると、そこには何もなかった。ビールの一本すら残っていなかった。ただ冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
軽く目を閉じ、自分が前回の出勤前に冷蔵庫の食材を空にして出かけたことを思い出す。
「駄目駄目だな。何か調子悪い…」
戦術情報表示装置の時計に意識を向ける。これから服を着たら、食糧を買いに外に行く時間は十分にあるはずだ。外食をしても時間は余るだろう。でもその前に、と遠く離れた惑星で大叔父宅に下宿しているだろう従妹の姿を思い浮かべる。無効となった婚姻届を出した相手は、物理的な距離とともに、心もかなり疎遠になっていた。
「…テキストだろうな。」
ここ暫く動画でのメールを送っていない。最初は笑顔で応じてくれていた返事も憲兵学校に入校したあたりから段々と素っ気なくなっていき、ついには迷惑そうな顔になっていった。そして、返事が滞りがちとなった。
ため息をつくと、文言を練り、日課となっているメールを送信する。光の速さで中継点まで進み、超光速通信で従妹の惑星沖合にある中継点に今頃メールは進んでいるだろう。到達したのか、既読表示になる。今日もやはり返事は来なかった。
「…」
ソファーに裸のまま膝を抱えて座り込むと、天井を暫く眺める。
そろそろ従妹も夏休み。大叔父宅で過ごすのか、ここに帰るのか連絡もない。従妹の心を、と祖父に見得を切ったが、もう限界間近だった。
「何のために連絡を取っているんだか。」
声に出している自分に気がつき、もう既読表示になって10分経っていることに驚く。
ケンタは通常の人よりは早く、だが、自分の中ではだらだらと服を身につけ、再び鏡の前に立った。
「髭ヨシ、髪型ヨシ、爪ヨシ、服装ヨシ。」
モーターの音以外何も聞こえない状況に耐えきれず、声を出して自身の容儀点検を行う。鏡の前に立っている、どこか生気のない若者に対し、何時もながら点検者として指摘事項はない。士官学校と憲兵学校の日々は、そのような隙を与えるような人間に容赦はない。
服装のセンスについては、従妹であれば辛辣に指摘してくれていたけどね、ともう2年近く前になる日常を懐かしく思い出す。
「…我ながら未練がましさに情けなくなるな。行くか。」
玄関の扉を開けると、壁と空調のフィルタで除去されていた色々なものが鼓膜と鼻腔を襲ってきた。
各植民星においては地球の生態系を模した生態系が期待され、そうなるように生物が放たれている。
メダリアでは、生物模写担当職員が重度の故郷愛に冒されていたらしく、出身地である地球最大の大陸東側に所在する弧状列島から生態系の移転が行われていた。このため、空にはクマタカが舞い、人里離れた森に行けば本当に雉やヤマドリに出会うことができた。
夏だけあり、つくつくほうしの鳴き声が響く。
扉がしまり、それにあわせ、自動的に窓と玄関の鍵が一斉に閉まる音が背後から聞こえる。
鼻で大きく息を吸い、ゆっくりと口から息を吐き出す過程で、色々なもののにおいが感じられた。このにおいは玄関前に立っているビショップのにおい。中年男性を模しているだけあり、このような状況ではご丁寧に汗のにおいだけでなく加齢臭まで再現されている。人混みに紛れて行動するにあたって必要な機能かも知れないが、もう少し控えめにならないものかと一瞬眉をひそめた。交代の番兵となっているメーテルとの落差が激しすぎた。
「ご苦労、いつもありがとうね。」
すぐに表情を戻すと、炎天下、携帯用光線兵器や狩猟用銃器への防護機能程度しかないジャケットとヘルメットを身につけ番をしてくれているビショップにねぎらいの言葉をかけ、飲料を手渡す。
プログラム上、存在しなくなった警察機関に代わり警護対象である連邦政府関係者の自宅警備をするビショップが、手を抜くとは思えない。それでも丁寧に接するようにケンタは士官学校で教育を受けていた。
「ありがとうございます。」
律儀に礼を言い、ビショップが飲料を受け取る。
「暫く外出する。留守番をお願い。日差しがきついなら、警戒レベルが1であれば日陰での警備を許可するよ。」
AIが誤解のないように指示を出す。ビショップは動かなかった。この呪われた惑星の警戒レベルは2から当面下げられる予定はない、とケンタは知っていた。基地や祖父の宿舎周辺に至ってはレベル3,下手にふらつくと警告射撃を受けかねないレベル。
「ありがとうございます、中尉殿もお気をつけて。」
下手なバーに入り、独立勢力に誘拐されて殺された兵士は10人や20人ではない。そして、独立勢力にとって、要人の孫であり、憲兵中尉であるケンタは、良いターゲットである事は自明な話であった。
「ああ、よろしく。」
だからといって、あけの日に引きこもってというわけにはいかない。
手を上げるとケンタは顔をまっすぐ歩き出した。