でた
(やっぱりちょっと怖い……。笑うにしてもタイミングってものがあると思うのよね)
ノノイはエルの異様な雰囲気に気圧されてしまって、どうにも逆らう気がなくなってしまったので、ルーパス神の縄張りの方にある獣道をたどっていった。
(神様! お願いだから狼には会いませんように! お願いします)
その狼自身が神であると言う事実も忘れて、ノノイは必死に祈った。
確かにルーパス神はこの村を栄えさせる一歩を作ったかもしれないが、恐ろしい獣でもあるのだ。こちらが縄張りを犯してしまえば、ルーパス神も容赦することはないだろう。
(いや、ルーパス神って私のこと見えるの?)
もしかしたら見えずにスルーされるかもしれない。ノノイは他人に無視されることが嫌いだが、この森の主に見つかることはもっとごめんだった。
じゃあ何とかなるのでは? と思い始めたところで、ひやりと冷たい風が吹きノノイの体の中をすり抜けた。木の葉が擦れるザワザワという音が森の中で鳴り響く。
不気味な夜の森は、神のなわばりに入ったことでより一層存在を主張し始めたのではあるまいか。
神聖な、見てはならない世界に足を踏み入れようとしている、そう言った実感がこの時初めてノノイを襲った。
(や、やっぱり帰りたいっ!!!)
思えば、ノノイがルーパス神に知覚されるかどうかに関わらず、どちらにしろエルは見つかれば襲われてしまうのではなかろうか。ノノイは出会ったばかりとはいえこの少女に強い執着を感じていたので、やはりもう一度引き返してくれる様お願いしようと振り返った。
『ねえエル、やっぱり……』
戻ろう、と言おうとしたのだが、思わず話が止まってしまう。
——エルが居ない。
エルは足音もなく歩くので、ノノイは今の今まで彼女の不在に全く気づいていなかった。だが、ちっちゃな見た目の割にずっとしっかりしている——下手をしたら大人よりも恐ろしい——子なのだから、ちゃんとついてきているだろうと思っていたのだ。
『え、あれ……? エル?』
薄暗い森の中で、幽霊が一人。
そしておそらく、エルも今、一人。
逸れてしまったのかと思うノノイだったが、すぐにこの森がどのような所かということに思い当たった。
——ここはルーパス神の縄張りだ。
(そうだ、エルが不信心なものだから、ルーパス様が連れ去ってしまったのかも!)
ノノイは元から青白かった顔色をいっそう青く染めた。
子供の頃は夜ふかしをしたり悪いことをしたりするとルーパス神に連れ去られて食べられちゃうぞとよく言われていたものだが、まさかそれが現実になるとはノノイも思っていなかった。
(エルが食べられちゃう!!)
『エルーーっ!! どこー? いるなら返事してー!!』
ノノイは喉が痛くなるぐらいに声を張り上げた。
すると、近くの茂みがゴソゴソと動き、盛り上がった。植物を纏った緑色の生物が現れる。
『お、お化けっ!?』
「それはお前のことだろうが」
葉っぱがはらはらと落ちて、そこから現れたのは呆れた様子のエルだった。
「何か用か?」
手には獣の抜け毛と思われるものが摘まれていて、エルが獲物の痕跡をたどっていたことがわかる。タヌキを狩った時も、ノノイの後ろをあちらこちら動き回っていたのだろうか。
『あー!! いた! よかった、てっきり狼に食い殺されたのかと思ったわ!!』
ノノイはエルの存在を確かめようと手を伸ばしたが、エルは長い杖でノノイを押しのけた。結局ノノイがエルに触れることは叶わない。
「……ええい、いちいち煩いやつだな。そんなことより早く行け!」
『あっ、そうだ! そうよ、私やっぱり戻った方がいいと思うのよ!』
「引き返す気はない。お前は心配しすぎだ。どうせ大したことにはならん」
エルは杖を器用に使ってノノイの体の向きを変えさせた。ノノイが今向いている方向は、今まで来ていた大きな獣道ではなく、そこから横道に逸れたあるようでないような小道だった。
『え、ちょ、まって! そっち行くの!? ていうか押さないでよ!! せなか、背中痛いから!』
「うるさいぞ、お前にうろちょろされるわけにもいかないんだから我慢しろ」
『なんでよ! 私は貴方みたいにいちいち迷子になったり、危なっかしいことしたりしないんだから!』
「危ないのはお前のほうだろう!!!」
エルは叫び声に合わせて杖でさらに強くノノイを押した。重力という概念すらない幽霊の体は簡単に突き動かされる。
ノノイは茂みの中を進む意外になす術がなかった。
やはり帰りたいと思うノノイであったが、エルはノノイから目を離す気は無いらしい。
振り返ろうとする度にノノイは杖で突かれ、やはり杖で右に左に方向転換させられた。まるで捕虜のような扱いだ。
あばばばばばばばと杖に押されるたびにノノイが間抜けな叫び声をあげていると、エルはぽつりと言った。
「……お前、やはり死霊術師に降霊されて現れたわけでは無いのか?」
『ええ? あなたまだそんな話してたの? 違うって言ったじゃない! ていうかそんなことより、さっきから杖で突くのやめなさいってば!!』
「いやしかし、霊というと強い怨念を持つ怨霊か、降霊術によって顕現するかどちらかだろうが」
エルは何の意味もなく、杖でノノイを突いた。やめる気はないらしい。
『えー、じゃあ私は怨霊なんじゃないの?』
「いや、それはないな。ありえん」
エルは即答した。
『なんで?』
エル自身が霊には二種類しかいないと言ったのではないか。怨霊と、降霊してきた霊。エルも降霊してきた霊ではないと思い始めたのであれば、選択肢は一つしか残ってないではないか。
ノノイが疑問に思っていると、エルはふんと鼻を鳴らした。
「もしお前のような能天気が怨霊になるのだとしたら、世の中は霊で溢れかえっているだろうよ」
エルがあまりに心底馬鹿にしきったような声色で言うものなので、ノノイは振り返って怒ってやろうと試んだが、エルの杖のせいでそれは叶わない。
どうしようもなく、エルの言うなりに進んでいくしかない。
それからしばらく進んだところで、エルは杖でノノイを押すことをぱったりとやめた。
「止まれ。いたぞ」
ノノイはしばらくの間目を回していたが、エルの言葉にはっとした。
(あれ? 着いた? やっと着いたの?)
背中を雑に突かれる感触はもうしない。そのことはとても嬉しかった。
だが、嬉しかったが、分からない。
一体何がいたのか。どこに着いたのかが。
ここはただの森の中だ。目を引くものは一つもない。
『え、? いたって、何が?』
ノノイが恐る恐る振り返ると、エルは斜面に空いた穴の中に杖を突っ込んでいた。
(良かった、ひとまずオオカミではなさそうだわ)
エルはいまだにノノイのことを警戒しながら何らかの巣穴と思われるモノを探っているが、何か目当てのものでもいるのだろうか。
杖を入れている、と言うことは生き物ではないのかもしれない。アナグマなんかが住んでいる場合は網なんかを先に入れてしまうのが定石だろう。
「この中に霊魔がいるはずなのだ」
(れいま、レイマ、霊魔…………って、)
ここにオオカミはいない。居ないはずだったのに、エルは意図も容易くノノイの予想を裏切ってくる。
『……それって、ルーパス様のこと!? だめじゃない! 起こしちゃったらどうするのよ!!』
「心配するな」
何が心配するな、なのか。
(ああ、これもう死んだ)
きっと今すぐにでもルーパス神は飛び起きて、ノノイとエルを食いころしてしまうのだろう。
……と、思ったのだが、なぜだかルーパス神は起きてこない。
エルはノノイの方をじっと見ながら、杖で巣穴を引っ掻き回していた。するとどうしたことか、からからと軽い音がするのだ。
(この中に、ルーパス様がいるのよね……??)
しかし、狼を杖で突いたところでこのような音はしないはずだ。
「お、出てきたぞ」
からり。
軽い音。そして、小さくて無機質な物体がノノイの目に映った。
それは、黒ずんだ骨だった。