飢餓聖女
私と聖女との出会いは日が暮れた公園でした。
あの日の事は今でも鮮明に覚えています。彼女は小さな手でブランコの鎖をぎゅっと握って一人で漕いでいました。
薄暮色に染まって、人気も疎らになった公園でその姿は何よりも美しく、清廉な感じがしてついつい見入っていたと記憶しています。
以来私はブランコを漕ぐ彼女を一目見るために公園へ連日のように繰り出しました。歪んだ楽しみだと承知しています。けれど、私は性的倒錯に魅せられてついつい足を運んでしまうのです。
その度に罪悪感と、天使を目にしたかのような敬遠な気持ちが芽生えてきて胸と目頭が熱くなりました。
寝る間際、彼女の名前は何だろう。彼女は何故いつも一人なのだろうと、そんな夢想をすると恥ずかしながら胸が高鳴って仕方が無く、そういう時ばかりは世界がこの上なく輝いて見えました。
彼女は日に日に丈の合わない服を着るようになりました。彼女の服はとてもゆったりとしたものでブランコを漕ぐ度に無垢な腹部が少しだけ覗くのが背徳的で彼女の前で跪いて懺悔したくなる衝動に駆られたものです。
ある日、彼女はボロ布を首元に撒いてブランコを漕いでいました。ここに来て私は妙な気分になりました。夏に差し掛かり日増しに暑さが厳しくなるのに彼女は露出の少ない服ばかりを好んで来たり、ボロ布を巻いたりするからです。ですが額に髪を張り付かせながら何処か虚ろな様子でブランコを漕ぐ様子はゴルゴタの丘に磔にされたキリストのようにも見え――人はそれを不吉と言いますが私は神聖を感じずにはいられません――これはこれで風情があると思いました。
そんな折、ふっと悪戯に強い風が吹き、彼女のボロ布を攫って行きました。彼女はボロを取りに砂場に向かいます。
私が暴行の跡を見たのはその時でした。
彼女の頬には紅葉のような手形がくっきりと残っていたのです。
その時の私の落胆の念は誰にも理解出来ないでしょう。
高尚で、清廉で、神聖だと思っていたものが、実は人の悪意に塗れて汚れていたのですから。
同時に私は憤怒しました。そして決意するのです。必ずや彼女を元の美しい聖女へと引き戻してやろうと。
私は腹を決めると砂に汚れたボロを巻いた彼女へと声を掛けました。
「やぁ、そのボロはもう汚れているじゃないか。着けるのは止した方が良い」
彼女の瞳は困惑で揺れ動いていて、虚ろな瞳をした聖女の姿は見る影も無くなっていました。
これではただの小娘と変わりません。
「私の元に来なさい。丁度良く美味しい紅茶だってあるのだから。ホラ、さっさと来なさい」
私がそうまくし立てると彼女は委縮し、今にも泣きだしそうになりました。
私の知る彼女はいつも暗澹とした顔をして静かに一人ブランコを漕ぐ聖女なのです。まかり間違えても泣きそうな小娘ではありません。
「泣くのはお止し。折角の綺麗な顔がそれでは台無しだ」
少しだけ苛々とした気分になり彼女の小さな肩を抓りました。
彼女は少し呻くと渋々といった様子で私に従います。
私はそんな彼女の姿を何処か冷めた目で見ていました。
私の邸宅に着くとドアに鍵をかけて彼女を客間に誘いました。私が紅茶を用意して彼女に差し出すと彼女は警戒した様子だったので私は彼女を一度殴りました。
そうしたら彼女の虹彩から光が消えて彼女は件の聖女となったのです。
私は聖女を殴ってしまったのです。それが酷く恐しくなり私は頭を地面に擦り付けながら赦しを乞いました。
泣きながら何遍も、何遍も赦しを乞いました。
私は彼女を邸宅に閉じ込めました。
ただ、彼女への謝罪の念を込めてその日は精一杯のご馳走を与えました。彼女は何もかも諦めたような目をしていたので私が銀のスプーンで少しずつ、少しずつ口元へと運んで行きました。
ああ、神よ。私は今聖女のお世話をしているのです。
その甘美なることは形容し難いものがありました。
翌日、聖女は小娘へと変わっていました。私を見て怯えるのです。
仕方なく私は聖女を取り戻す為の聖戦を始めました。目があの静けさを取り戻すまで殴ったのです。
彼女の目が例の静けさを取り戻すと私は決まって懺悔し、情けなく赦しを乞うのです。私にとって罪悪と懺悔を繰り返す行為は一種の変態じみた愉悦を生み出しておりました。
ですが困った事がありまして、殴っては聖女が痛々しい姿になってしまうのです。
それは私の望むところではありません。だから私は彼女と約束をしました。
私の作った料理以外、一切を口にしてはならないと。
私の前では私の望む姿を見せ続けなければ食事を抜くと。
彼女は抵抗しましたが私は殴りません。ただ、仄暗い地下室へと閉じ込めて放置するのです。
一日置いて地下室へと迎えに行くと聖女は祈るような姿勢で身を縮こませておりました。
私はベッドへと聖女を運ぶと作った温かなお粥を聖女へと与えました。
聖女が食べ物を嚥下する姿は煽情的でもあり背徳感と悦楽に胸が打ち震えました。
食休みをさせると私は彼女の体を濡れたタオルで拭いました。
白く病的な肌は痣だらけでしたが私が殴った以外にも沢山の痣がありました。これを見て私は益々彼女こそが全ての罪を一身に背負う聖女なのだと確信を深めました。
月日は流れましたが警察の裁きは私の上には下されませんでした。きっとマリアは聖女を疎ましく感じていたのでしょう。
私だけの聖女はいつも暗澹としていて、静かで、非生物的に完成されつつあったのです。しかし時折小娘に戻り、私に媚びるように囁くようになったのです。私はそうなると苛立ちのまま叫ぶのです。「聖女を惑わす悪魔は去れ」と。
私はこの変化のせいで聖女が壊れてしまうのではないかと恐れました。聖女が悪魔に変わるなどあってはなりません。
だから私は聖女の首を絞めました。
その時、私は絶叫したと思います。
けれど聖女は静かな目で言ったのです。
「私は貴方をお慕い申し上げております。貴方がいなければ私は生きられません」
私はその言葉に恐怖して邸宅を飛び出しました。
三日後に漸く邸宅に戻ると異臭がしました。
皿が散乱しているのです。
皿には野菜が盛られていた跡が見受けられました。
そして床に倒れ臥す聖女を私は見たのです。
「食べられない。私は貴方の作るものしか食べてはならないのです」
か細い呟きを耳にして私は絶叫しました。急いで薄い身体を抱き起すと彼女の体から段々と温もりが抜け落ちていくのが分かりました。
最期の瞬間、彼女は微笑みながら言ったのです。
「呪ってやる」
私は気が狂ったように家の中の物を滅茶苦茶にしました。
そして手洗へと駆け込むとおもむろに喉奥へと指を差し入れるのです。
嘔吐。嘔吐嘔吐嘔吐嘔吐。
やがて胃液しか出なくなるまで私は吐き続けました。
彼女の飢餓はどれ程の苦痛だったのでしょうか。
私には推し量れません。
けれどけれども、私は今、聖女と同じ末路を辿るのです。
この殉教の魂を聖女は喜ばれるだろうか。
「呪ってやる」
ただ一つ。
聖女の呪いの言葉が頭から離れないのです。
……その言葉が、私の天門への道程を阻むのです。