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神原陽葵のお料理教室(後編)

「あとは何をすればいいんだ?」

「野菜とお肉にはもう火を通してあるので、あとはカレールーを入れて煮込むだけですね」

「何か手伝うことないか?」

「あとは煮込むだけなのでお皿の用意くらいしか……」


神原は考え込むような素振りを見せると、「そうだ!」と言って、ぱたぱたと玄関の方に駆けていった。

「榎本さん! お鍋見といてください!」

「? おう……」


それから神原が帰ってくるまでに二分とかからなかった。帰ってきた彼女の手には、今日買ってきた特売の卵パックが握られている。


「榎本さん! カレールーとか入れるタイミングとかは言いますので、カレーの方は任せてもいいですか?」

「いいけど……おまえは何をするんだ?」

「目玉焼きを作ろうかと! この前ネットを見てたら目玉焼きがのってるカレーを見つけて、美味しそうだなって思って!」

「そういうことか。了解」


神原は先ほど肉と野菜を炒めたフライパンを水で軽くすすぎ、油をしき直している。


「カレールーっていつ入れればいいんだ?」

「材料をだいたい二十分煮てからなので、あと五分ちょっとくらいですかね?」

「わかった」

俺は神原に言われた通り五分を測るべく、スマホのタイマーを起動しようとした。

「あっでも、20分はあくまで目安なので、具材が柔らかくなったらカレールーを入れるんです」

「柔らかくなったらってどのくらいだ?」

「ちょっと菜箸(さいばし)かしてください」


口で説明するより自分がやった方が早いと判断したのか、神原は俺が渡した菜箸を手に取った。じゃがいもを刺すと、もう苦もなく貫けるほど柔らかいようだ。


「はい! これくらいなら大丈夫でしょう!」

「じゃあもうルーを入れればいいのか?」

「あ、ちょっと待ってください!」


神原はそう言うと、袋から何かの容器を取り出し、蓋を外して中身を鍋に入れている。それは金色のとろりとした物体で、甘い匂いが微かに鼻腔(びこう)をくすぐってきた。俺にも見覚えのある代物である。


「蜂蜜か?」

「おおっ! 正解です! ルーを入れる前に蜂蜜を入れると、完成したときのとろみが増すんですよ!」


蜂蜜の容器を再び袋にしまっている神原の声はどこか自慢げで、整った顔にずっと浮かんでいる笑みは、心做しか二割増に見える。


「榎本さん、ルーお願いします! あ、入れる前は一回火を止めてくださいね! 温度が低い方が溶けやすいので!」


神原のゴーサインを受け、俺は言われた通り一度火を止め、鍋にカレールーを投下した。先ほどまで少し濁っていたものが、みるみるうちに鮮やかな茶色へと染まっていく。


「あとは五分くらい放っておけば完成です! お皿とスプーンを並べておいてもらえますか?」

「ん」

俺は短い応答で了解の意を表すると、食器棚へと向かった。大きい皿を二つと、スプーンを二つ取り出す。大きい皿は目玉焼きを蒸している神原の近くに置いてやり、スプーンはリビングのテーブルに向かい合うように並べる。

あとやることと言えば、神原の目玉焼きを手伝うか、大きい皿にご飯をよそうくらいだ……ご飯?

ここで俺は、自分の失態に気づいた。様々な考えが脳をめぐり、体が緊張する。


「神原、大変だ!」

「どっ、どうしたんですか?」

「ご飯を炊いていない!」

目の前に美味そうなカレーがあるのに、ライスがないとは。しかしカレーだけをがぶ飲みするわけにもいかないし……

「どうする……今からでも炊くべきか……?」

「榎本さん」

「いやでも今から炊いたら食べ終わるのが遅くなってしまうし……」

「ご飯なら、私炊いてきましたよ?」

「……え?」

神原の予想外の発言に俺の思考には急ブレーキがかかった。驚きを隠せず、口をぽかんと開けてしまう。


「いつだ?」

「スーパーから帰ってきたときに自分の部屋に買ってきたものをしまいに行ったじゃないですか。あのときに」

「本当か?」

「ほんとですよぅ!」


こいつは気の回ることに、ここに来る前にご飯を炊く準備をしてから来たらしい。しばらく自炊をしていない俺は、ご飯を炊くことなど、すっかり頭から抜け落ちていた。


「よかったぁ……」

「大袈裟ですよ! というか榎本さん、ご飯炊いてないくらいであんな反応するんですね」

「炊いてないくらい、じゃないだろ。目の前にカレーがあるのに、ご飯を炊いてないのは由々(ゆゆ)しきことだぞ」

「ふふっ、そうですか」


「ご飯を取ってきますね」と言い残し、神原は自分の部屋へ一度戻った。彼女が作っていた目玉焼きを見ると、もうほぼ完成しているらしい。



そういえば、神原はご飯を持ってくると言っていたが、如何(いか)な方法で持ってくるのだろうか。

もし小分けにして持ってくるのであれば、何回も往復する必要がある。しかし、一回くらいは戻ってきてもいい頃だ。

では大皿に移してから持ってくるとすればどうだろうか。神原がご飯を何合炊いたのかは分からないが、あの女の子の非力な細腕には、少しハードではなかろうか。


「……ちょっと見てくるか」

俺はサンダルを履いて玄関を出ると、神原が住んでいるらしい501号室の方に体を向けた。


「……大丈夫か」

「大丈夫じゃ……ないかもです……」

廊下に出ると、神原はがそこにいた。距離感的に、502号室の前くらいだろうか。炊飯器を両手で持ち、重そうに上体をメトロノームのようにゆらゆらと揺らしている。


「それ貸せ。重いだろ」

「あっ……ありがとうございます」

神原から炊飯器を奪うように受け取ると、神原は呼吸を落ち着け始め、俺は自分の部屋に向かった。

わりと多めにご飯を炊いたのか、炊飯器はずっしりとしていた。俺は両手なら余裕で持てるが、女子の腕力では少々苦労しそうだ。


「ほら、早く行くぞ。カレー作ってたら腹減った」

「もう……しょうがないですね!」

神原は弾けるようにそう言うと、俺の後ろをとことことついてきた。




「それじゃあ、いただきます!」

「いただきます」

それからは特に何事もなく、眼前のテーブルには目玉焼きが乗った美味そうなカレーライスが二つ、鎮座(ちんざ)している。

神原に(なら)って食材への感謝を――これを言うのも久しぶりである――口にすると、俺たちは銀のスプーンを持ち上げた。カレーとライスの境に(さじ)を入れて(すく)い、そのまま口に運ぶ。


実家で食べた以来のカレーライスは凄まじく美味で、頰が落ちそうである。

神原の方も同じ思いなのか、目を細めて一口目を味わっているようである。なんとも美味そうに食うやつだ。


「おまえって凄いな。こんな料理できるとは……」

「えへへ〜、ありがとうございます!」


神原が答えるうちに、俺はカレーをぱくりともう一口。


「というか榎本さん、一応料理できたんですね。手際よかったです。指は切っていましたが……」

「うるさい。ていうかできるって言っただろ」

「せっかくできるんですから、自炊もすればいいのに」

「めんどくさい」

「もう……」


神原は呆れたように息をついている。しかし、俺はよっぽどのことがない限り、自炊をするつもりはない。


「料理ができる人はモテるらしいですよ?」

「必要ない。ていうか早く食え」

時計を見るといつの間にか七時を回りそうである。俺もこのカレーを味わっていたいが、この後には洗い物もあるのだ。もたもたはしていられない。


「……まあ、私としては料理ができなくてもいいんですけどね」

「ん? どういうことだ?」

「なんでもないです!」

神原は少し謎めいてそう言うと、ぱくぱくとカレーを食べ始めた。俺も頭にハテナを浮かべながらも、神原より量が多いカレーを胃袋に入れていく。



「「ごちそうさまでした」」

俺たちは揃ってこぼすと、各々の食器を持って台所に向かった。

「洗い物は俺がするから、神原はテレビでも見てていいぞ」

「いいえ! お手伝いします!」

「……そうか」

神原は俺から皿を受け取ると、シンクに置いて、水につけた。目の前にあるスポンジに洗剤をつけ、何度か揉んで泡立てている。


「じゃあ俺は食器拭くから、神原はスポンジの方を頼む」

「了解です!」


嬉々として手伝いをする神原は、まず使ったスプーンを水で軽くすすぎ、スポンジを用いて汚れを落としている。


「榎本さん、今日はありがとうございました」

「なんのことだ?」

「私、ずっと一人でご飯を食べていたので、誰かと一緒に食べるのってすっごく久しぶりで。だから榎本さんとご飯を食べれて、楽しくって」

「……そうか」

「だからまた一緒に食べてくれると、嬉しいなぁって……」


少し寂しそうにそうこぼすと、今度はちらちらと上目遣(うわめづか)いでこちらを見上げてくる。学校一の美少女による上目遣いの破壊力は、言うまでもない。


「まあ、そのくらいなら……」

「本当ですか!?」

「こんな美味いご飯を食べられるならな」

「ありがとうございます!」


フライパンを洗っている神原の表情は、驚きから満開の花のような笑顔に変わっている。俺は決して美少女の上目遣いに屈したわけではない。美味いものを食べられるという誘惑に屈したのだ。


「じゃあそういうことで! 明日は何をたべたいですか?」

「明日って……おまえ毎日作るつもりか?」

「はい! だって榎本さん、私が作らないとまた冷凍食品ばっかりたべますよね?」

「仰る通りだ」

神原は今日だけで俺の惰性を理解したらしい。まあ俺としてもこんな美味い料理が食べられるのは願ってもないことだが。


「じゃあ、今日はありがとうございました。余ったカレーは鍋に入れてあるので、明日食べましょう!」

「さっき明日は何を食べたいかって聞いてきたのにか」

「あ、そういえばそうですね。うっかりです!」


神原はいつの間にかエプロンを脱ぎ、食器を入れた袋を手に持っている。

「おい、炊飯器忘れてるぞ。持って行ってやるから早く行くぞ」

「ありがとうございます!」


廊下に出ると501号室はすぐそこで、二十歩も歩かないうちについてしまった。

「じゃあまた明日な。あと俺の部屋にも炊飯器あるから、もう持ってこなくていいぞ」

毎回これを持ってくるのも面倒だろうと思ってそう告げると、神原は驚いたように目をパチパチさせている。


「……なんだ」

「いや、榎本さんもなんやかんやで、ご飯の件を了承してくれてるんだなと思って」

「お、俺はただ美味いものを食べるために……」

「はいはい、そういうことにしておきます! では、また明日!」

何故かニヤニヤしながら帰りの挨拶を済ませた神原は、501号室のドアを閉めた。辺りは静まり返り、少しばかりの虫の音が聞こえるのみである。


「……なんか、長い一日だったな」

俺は自分にしか聞こえない声量でそうこぼすと、課題を済ますべく自分の部屋へと足を向けた。

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