リクエスト
「お、お邪魔します……」
「どうぞ」
神原は少しおずおずとした様子で、505号室の玄関を跨いだ。
今日の神原は、ふんわりとしたカットソーにスキニーパンツ、薄手のカーディガンというラフな格好に身を包み、背中にはひよこらしきキーホルダーがついたリュックサックを背負っている。
「なんでそんな緊張してんだよ。もう何回も来たことあるだろ」
「それはそうですけど……今回のはまた違うというか」
「? どういうことだ?」
「知りません! 榎本さんのばか」
神原はどういうわけか、頬を膨らませている。何か怒らせるようなことをしたのだろうか……
「……今日って勉強するんですよね?」
「そのために来たんだろ。ほら、あがれ」
これからすぐにとは言わないが勉強をするのに、神原は既に疲れた顔をしている。
時刻は九時半を回ったところだ。もう少ししたら始めてよう。今日は夕飯の時間まで多分ずっと神原がいるので、彼女のやりたい範囲くらいは余裕で終わるだろう。
「そういえば、言っておいたテスト、持ってきてくれたか?」
「持ってきましたけど……本当に見るんですか?」
「そうしないと、どの範囲ができないのかがわからないだろ?」
俺は事前に、例の数Ⅰのテスト以外のものを持ってくるように、神原に言っておいた。あまり気乗りしていないような表情だったが、ちゃんと持ってきてくれたようだ。
「点数とか解答とか見て笑ったりしないから安心しろ。持ってきてくれてありがとな」
「うぅ……あんまりじっくり見ないでくださいね?」
神原はリュックサックから取り出した透明なクリアファイルを、こちらに手渡してきた。中身はもちろん、名前の欄に神原陽葵と書かれたテストたちである。
俺はそのテストを、一つ一つ確認していく。点数ではなく、間違えた範囲を重点的に。
「一通り見た感じ、酷いのは英表と数学か」
「ひ、酷いとか言わないでくださいよぅ!」
「ああ……すまん。悪気はなかった」
こいつが言うデリカシーがないとは、こういうところなのだろうか。反省反省……
「それじゃあ、そろそろ始めるか」
「えっ、もうちょっとあとでも……」
「や、る、ぞ」
「……はい」
勉強から逃れようとする神原を言葉で威圧してみる。しょげたような表情を浮かべ、泣く泣くペンケースを取り出している。
「じゃあ最初は数学からな。俺は俺で勉強してるから、わからないところがらあったら聞いてくれ」
「了解です……」
げんなりしている神原は、赤ペンを手に持ちテストの見直しを始めた。先日配布された正解答と自分の解答とを見比べて唸っている。
(……俺も数学でもやるか)
俺はテストの見直しを事前に終えている。そのため、今から始めるのは次の範囲の予習である。
こいつも根は真面目なのか、一度ペンを持つとおちゃらけることも無くなった。たまに伸びをしたりすることはあったが。
「意外と頑張ってるな。三十分くらいでやめるかと思ってたのに」
俺は神原に麦茶を差し出し、話しかける。
「ありがとうございます。三十分って……」
神原は口を尖らせてそう言った。小ぶりな口で、麦茶をちびちびと飲んでいる。
「そういえば、榎本さんって勉強してても嫌な顔しませんよね」
「まあもう慣れたというか」
「慣れた、ですか」
「もちろんやらなくていいならやらないが、勉強しないと特にやることもないしな」
「そういうものですか……あっ」
ふと神原の方から、くぅ、と可愛らしい音がした。見れば、卵のように白く小さい顔を、みるみる紅潮させていく。
「ごめんなさい、お腹空いちゃって……お昼にしませんか?」
「……そうだな」
集中していて気が付かなかったが、時刻はもう一時を回っている。いつもなら既に昼食を取り終えている時間だ。腹が減るのも仕方ない。
「それじゃあ作りますね! リクエストの通り、オムライスでいいですか?」
「ああ、頼む」
俺が今回の昼食として神原にリクエストした物。それはオムライスだ。久しぶりに食べたいと感じたからである。
神原は勉強をしている時とは対照に、軽やかな手つきでオムライスを作っている。しばらく待つと、芳醇な香りがキッチンから漂ってきた。
「それじゃあ、いただきます!」
「いただきます」
俺と神原は同時にオムライスを一口大に掬い、舌鼓を打った。作るのに時間もあまりかけずにこのクオリティとは。店でも出そうものなら、黒字は堅いだろう。
「いつもありがとな。今日は夜だけじゃなくて昼まで」
「いえいえ! 作ると言ったのは私ですから!」
俺は日頃、料理の面では手伝えることがあまりないので、言葉で伝えることにしている。
神原は顔を綻ばせると、オムライスをぱくりともう一口。
「午前中はどうだった?」
「久しぶりにこんなに勉強した気がします!」
「テスト期間とかどうしてたんだ」
「やろうやろうとは思うんですよ! でもつい後回しにしちゃって……」
神原は照れたようにはにかんだ。こんな会話をしているうちに、俺のオムライスは半分をきっている。
「「ご馳走様でした」」
それからほどなくして、皿に乗っていたオムライスは、きれいさっぱりなくなった。
「じゃあ片付けは俺がやるから、ちょっと休んでてくれ」
作ってくれたのに片付けまでさせるのは悪い。そう思って立ち上がった。しかし、神原は釈然としていない様子だ。
「私も手伝いますよ! 榎本さんばっかりにさせられません!」
「ばっかりって……ご飯作ってくれたのにか」
「それはそれ、これはこれです! 」
どうやら何を言っても聞きそうにない。俺は反論をやめた。
ところが、立ち上がらんとしている彼女を見れば、膝まである丈の長いカーディガンの裾を踏んでいる。神原はそれに気がついていない様子だ。
「っ! 神原!」
「なんですか? ……あっ!」
神原は予期していた通り、すてんと転んだ。それは最早避けられなかった。
しかし、それを予想していた俺は、神原と床の間に手を滑り込ませ、背中にかかった栗色の髪ごと、彼女の体を引き寄せた。
「いってて……神原、怪我はしてないか?」
「はい……榎本さんこそ、大丈夫ですか?」
神原は今にも涙腺が壊れてしまいそうな表情だ。そんなに気負うこともないのに。
「俺なら大丈夫だ、怪我もない。神原が無事てよかったよ」
「うぅ……ごめんなさい」
「いいって」
俺の頭や体をぺたぺたと触ってくる。怪我の確認だろうか。ちょっと転んだくらいで大袈裟である。
神原は寸刻それを続けていると、だんだんといつもの顔に戻っていった。それより……
「なあ、神原」
「はい?」
「その……そろそろどいていただけると」
「……あっ!」
ようやく自分たちの体制に気づいたのか、神原は火がついたように赤くなった。
どんな体制かと言うと、神原が俺の上に馬乗りになっている、というものだ。
「ごごごっ、ごめんなさい!!!」
神原は早口で捲し立てると、迅速な動きで退いた。俺と反対の方を向き、手をグーにして正座している。
「……俺、洗い物してくるな」
「よ、よろしくお願いします……」
俺は顔の熱を冷ますべく、足早に洗面所に向かった。
そこから少しの間、互いに顔を見られなかったのは、言うまでもない。




