お嬢様のお楽しみ。〜父の日とお父様の企みと従者編〜
龍真が自室に戻ると、女給長の飯田智子がいた。
背は低く肥えてはいるが愛嬌のある中年女性である。栄養士の資格を習得していて、主に政美の食事を受け持っている。
屋敷のほとんどの掃除は別の女給の仕事だが、龍真と政美の部屋掃除を担当しているのも彼女だ。
「あら、龍ちゃん。しどけない姿も男前だね。喧嘩でもしたのかい? 髪型崩れてるよ」
「おはようございます。飯田さん。喧嘩ではありませんが、ちょっとお嬢様にやられまして」
「あはは。あんたも大変だ。お嬢様からのご注文。中に新しい背広を用意してあるからそれに着替えて欲しいんだってさ」
それでこの暴行だったのだろうか。
龍真はボタンがほとんど引きちぎられたカラーシャツを見る。
「今日は旦那様がおいでだからね。気合い入れとかなきゃ」
「仰るとおりです」
「それにしても龍ちゃんの部屋はつまんないね」
「え?」
「うちの息子の部屋なんか荒れ放題だし、水着やら裸のオネエチャンの写真本はでてくるわで大変なんだけどさ、龍ちゃんの部屋は片づいてるし、なーんにも出ないんだから」
「私はもう卒業してますから」
「そういう事か」
「はい」
龍真はニヤリと笑う。(本人は微笑んでいる)智子はビクッと肩をすくませた。
「浮いた話一つもないけど、龍ちゃんあんたまさか……お嬢様を手籠めにしてんじゃ……」
「まさか!!!! お嬢様は私の命よりも尊い存在!!!!」
「そうかそうか。手籠めにされるったら龍ちゃんの方だよね」
「え、飯田さん……?」
智子はごめんごめんと右手を振った。
龍真は無表情で遠くを見つめている。
「いえ……、それでは……私は準備がありますので……」
「そうね。私も昼食の準備してくるから」
「よろしくお願い致します」
自室の襖を開けると、龍真は言葉を失った。
「相変わらずだね。龍真」
自分の部屋に、如月世一が正座をしてお茶を啜っている。
「旦那様!! お迎えもせず申し訳ありません」
縁側に正座をし、すぐさま頭を畳にぶつけた。
「ううん。いいんだよ。夕べから眠れず、居ても立ってもいられなくて約束の二時間前にきたのは儂だから」
世一が着ている銀がかった黒っぽいスーツとワインカラーを基調としたスカーフに見覚えがあった。
御歳五十九。恰幅がよく、眼力も強い。鷲鼻で口髭を濃いごい蓄え、威厳と風格が服を着ているような男だが、人格は温厚篤実。仕事の時は人が変わる豪傑である。
「仰っていただけたらお迎えに上がりましたのに」
「ふふふ。龍真お前は相変わらずいい子だね」
「有り難き御言葉」
「まあ、楽にしなさい。たまには儂の話相手になってくれてもいいだろう」
「はい。私でよければ喜んで」
龍真はもう一度頭を下げて、中に入るとそっと襖を閉めた。
「さっそく質問なんだが、暴漢にでも襲われたのかい?」
「い、いえ……これは……」
「政美が暴れたか」
「え……いえ……その、これは……カラーシャツ耐久品質検査でございます!!」
我ながら苦しい言い訳だと解っていながら龍真は土下座する。
「あっはっは。龍真、面白いね」
世一は膝を叩いて笑った。
茶を啜り、一息つく。
「なあ、龍真」
「はい」
「さっそく本題なんだが。お前、儂の下で働かんかね」
沈黙が空間を支配する。
「……大変光栄なお話ですが、申し訳ありません。私にはお嬢様の下以外居場所はないものと決めております」
龍真は両手と額を畳に押しつけた。
「いうと思った。だけどね龍真。政美の将来を考えれば必要だと思うんだがね」
「と仰いますと?」
「儂の秘書として働かんか?」
龍真は、ごくっと喉を鳴らした。願ってもない話である。
「本当はもっと早くこの話をしたかったんだけどね。政美の事を考えると、言い出せなかった」
世一は目を伏せ、茶を啜った。龍真は黙ったままじっとしている。
「しかし、あの子ももう十六歳。高等科にも慣れて、少しくらいお前離れも出来るだろうと思うんだ。それに、時間がないのだよ」
「はい……」
「政美を大事にしてくれているお前だからこそ適任だ。政美を口説き落とす時間も必要だろうから、返事は一週間待とう。来し方行く末をよく考えてくれ」
「ご配慮、痛み入ります」
「うむ。じゃあ龍真、早く着替えなさい」
「はい。それでは失礼致します」
龍真は用意されたスーツを持って退室しようとすると、世一に止められた。
「自分の部屋で何を遠慮している。いいからそこで着替えなさい」
「はい。では……」
龍真はボタンのほとんどないカラーシャツを脱ぎ、ついでに緊張で汗ばんだ肌着も脱いだ。“龍真ってガタイがいいからねじ伏せ甲斐がありそうだし”
ふと、背後に気配を感じ、脳裏に政美の言葉がよぎる。
脱ぎかけたシャツで胸を隠して世一を振り返った。
「だ、旦那様?」
「龍斎氏は太っ腹だな」
「ち、父がですか?」
「こんなに素晴らしい息子を惜しげもなく儂の所へくれたのだから」
「勿体無き御言葉」
龍真は、世一の前に跪き頭を垂れた。
「私の力不足でお嬢様は右目を失ってしまいました。あのときのことを思い返すと悔やんでも悔やみ切れません。命に代えても御守り出来ていれば……!!」
「……そういうけれどね。お前だって久遠寺家の大切な息子なんだよ。なにも政美だけが尊いわけじゃない。お前も同じだ。あの子のためにこんなにも傷だらけになって、その人生まで賭けてくれる。儂はあの子が羨ましい」
「……旦那様……」
「決して悪いようにはしない。前向きな返答を待っているよ龍真」
世一は、龍真の肩にそっと手をおくと、静かに部屋を出ていった。
「有り難き……御言葉……」
龍真は畳についた手を強く握った。
「あらあら。旦那様、わっるい笑顔」
世一が忍び足スキップで厨房へ入ってくると、飯田智子があきれ顔で言った。
「おう。智ちゃん。今日のお昼ご飯は何かね」
「旦那様の大好きな鯛づくしですよ」
「いいねいいねえ。あらの味噌汁もよろしく頼むよ」
「もちろんですとも。旦那様、そのお顔でしたら龍ちゃんを口説き落とせたみたいですね」
「ふふふ。わかるかね」
(わからいでか)智子は心の中でつっこんだが口には出さない。
「あとは政美がどういうか。なんせ龍真にべったりだからな」
「お嬢様は聡明なお方ですからご心配は無用かと」
「うむ。公子は美姫の婿を宛にしておるようだが、龍真程の青年が現れるとは思えん。それに政美は長女だからな。家督はあの子に譲りたい」
「親子揃って龍ちゃん贔屓ですこと」
「それより智ちゃん。どうどう? このスーツ。儂、マーロン・ブランドみたいじゃないかい?」
「はいはい。そうですね」
“龍ちゃん贔屓”を認めたくないらしい世一は、政美から贈られたスーツに話を切り換えた。
「智子おばちゃーん!! 龍真見なかった〜?」
パタパタと足音を立て政美が厨房へ飛び込んでくる。
「政美ちゃん!!」
「父様!? まだ八時半だよ!?」
「だって早くお前に会いたかったんだもの」
「それにしても早すぎるってば」
口を尖らせる様も可愛いらしく、世一の目尻は下がりっぱなしである。
「すまんすまん。許しておくれ」
「いいよ。父様、それより龍真見なかった?」
世一の笑顔が変化する。笑ってはいるが、背後に黒いものが渦巻いている。
「ん〜? 儂はさっき来たからなぁ〜」
「そうなんだ。じゃあいいや」
さっさと厨房を後にする政美。ショックを受ける世一と、気まずそうな智子。
「あ、父様。朝ご飯もう食べた?」
とてとて歩いて戻ってきて、入り口から顔を覗かせる。
「朝一番で来たからまだだよ」
「じゃあ、一緒に食べようねっ」
弾けるような笑顔でいうと、世一の不穏な空気が一掃される。
(やるわね。お嬢様)
飯田智子は政美の鮮やかな手練手管に感心した。
〜続く〜