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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【小天狗起業奮闘編】
92/288

005 美濃の新興勢力②

誤字脱字は負荷にならない限りできるだけ対処いたします。

ご指摘ありがとうございます。






笠松郡代様に黙って差し出した10両。

商人が権益確保の担保として納める冥加金としてはいささか小額であったけれど、よほど予算が不足しているのか、直接受け取ろうとしない郡代様のかわりに呼ばれた小役人が、その包みを恭しく受け取って一礼して下がっていった。

まだ売り上げさえあがっていない状況で手元資金の10分の1が無為に溶けていくのは非常に痛い。が、これは避けようのない必要経費であっただろう。


(西浦のくそじじいにいらん出血を強いられたな…)


すでに美濃焼業界という閉塞された世界で静かに殴り合いが始まっていた。

相手はこちらの力量を測ってやろう程度のちょっかいであっただろうが、これは例えて言うならヘビー級とモスキート級のボクサーがパンチを当て合ったようなもので、こっちはジャブ一撃でめろめろになりそうである。


「なるほど、いまだかつてない新しい焼物を作るうえで、既存の取引代金を当てはめられると商売が成り立たぬか。…美濃焼は西浦屋が取引値を決めておるゆえ、それらの雑器と一緒くたの値を押し付けられたらたしかに林丹波殿もお困りよのう…」

「器一つにかかる費用が比べ物になりませぬゆえ、西浦屋差配の美濃焼御蔵会所(美濃焼問屋組合)に価格を縛られますと運営が成り立ちませぬ。こちらの要望する価格を知ったなら西浦屋も絶句すること想像に易く、いたずらに美濃焼御蔵会所を混乱させるよりは独自に販路を切り開くべしと、林家を含めます《天領窯株仲間》にてすでに合議により決しております」

「…独自に、と申しても、濃州にて産する焼物は尾張様の独占するところは変わりはせぬぞ」

「…それも重々承知してございます。尾張様ご認可の蔵元とは別途話を進めておりますれば」


郡代の岩田様は、わずかな冥加金を受け取ってはみたものの、これっきりになりそうな話の流れにやや不機嫌そうである。

西浦屋の支配する美濃焼御蔵会所を介さずに商売するとなれば当然ながら取引先の問屋は名古屋や瀬戸にある瀬戸焼御蔵会所(瀬戸物問屋組合)となり、そこで上がる利益は当然ながら尾張藩に吸い上げられることになる。笠松郡代役所の手の届く範囲は、この濃州の幕領の中だけである。焼物で『冥加金』を無心できるのは美濃焼を独占し唯一の蔵元である西浦屋のみなのであった。


(実際、関係なんてないんやからびた一文払いたくないけど、ここで突き放して西浦屋と結託でもされたら、あとでとんでもないことになりかねないし……ああ、くそ! やっぱ何もなしってわけにはいかないか…)


草太は平伏したまま畳の目をじりじりと数えつつ、損益を計算し続ける。

郡代役所を敵に回すわけにはいかない。濃州域内最凶の公権力と結びつけば、西浦屋はやりたい放題である。現に《美濃焼総取締役》たる西浦円治はことあるごとに笠松郡代の権威をかさに着て、利益誘導を行い続けている。恵那五ヶ村の《窯株》を訴訟の末吐き出させたのもそのよい一例である。

むろん郡代役所と西浦屋のつながりは目に見える『冥加金』ばかりではなく、今回の『お祝い』などという慶弔ごとのやり取りでも分かるとおり、人同士の交流もまめに行われているらしい。人は交わした言葉の数で信用を形成していくものであるから、目に見えない部分でのつながりも相当に強くなっていることだろう。


「おそれながら江吉良林も旗本領とはいえ在するはここ濃州にございます。いずれ事業が立ち上がり、それなりに利益が上がるようになりますれば、《天領窯株仲間》として郡代様には改めましてご報告と御礼かたがた『冥加金』を納めさせていただく所存にございます…」

「うむ、それが道理であろう」


さも「当然」という感じに郡代様が首肯した。

まあここは泣いておいてやる。だけど金をやるんだからそれなりの対価を貰わないとこちらも引っ込まない。


「…つきましては、われら《天領窯株仲間》の手になる新製焼、『美濃新製』が美濃焼御蔵会所の取引価格にさしさわりを与えぬよう、『これは美濃焼にあらず』と郡代様のご威光をもってお認めいただきたく…」


ここで『美濃焼にあらず』の御免状要求!

きっぱりきっちり、西浦屋の領分とは決別しなくては。


「《天領窯株仲間》最大の株主であられる江吉良林家ご当主、林丹波守様も、同業者たちのたつきの道をむやみに阻むことのないよういたせと、今までにない価格帯での焼物商売で《株仲間》の商いが既存の商売を壊してしまうことを気にされておいでにございます。窯の再建すらまだおぼつかぬ新参の窯元ゆえわたくしどもといたしましては郡代様のご配慮にすがりつきたいのは山々なのでございますが、《天領窯株仲間》は株の過半を握られます丹波守様のご意向に沿うべく決議し、道なき道を汗をかいて切り開いていく所存にございますれば…」

「その『美濃新製』といわれる焼物、そこまで労を払う価値があると丹波守殿はお考えであるのか」

「勝手は重々承知の上、そこを伏してお願い申し上げまする」


草太が額を畳にこすり付けると、横に控える森様も同じく平伏した。

理屈はこじつけた。あとはひたすら拝み倒すだけである。


「お願い申し上げまする…」


息詰まるような根競べの末に、この拝み倒しに音を上げたのはやはり郡代様だった。


「この岩田鍬三郎しかと承った…」


よっしゃ! 御免状ゲッツ!

これで紙装甲であった対西浦屋防御力がいくらか上がっただろうか。

伏して畳の目を追いつつも、草太の口許に笑みが漏れる。


(これで郡代様の発言力を削いだぞ…)


郡代様は良く分かっていなさそうだが、この『御免状』は西浦屋をどうこうするというよりも、郡代様自身を自縄自縛するためのものである。

役所というのは度し難いもので、一度誤って許可を出してしまうと、悪しき前例主義が働いて以後同じ問題が総スルーとなる。一度『美濃焼ではない』と認めてしまったがために、郡代役所は《天領窯株仲間》を非常に取り締まりづらくなってしまうだろう。こっちも御免状を逆手にとってごねるしね。

郡代様自身ならば、それを差し許したおのれの沽券さえも関わってくるのでなおさら口は出せなくなる。

郡代様はおつきの役人を呼ばわって、文台のうえでさらさらと書状を書きしたためた。それを広げて草太たちに内容を指し示し、手早く折りたたんで控える森様にそれを下げ渡した。

その書状を森様が懐に仕舞うのを確認して、草太はやっといくらか緊張を解いた。


「…『美濃新製』が『美濃焼』にあらずとは、なかなかにおかしな物言いではあるが、理解した。林丹波殿のご都合もあるだろうゆえ、年一度の『冥加金』納付を条件に林家所領内の焼物については美濃焼とせぬこととしよう。…そうなれば『美濃新製』では分かりにくかろう。今後はそうよな……そちらの代官役所のある郷の名を取って『根本新製焼』とでも称するがよかろう」

「はは、以後そのように称しまする」


期せず焼物の名称が決定した。

『根本新製焼』です。代官所が『根本代官所』なので、『根本』が林家の所領の中心的な場所と公式にはみなされるものなのだろう。




話し合いが終わったあと、口上を勤めた草太は郡代様にえらく関心を寄せられて、そのまま昼食に誘われた。出自について根掘り葉掘り聞かれるので変な誤解を受けないよう普賢下林家の由来からおのれの父母にまで何ひとつ隠さずに申し述べた。

江吉良林家の二代目、林勝正公を祖とする普賢下林家の歴史と、その末端に三男の庶子として存在する彼のおかれた立場。庶子と聞いて郡代様は驚かれたようだが、こうして林家の大事業に参画を許された草太が冷遇されているはずもなく、むしろその驚嘆すべき歳不相応の知識と胆力を賞賛して、「岩田家の養子に来ないか」とまで言い出したときはこっちが驚いてしまった。

この時代の武家の養子のやり取りは、現代では考えられないくらいに日常的なのだ。父祖から受け継がれた『血』よりも『家』の興隆を優先する発想は、現代人には到底理解できないものだろう。

もちろん草太は笑ってスルーするしかない。本流でない『庶子』というあたりが、いかにもその養子話を触発してしまうのだろう。

その後二代目勝正公の濃州での大規模な治水事業の話などで場はおおいに盛り上がり、そして養子話は保留ということで散会となった。


「『新製』などと言うからには、やはりそれは磁器なのだろうな」


訪問時とは劇的に対応が変わって、帰りは郡代様自ら見送りに出てきた。

送られるほうは恐縮するばかりである。


「たしかに。『根本新製焼』は新磁器にございます」

「『瀬戸新製』は江戸表にも盛んに売り出されて、相当に振るっておるらしいな。もしもその『瀬戸新製』を上回るものが作られるのなら、『根本新製焼』の将来も明るかろうて。美濃の強みであった米の石高は、この時代ではあまり金にもならん。そちらで始められたような新たな殖産事業こそが新しい濃州の夢を築いてゆくにちがいあるまい。…日々精進し、しっかりと事業に励まれよ」


《天領窯株仲間》の権益を守るのに汲々としてしまっていた草太は、そのとき初めて郡代様という『人物』を見たような気がした。

祖父の貞正様のように、文武に励むのを美徳とする武士には識者が多い。

玄関口で端然と立って客人を見送るその姿は、ただそうしているだけでどっしりと重みを持っている。

草太は知る由もないが、笠松郡代、岩田鍬三郎は、のちに『公武合体』の象徴となる和宮妃輿入れに深く関わる人物である。

いまは安政の大地震により退潮を示す美濃の産業を誰よりも憂えるひとりの行政官であった。






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