003 あーい
美濃焼業界の首領と書いてドン、濃州幕領で生み出される焼物をまさに牛耳る特権的独占問屋、『西浦屋』の当主からのおそらくは「挨拶代わり」の一手に、発足間もない《天領窯株仲間》は大いに慌てふためき、早くもその準備不足を露呈する形となってしまった。
笠松郡代様から『認可』の形で下されようとしていた致命の《楔》。
そのけれんみのない手管に草太は素直に感心したものだったが、それを《天領窯株仲間》に報告の形で伝えたとき、彼の危機感を共有しえるもののあまりの少なさにため息を抑えることができなかった。
「正式に郡代様にお認めになってくださるのならありがたいことやろう。…そんな一大事みたいに勢い込んどるからこっちも驚いたやないか」
「ですから、これは一大事なんですって!」
郡代様の認可が、今後《天領窯株仲間》にどういう影響を与えていくかの解説を懇々と加え、ようやくに理解を共有しえたのはその日の夜半のことであった。
「…なるほど、相手はお上のお役所仕事やからな。そういうことになるのかも知れんな」
「『役所は何でも管理したがるもの』か。うまいこと言いよるわ」
焼物の生産と販売には当然のことながら利権的思想が漏れなくついてくる。
むろん天領窯で生産される焼物にも《租税》は課され、販路のいたるところでも利権に対する対価として《冥加金》(※注1)というヤクザも真っ青な武家社会の『たかり』が発生する。
《租税》についてはこれは江吉良林家領内のことなので林家への納税となるのだが、販路まで勝手自由にされると笠松郡代の収益となる《冥加金》を天領窯に要求する根拠がなくなってしまう。
笠松郡代側としては、美濃焼総取締役たる『西浦屋』が利権を独占することで、《冥加金》の問題を簡便化している向きがある。要は「利益を独占させてやるから」と餌をちらつかせて、『西浦屋』から定期的に《冥加金》を引き出しているのである。郡代側としては、旗本領とはいえ金の卵を産む鶏を見逃すはずもなく、その『西浦屋』べったりの利権スキームに天領窯を組み込んでしまうのがもっともお手軽な『増収』手段であった。
目に見えるものは『正式な認可状』というこの時代的な《名誉》なのでたやすく食いついてしまいそうになるが、このたちの悪い《餌》に食いついた瞬間、《天領窯株仲間》はその秘めたる可能性を在来の既得権者たちに吸い尽くされてしまうであろう。
(…現時点では郡代様自身にまったく悪気の自覚がない、というのがまたたちの悪いところだな)
一度『美濃焼窯』として認可させてしまうと、郡代様の『面子』とか出てきてしまうから旗本領内のことと突っぱねるのも難しくなるだろう。
江戸本家としても、有力者である郡代様と角つき合わせるような事態は避けるだろうから、そのような状態に陥った時点で《天領窯株仲間》のTKO負けである。
まずは早急に郡代役所に遣いを送り、「お断り」を伝えねばならないのだけれど。さて、誰に行ってもらおうか。
組織というものの長所のひとつは、責任の所在を「組織全体」とすることで、個々の責任負担を軽減できることである。遣いは《天領窯株仲間》という『法人』の意向がそうなのだと第三者的な答弁が可能となる。
こういうときは当事者が出向かないのが味噌である。何かあったときに「そんなこと言った覚えはない」と強弁を張るための保険になるのだ。
代官屋敷の一室で鳩首会議する一同をじろじろと見回して、草太は某カプセルモンスター使いのように「おまえに決めた!」と脳内でびしっと決めポーズを取りたかったのだが…。
「…あ、遣いはぼくが行きます…」
冷静に考えて、筆頭取締役たる祖父が出張るのはまずいし、代官様などはこの後何か問題があったときの切り札、スイーパーとしてぜひ取っておきたいカードである。
今回はいわゆる「捨てカード」であるべきなのだが。
じいっと草太に見つめられて、代官所与力衆たちは居心地悪げに身じろぎした。こいつらにはピンで交渉役は無理でしょう。分かります。
「…森様。ぼくもついて行きますんで、代表お願いします」
「わっ、わたしがか…」
「一番年かさの方ですし。年齢が郡代様よりも上のほうがいろいろと塩梅もいいと思います……(一番あつかましそうですし)」
語尾をほとんど聞き取れないほどに濁して、草太は森様のごつごつした手を包むように握った。
「ふたりしてがんばりましょう!」
にっこりと微笑むと、柄にもなく森様がてれてれと目元を赤く染めた。多少は儲けさせてやるんだから、汗ぐらいかかさないとね。
そろそろ草太の本性に気付き始めている代官様が若干引き気味であったけれど、いまさらだし取り繕おうとも思わない。
《天領窯株仲間》という組織は、いまのところ草太が動かねば何も始まらない状態であるのだろう。ともかくも一個の生き物のように組織が自律的に動き出すまでは、彼が風を起こし続けねばならない。
われながら危ういほどの張り詰めように、『過労死』という嫌な言葉が浮かんだ草太であった。
疲れた体を引きずって夜半過ぎに寝床へと入った彼であったが、明るくなる前に目が冴えてしまう当たり精神が病んできているのかもしれない。
井戸水で顔を洗い、ぼんやりと明け始める空を眺めていると、どこかからトントントンっと、小気味よい包丁の音がする。
朝餉を準備する女たちの朝は早い。女中さんたちが炊事を始めているのだろうとそちらへと足を向けると、ちょうど桶を抱えて水を汲みに出てきたお幸と鉢合わせになった。
「…だいぶ慣れた見たいやね」
「…うん」
先日、家に連れ帰ったお幸を見て祖父母は驚いていたが、息子たちの火遊びで散々苦労してきたことによる耐性か、小間使いだという彼の説明をすんなり受け入れてもらった。
「7×9は」
「…ろ、六十、と三」
「3両を4人で割ったら、ひとりいくら?」
「…1両が4分やから、全部で12分……ひとり、3分」
「正解」
頭をなでてやると、お幸ははにかんだようにもじもじと身をよじった。
念のために言うが決してナデポなどではない。自分よりも小さい子に頭をなでられたことのある人間ならおんなじしぐさをしてしまった記憶があるはずだ、とドヤ顔で断言しておく。
お幸は女中見習いとして林家のまかない方の戦力化をされる一方、ゆくゆくは草太の事業の秘書的な役割を与えるべく絶賛教育中である。
問題に正解したときはご褒美の金平糖を一粒与える。こういう分かりやすい対価を与えることによってお幸は物欲パワーなのか簡単な四則演算をマスターしつつある。
結果に満足しつつ草太が三日後の「小テスト」を予告すると、従順であるべき見習い女中からありうべからざるブーイングが上がった。教育的指導でチョップしてやる。
「…草太さま、朝ごはんの用意、まだ。…おなか減った?」
「いや、たまたまこっちきただけやし。お幸は油売ってないで、さっさと働く」
「あーい」
林家の水に慣れたのか、だいぶ明るくなってきた気がする。桶をぶら下げて井戸に向かうお幸の背中を見送って、草太は勝手口のほうから母屋へと上がっていった。
釜焚き中の女中さんの一人から「若様、笑ってるし」と指摘されて口許に手をやった。笑っていた自覚はないのだけれど。
ただなんとなく気持ちが軽くなって、廊下ですれ違った女中さんに手を上げて「おはよう!」と挨拶していた。