040 発会
安政2年(西暦1855年)春、美濃の東辺、林領大原郷の地に、まるで雪の下にひそかに芽吹いた小さな野草のように、ささやかな『企業』が誕生した。
設立の古さで言えば寺社建立の専門会社『金剛組(※注1)』には遠く及ばねども、あの亀山社中が誕生する10年も前であることを特に強調すべきであるだろう。
根本郷の丘陵部に築かれた連房式登り窯、関係者の言うところの『天領窯』の生産と販売の組織であり、所有権を証券化して出資者に分配したそのありようは、まさしく後世に言う『株式会社』に他ならなかった。
《天領窯株仲間》
【持ち株比率】
江吉良林家49株。
普賢下林家41株。
根本代官坂崎家5株。
代官所与力森家1株。
代官所与力妻木家1株。
代官所与力北丘家1株。
代官所与力小木家1株。
窯頭小助1株。
筆頭取締役
普賢下林家当主、林貞正
監査役
根本代官・坂崎源兵衛
勘定方/技術指南役
普賢下林家・林草太
製造方窯頭
根本郷・小助
『天領窯』からあがる実費・経費・租税をのぞく荒利益は、持ち株数に応じて分配される。また、窯の損耗による修繕費や販売時のトラブル等取引差損などが発生した場合、その損金負担もまた持ち株数に応じて分散する。
運営は株主全員の合議による。人数ではなく株数で過半を有する意見を是とする等……組織のあり方についての取り決めも定まった。
むろんほとんどの案出は林草太によるものである。
江戸林家の現地名代となる代官様や与力衆たち比較少数株主は、やがて分配されるであろう利益にしか関心がないようであったが…。
***
ご無沙汰ぶりです。草太です。
ようやく想定していた体制が整ったのが3月の末。大原に帰還したのが2月10日であったので、草太が積極的に注力しても2ヶ月近くかかったことになるのだけれど。
これだけ苦労してやっとスタートラインに立ったとか、ほんとに転生チートかと突っ込みを入れたくなるが、これが厳しい現実ということなのだろう。
とりあえず実現しただけでもよしとせねばならないだろう。《権利株》の過半を押さえられなかったのが残念ではあったけれども、まあそうなるんじゃなかろうかと半ば予想はしていたのでそれほどのショックはない。
この持ち株比率は、「お前たち現場が一致団結したときだけ主導権を認めてやる」という江戸本家の意向が見て取れる。ひと株でも取りこぼすと、あっという間に主導権を失う……まあお代官様は江戸本家の陪臣であって、実際のところ完全に過半数を押さえられた格好ではある。
この時代では未知のやり方である『株式会社』についての議論が建設的に進んだのは草太帰還後のことであって、こういった現代的な思考を必要とする話はやはり草太自身が主導しない限りなかなかに結果には結びつきにくいようである。
彼が京都にいる間、大原・根本の有力者たちを交えた『議論』は第三者的には失笑してしまうほどの無知と混迷に包まれていたようである。欲深い代官所与力衆による『普賢下林家不要論』などまで飛び出していたというから、笑ってばかりもいられないのだけれど。
(あんの欲ボケどもはとくに要監視だな…)
帰郷したすぐにその話を耳にして。
あの時はさすがに荒ぶって、そのままカチコミに飛び出そうとした草太であった。ほんと、止められなければなにをやったかわからない。あんまりにも腹が立って暴れまわったので、彼自身が半日布団に簀巻きにされてしまったぐらいである。
もともと地揺れ後の根本郷の騒動で、大いに功なった大原郷の庄屋一家のことが気に入らなかったのであろう。あの件で冷や飯を食わされた与力衆は、その陰湿な復讐心を満足させるべく『天領窯』事業からの普賢下林家追放を画策していたらしい。
簀巻きから解放されたのちに、草太が遠慮会釈なく『豪腕』を振るうこととなったのであったが…。
「窯を修復して、それで小助どんに焼かせて、それで商売が成り立つと」
言葉の槍をぐいぐいとねじ込むように語気を強める6歳児に、雁首並べた与力衆はなにを生意気なと、てんでに抗弁を開始したが、みなまで聞くまでもなく穴だらけの厨二案は草太によって豪快に足払いを食わされて、もんどりうって場外にまで叩き出された。
「壊れている窯はどうされるのですか」
「それは直すにきまっとる。あの程度の窯、多少の銭さえあれば作った本人がおるんやし直すことなど造作もないやろ」
「なるほど、ここに窯を築き始めてかれこれ3、4年たったらしいですが、あの地揺れ前ですらまだ試し焼きの段階で、正規に稼動した実績など一度もない、ということをご存知でそうおっしゃられているわけですね」
「……えっ?」
「あの完成度の窯を再び築き直して、そしてまた正式稼動までの数年間、小助どんや辰吉どんたちの生活費に資材研究費、窯の燃料になる薪代、その他もろもろの予想される『出費』をあなた様方がご負担なされると」
「なんや、すぐに焼けるんやなかったんか」
「話が違うやないか……これから3年もかかっとったら、そんなすぐには儲からんやないか」
まあ普賢下林家への意趣返しだけとは思わなかったけれど。
なかなか欲の皮を突っ張らせていたらしい。仲間内で早くも勝手なことを抜かし始めた与力衆の面々に草太は苛立ちを抑えつつも、口元にゆるく笑みを結んだ。
腹立たしい相手だけれど、狭いこの土地でそう簡単に『敵』など作るべきではないわけで。
「それと三つ子でも分かることなので改めて申す必要もないことだとは思いますが、あなた様方は江戸のお殿様(江吉良林の当主)のお持ちになっている《窯株》をどうやって融通していただくか算段は付けておられたのですか?」
「《窯株》…」
あっ、会話がとまったし。
まさかそこまで考えなしに騒いでいたとは。
「あの『天領窯』は江戸のお殿様が幕閣に働きかけて特別に差し許された窯。窯を焚く資格を定めるいわゆる《窯株》をお持ちなのはお殿様なのですから、無許可で窯を修復したとしても、それは主家への『無私の奉公』となってしまいますが」
「…それは……お代官様のお力で」
いきなり無茶振りされた代官様が手に持った扇子でびしりと膝を打った。
無論この場にはお代官様も同席しています。もともと株仲間にと誘っている人であるし、与力衆たちの口から飛び出した言葉を『言質』とするには、権威者の同席がもっとも効果的なのはいうまでもない。
「それは何の話や。…『いい話だから自分らに全部任せてくれ』としかわしは聞かされておらんが」
もう計画に粗漏がありすぎて、コメントもない。
「それによしんばお殿様の許可を得て窯の操業にこぎつけたとしても、作った焼き物をどこに売るんです? つてがなければ尾張様の取り決めに従って多治見郷の蔵元、西浦屋に卸すことになりますが、あそこでの商品の卸価格をご存知ですか? はっきりいって、職人の食い扶持も出ないくらいに叩かれますよ」
「…えっ? どこで売ってもええんやないんか?」
「美濃焼の販売権は権現様(徳川家康)の定めで尾張様の独占とされています。その尾張様に特に許されて焼き物を扱う商人を『蔵元』といって、美濃焼の『蔵元』はあの西浦屋だけです。こう言ったほうが分かりやすいと思うんで付け加えますが、西浦円治翁は尾張様より『美濃焼総取締役』のお役を賜っておいでです」
「…知り合いの窯元はいっつも恨み言ばっかいっとったが、……そういうことか…」
「しかも『天領窯』は新参者。よほどよいものでないと相手にもされないかもしれませんが……あなた様方のなかで、『天領窯』で実際に焼きあがった物を実見された方はおられるのですか?」
「………」
ここにいたって、ようやく口をつぐんだ。
彼らのあまりの『無計画』っぷりに、お代官様も呆れ果てたように沈黙している。
この旧来の制度で囲い込まれた『美濃焼』で新参者が成功を収めるためには、周到な計画と資金と人脈、そして何者も恐れぬ実行力が必要となる。
ほとほと呆れた草太が、与力衆に割り振りを予定していた《権利株》の話を少し考え直すと言明したときの彼らの慌てっぷりがまた彼をげんなりさせたのだが。
まあこんなふうに《天領窯株仲間》を作り上げるために草太は神経をすり減らし続けていたりする。3月末の今に至ってはもはや苦い思い出のひとつでしかないのだけれど。
「『発会』は鏡割り」
草太の声賭けで行われた発会式で用意された四斗樽を株主たちが緊張の面持ちで鏡割りし、《天領窯株仲間》は発足した。
大人たちが酒を酌み交わして談笑しているなか、甘酒を貰った草太は修復の始まった『天領窯』を眺めつつ、遠いかなたに細々とつながっている「成功への道」に想いを馳せていた。
草太は袖の中でお妙ちゃんの形見であるボーンチャイナのかけらを握り締め、心の中で呪文のように唱えている。
(やってやる……絶対にやってやる…)
周りには家族をはじめ頼りになる大人たちが何人もいたが、成功へと至る精神的な拠り所は彼の脳みそのなかにしかない。
現代知識という名のチート。
まだ実感があるほどにその知識で無双をした経験はない。本当に通用するのかどうかすら最後には疑問符をつけざるを得ない。しかし事ここに及んでもはや逃げることもできない。おのれの『成功』を載せた天秤の反対側には、普賢下林家の『破滅』が載せられている。
もう引くわけにはいかない。
もう彼はおのれを信じてがむしゃらに突き進むしかないのだった。
これにて【鬼っ子東奔西走編】終了です。




