036 有名人たち
アクセス数もだいぶ落ち着いてきて、やっと肩の力が抜けてきました。
展開がねっとりじっくりな作品なので、性急さを求められるのがかなりつらかったです。
感想ありがとうございます。余裕がなさ過ぎて返信できないままここまで来てしまいましたが、確実に励みになっておりますので、これからもよろしくお願いします。
呉服商の扱いについては作者も勉強して、後日反映できるように心に留め置きます。
お幸ちゃんを無事保護し、ひと安心したのも束の間。
不穏な雰囲気を放つゴロツキどもに見送られつつ五番町を出た草太は、すぐそこの辻で立ちん棒のお姐さんに袖を引かれてうろたえたている老人の門弟さんらしき人たちを見つけた。
後から追ってきたのだろう、その手に握られた荒縄の先には、最前の悪さを働いた無宿人たちが数珠繋ぎに連行されている。門弟たちは師匠の顔を人混みに見つけ、ほっとしたように駆け寄ってきた。
そうだった。
この男たちの仕置きをどうするのか考えないと。
お幸ちゃんを売り飛ばそうとした無宿人たち。そのことは無論許せることではなかったが、お幸ちゃんを無事保護した上は、ぶっちゃけもうどうでもよかったりする。
警察ではないのだから、街の治安維持にさらなる労を払うとか、精神的にも体力的にももうこれ以上は勘弁して欲しいところであった。
「奉行所に突き出したら、間違いなく死罪だな…」
被害妄想であろうか、源次郎という例の青年のつぶやきがわざと聞かせるように届いてくる。ここに及んでも何か期待されてるのか? そうなのか?
『突き出す』ことを選択した時点で、この無宿人たちの死刑執行のGOを出した責任が草太に発生する。前世の時代では、ある法務大臣が死刑執行のサインを拒否して鼻くそをほじっていたが、正直6歳児が決断すべきことなのか。
内心の不満に口を尖らせている草太を、伯父たちはニヤニヤ眺めているだけだし、この場で最も人生経験のありそうなあの老人は髭をいじりながらのんきに小唄を歌っている。
無宿人たちはすでに観念したのか血の気のない顔をさまよわせて、これで娑婆も見納めかというように色街の華やいだ喧騒を眺めている。
その彼らを拘束していた門弟のひとりが、眉目をしかめて老人に何事かささやいている。
「…そりゃ、困ったのう」
老人のつぶやきと、途切れ途切れに届く相手の声。
「番所に行く前に『小屋名主』にもきちっと話を通してくれと……うそか本当か、自分たちが朝までに顔を出さへんかったら名主が黙っちゃおらんとかしきりに訴えるもので」
「『小屋名主』が出てくるとなると、宗門絡みで坊主と厄介なお武家が出てくるかもしれんでのう……わしらが嫌がることをようわきまえとるわ」
「それと……先生、しばらく前から『犬』どもが周りを嗅ぎ回ってます」
「そういう呼び方はやめい。わしらは別にお上にたてついとるわけではない。何も後ろ暗いことなどないのじゃから、どうぞお調べになってくだされと堂々と構えておればええんじゃ」
会話に出てきた『犬』に草太は反応する。
それはつまり、老人の私塾を内偵している京都所司代の同心の方々ということなのだろう。思わず人混みにそれらしい姿を捜してしまったが、むろん草太に判別できるわけもない。
と、そこに見知った顔を発見する。
あれ、お役人様じゃん。
数日前に袂をわかった江戸のお役人様が立っていた。あちらも草太に気づいたように、「よう」という感じに手を振って見せた。そうして何のてらいもなく歩み寄ってくる。
「しばらくぶりですね。そっちの首尾はあれからどんな感じですか」
まあずいぶんと親しげにしてくれるけれども。幕末のキーパーソンのひとりと見るこのお役人と適正な距離を保ちたい草太は、目礼だけにとどめた。
「またなにか騒動を起こしているみたいですけど。よりにもよってというのもおかしな話ですが……あの有名な『星巌先生』といつのまに懇意になったんだ」
「せいがん先生??」
「『詩の星巌、文の山陽』の星巌先生【※注1】ですよ。知らなかったんですか」
そりゃあ詩文は祖父に多少は仕込まれたので知ってはいるけども。
山陽はたぶん儒学者の頼山陽。日本史を取っていれば確実に目にするビックネームだ。その頼山陽と双璧のごとく言われるって、めちゃめちゃ偉い先生だったようだ。
「わたしは所司代の同心連中が偉い先生を調べてるっていうんで、ちょっと興味がありまして野次馬についてきてたんですが。あの唐土の方士みてたいな格好と立派な髭。星巌先生に間違いありませんね」
こちらの会話は、街の喧騒に掻き消されて当人の耳には届いていない。
その詩の大家が、なにゆえ所司代の同心を『犬』扱いする不穏な門弟に囲まれているのかは分からない。時代が時代なので、本人の気持ちなど置き去りにしてそうした暑苦しい若者が権威に群がっているのかもしれない。
あの爺さんもなかなか大変そうだな。
祖父に教え込まれたとはいえその道に進むつもりのない草太に、権威に萎縮する気持ちは湧かない。
そのとき内偵中の同心の一人らしき男からお役人様が叱られた。
「小栗様!」
「いいじゃないですか少しぐらいは。もうカクレンボなんかしなくたってバレバレですって。それにこの坊やはちょっとそれがしと縁がありましてね」
小栗?
いま重要なヒントが与えられた。このお役人様の名であるとするなら、幕末有名人検索の中でヒットするのはあの人物しかない。
(…小栗……忠順)
うわお。ある意味幕末維新の大立て者だよ。
幕府の開国論者の急先鋒のひとりであり、外国船の買い付けに製鉄所建設にと内政チートにひた走ったオリ主のような人物である。
江戸幕府最後の暗君(おっさんの個人的見解だけれど)徳川慶喜に多少なりとも勇気と決断力が備わっていれば、坂本竜馬など霞んでしまうほどの業績を残したことであろう。
竜馬が海援隊と称して船一隻で突っ張っていたころ、幕府の信用をたてに大阪商人から100万両を出資させて、海外の列強相手に大商社を設立しようとした男である、といえばそのチートっぷりが分かりやすいかもしれない。
しかしなぜその人物がこんな時期に京都くんだりにいるのだろうか。詳しい経歴は知らないのだけれども、大身旗本である小栗家の跡継ぎであるならば、こんな単身で遣いに出されるほど扱いは軽くないだろうし、そもそも田舎者たちのストーカーなどするはずもないと思うのだけれども。
苗字が同じなだけかもと思いつつも、最終確認のつもりで餌を投げ込んでみる。
「小栗様…というのですね」
「あれ、名乗ってませんでしたか?」
「いまごろ江戸じゃあ黒船騒動でおおわらわやろうけど、こんなとこで油売っとっていいの? 周りの藩から人手をかき集めるくらい見張り役が足りないんでしょ」
「……やっぱり、いろいろと興味深い坊やですね。事情通にしてもすこーしばっかり『知りすぎ』だと思うんです」
顔は笑っているのになんだか睨まれてしまった。
「そんなこと、目端の利く街の商人なんかみんな知ってるよ。尾張のほうでも、黒船騒動を何とか商売につなげられないかって皆して議論してたし」
「こんなちんまい童が、その耳で聞いてきたように『尾張商人』を語るのもそうですが……聞きましたよ、名古屋のさる大店から驚くほどの大枚をせしめたそうじゃないですか」
「それは実家のほうでちょっと取引とかあって……そんなことより、小栗様はこんなとこぶらついてて大丈夫なんですか」
「…ははは。つまらない押しつけ仕事ばかりなもので、暮れに善光寺参ってくるってそのまま飛び出してきたてしまいました。いやー、思った以上に長崎は遠いみたいですねー」
おいおい、職場放棄かよ。
そういえば小栗忠順は、若いころから優秀すぎて、いろいろな職場で揉めて、役職を転々としていたらしい。揉めて下野してもなお『才が惜しい』とすぐに引き上げられるのだから、その才幹は推して知るべしなのだけど。
言っていることを100%受け取ると、いまこのひと絶賛『無職』ということになるのだろうか。
言葉遣いはおとなしいのに、無鉄砲すぎるだろ。
「…このお役人、大丈夫なのか」
次郎伯父が漏らした感想がストレートすぎて、草太は軽く吹出してしまう。
あれほど警戒していた謎のお役人の正体が、痛い家出青年だったというオチは予想してなかった。
我ながら笑ったのは随分と久しぶりな自覚がある。
「…飛び出したとか、どうせ職場で上役と喧嘩でもしたんじゃないですか」
ぼそっと小声でつぶやいただけなのだけれども、どうやら聞こえていたらしい。
ぱちんっ。
なぜか小栗様にデコピンをされて、草太はうずくまった!
「察しもよすぎると人に嫌われますよ」
ちょ、それ言うのか。
他人のことはよく分かっても、おのれのことはあまり分からないものらしい。
あんたの上司もそう思ってただろうね!
それがめっさブーメラン発言なのだということを、無自覚なこの人にこんこんと説諭してやりたい。
上役と喧嘩して職場を放り出してきた2500石取り小栗家嫡子、『小栗忠順』は、なぜか京都と滞在中です。
【※注1】……梁川星厳。江戸時代後期の漢詩人。『詩の星巌、文の山陽』と並び称されるぐらい当時は敬われていました。岐阜県大垣市出身の偉人です。