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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【鬼っ子東奔西走編】
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035 仕切婆 vs 6歳児






実際にお幸ちゃんの無事を確認して、一気に脱力してしまったのは仕方がなかったであろう。日中は連日続くヘッドハンティングに奔走し、日が暮れた後も突発したお幸ちゃん捜索イベントに休む暇もなく駆けずり回ってきた。

精神的にも追い詰められていた草太は、全力全開のアクセルベタ踏みでここまでやってきたのだ。

無酸素運動のごとき活動の果てに、草太は腰砕けになりつつも老婆の赫怒の炎を宿した眼差しに相対していた。気持ち的には萎えているのに、状況がそれを許さない。

直前のセーブを忘れてラスボスの広間に入ってしまった迂闊なプレイヤーの心境に近かった。

うわあ。次はこいつか。


「この娘はウチが()うたんだ! 誰にも文句なんか言わせへんよ!」


売買成立。

そして振りかざすのは『善意の第三者』…。

その娘が攫われたかどうかなんか知ったことじゃないし、金を払って売買が成立した時点でその所有権は自分の方にある。前世の時代なら、『財産権』という法律がこの老婆の権利を過剰に擁護したことだろう。

だが今は江戸時代。

こういった争議は声が大きいほうが勝つ。その攻防はまさに相撲に酷似していた。

押さば押せ。

引かば押せ。

この老婆の恫喝は、まさに立会い時の鬼の突っ張りのようなもの。草太は折れかけた気持ちをなんとか奮い立たせ、下腹に力をこめた。


「この子は、うちの小間使いだから。返してもらうよ」

「阿呆言うたらあかへんえ! ウチも忙しいし、用がないのならさっさと帰っとくれやす! …市蔵! どこ行ってたんえ、こん役立たず! この変な客をとっとと追い返して…」


市蔵というのは、あの踏み潰された番頭のことだろうか。

老婆の金切り声によれよれの番頭が姿を現したが、追い出す相手の人数とその発揮しうる暴力に青くなってへどもどしている。

店自体はこの老婆のホームグラウンドだが、この瞬間は草太陣営の武力が大きく上回っているのは老婆も察したらしい。この愚図が役立たずがと口汚くののしりながら、その目が思案の糸口を探している。


「市蔵、ほんまにあんはんはあほやねえ! 手に負えへんってんなら、さっさと人を呼びに行かんかえ! あのごろつきどもには、こういうときのために金出しとんのやろ」

「伯父さん!」

「わかっとる」


たった一言で草太の意を汲んだ次郎伯父は、行動に移ろうとしていた番頭を捕まえて腕をひねり上げた。おっさんの甲高い悲鳴はなかなかに聞き苦しい。


「もう買うちまったんそやし、この娘はウチのもんや! その人様のものをむたいに盗もうってんなら、このことをきっと番屋に訴え出るから覚悟しいや!」

「…あのさ、ひとつ言っておきたいんやけど」

「なんやの」

「この子の主人はぼくなんやけどさ、…あんたに売った覚えなんかひとっつもないし。売った覚えにないものを、あんたは『買った』って言うけど、ぼくのものを知らない他人から買ったとかありえないんだけど」

「ほんな屁理屈いうたかって……買うたもんは買うたんや!」

「だから、ぼくは売った覚えがないって言ってるでしょ」

「ウチはちゃんと、そこの男から…」

「それって、あんたがこの男に騙されただけなんじゃないの」

「ちゃんと、ここに借金のかたに身売りするって証文が」

「借金? 誰が、いつ、どこで、いくら借りたってのさ」


基本、人身売買というものは存在しない。

実際的には、売り買いの金は「借金」という形で当事者の負債としてカウントされ、その借金完済までは解放されない、といういびつな雇用契約を取ることで実質奴隷的な関係を完成させる。

草太は引きずり出してきた無宿人の男(顔面ジャガイモ状態)の懐を探って、老婆が渡したのであろう金子を取り出した。


「借金って、これのことかな」


1両2分。

前世感覚にすると8万円ほど。たったこれだけの金で、こいつらはひと一人の人生を踏みつけようとしていたのだ。

つまらない小石でも見たように、草太はそれを老婆の前に投げ捨てる。その金の行く末をガン見した老婆は、すきっ歯を見せてひひひと笑う。


「なわけあらへん」


まあそれも予想はしていたのだけれど。

老婆が広げて見せた証文には、目を疑うような桁の違う借金が書き記されていた。


「借金は100両やわ!」


手に入れた娘を末永く奴隷化するお定まりとはいえ、えげつないやり口である。売った男も自分の借金じゃないのでほいほいとサインをする。


「どうしてもその娘が欲しいいうのなら、売ってやれへんこともないえ。…えらそうに御託を並べる前に、まずはここに100両、耳をそろえて持ってきいな」


ここにきてようやく老婆に余裕の笑みが浮かんでくる。

もともとこういった揉め事には相当な経験値を積んでいるのだろう。得体の知れぬ男たちに囲まれているというのに、気圧されたような気配すら見せない。

この法律が身を守ってくれない時代であるからこそ備わるのかもしれない覚悟……一寸先にはおのれの死が待っているかもしれない鉄火場で、命を捨ててかかることで得られるその強さは、なかなかに強烈なオーラをその人物にまとわせる。

草太は老婆の示した証文を注視しつつ、千々に乱れそうになる思考の糸を強引に束ねていく。


「あのさ…」

「まだ何か問題でもあるんえ」

「その証文って、『誰』の証文なの? よく読めないんやけど」

「誰のって…」


そうして老婆はおのれの手にある証文をさっと流し読み、『誰』の証文なのかが明らかとされている末尾の署名に目が留まる。

売ったのが親ならば、この時代の子供は親の財産的な見地から親の名が記される。

本人が自ら売り込んだのなら、そこには本人の名が記される。

この証文については、連れてきた人間が親族ではないので、署名は後者にならねばならない。


「そりゃ、ここにちゃんと書いてあるやおへんか」


老婆は自信満々に、証文を草太の目の前に突きつけた。

そこでようやくはっきりと文面を読み取れた草太は、必死になって文面を読み流し、契約の穴を捜すのに全神経を傾注したが……文末まで読み終えたときには安心のあまり笑い出しそうになった。最終的にどうにもならなかったら、掴み掛かって証文を丸めて飲み込んでしまおうかとも考えていた。だがそこまで心配しなくてもよかったらしい。

なんなのこれ。

むろんその名を書いたのは無宿人の男であるだろう。どうせ本人は字なんか読めないだろうし、適当書いとけば、後は何とでもなるとか思ったのだろう。


「あのさ…」

「子供にゃ難しくて読めへんかもなぁ…」

「その『山科竹端のお市』って、どこの誰なの」

「字もまだ習ってへんやろうし、どうや、ウチが代わりに読んだげ…」

「だから、誰なの?」

「って、……えっ?」

「あのさ、『お市』って誰なの」

「………」


ぶわっと玉のような汗をかいて固まった老婆。

そこでようやく老婆もおのれの論拠がわりと薄弱であることに気がついたのだろう。にわかな不安に口をもごもごとさせた。

この老婆、無宿人と同じくお幸ちゃんの名さえ知らないのだろう。


「なんだ、別人の証文と勘違いしてたんだ。それはお気の毒」

「なんやの、どういうことやの」


うろたえる老婆を無視して草太はお幸ちゃんに近寄って、手を差し伸べた。


「だってうちの子は『お市』なんて名前じゃないし」

「……ッ!」

「いこうか、『お幸』ちゃん」


『お幸』というところを強調してやる。


「……は?」

「だから、人違いやし」


つかまされたニセモノを嬉々として某鑑定番組に持ち込んだ資産家のように、意外すぎる結果に老婆は言葉を失った。

次の瞬間、見ていた人間が言葉を失うほどの壮絶な怒りに顔面を染め上げて、バリッと証文を左右に引き裂いて粉みじんにしてしまった。そうして畳をこぶしで何度も殴りつけ、置いてあった備前っぽい湯飲みを手抜かりした無宿人に投げつけて喚き散らす。

湯飲みが顔面に直撃した無宿人は、盛大に鼻血を噴出して今度こそ事切れたようにアナザーワールドに旅立っていった。死んではいないよな、たぶん。

老婆の狂態から目をそらして、草太はお幸ちゃんに向き直った。

草太が手を伸ばすと、お幸ちゃんは涙をぐしぐしとぬぐって、探るようにこちらを見返してきた。

目は「連れ帰って欲しい」と訴えているのだけれど、それをこちらに示そうという行動がなかなか現れない。草太はわれながらうそ臭いとは思いつつも笑みを深めてみたが、お幸ちゃんは悲しげに首を振るばかり。


(どうしてこの子は…)


どうにもはがゆくて。

草太は唇を噛んで言葉を飲み込んだ。

ことここに至ればさすがに受け入れざるを得なかった。


(どこまで女々しいんだ、オレは…)


恥ずかしさを振り払うように、一度だけ目を瞑って、そうして改めてお幸ちゃんというひとりの少女を眺めた。

あばれ放題の癖っ毛は最初の頃よりずいぶんとましになった。

体にこびりついた垢も落ちて、わずかながら艶の戻った肌は冬場ゆえに日焼けの色も薄い。夜鷹であったという母親がどれほどの器量であったかはわからないけれども、体つきがややがっちりしているのを割り引いても十人並の器量にはなりそうな面立ちをしている。意志の強そうな形のよい眉毛と、つり目がちの双眸が、いまはしおたれたように草太の様子を伺っている。

姿かたちなど、まったく似ても似つかぬのに。

草太はこぶしを握り締めて、誰にも聞かれぬほどの小ささで悪態をついた。

いつまでも女々しく『お妙ちゃん』の面影を追い続けていた草太は、言葉ではあれだけはっきりと否定していたのに、心の別のところでは勝手にその像をお幸ちゃんに重ね合わせていたのだ。

『お妙ちゃん』は同郷の家同士の付き合いもあるいわば『身内』のようなものだったけれども……このお幸という少女との間には、そんな隣人のつながりも友人としての共感もなく、ただ一方的な扶養関係だけが存在していた。いまはない幻の少女を重ね合わせて、それに応じた行動を期待し押し付けているおのれの身勝手さはまさに度し難い。お幸ちゃんが戸惑うのも無理はなかったのだ。


「ひとりで立てるね。お幸…」


お幸ちゃんは小間使いの女中にするんだろ? 主従の上下がはっきりしないから、雇われる側のお幸ちゃんがいつまでも安心できないのだ。

坐り込んだまま瞬きしていたお幸ちゃんは、草太の表情の変化に戸惑ったように固まっていたが、


「早く立て、お幸」


草太に命じられて、慌てて立ち上がった。

彼女の眼の中に最前まであった、なにかあまやかなものを期待するような光はすでに失せていた。戸惑いつつも、ようやくなにかが腑に落ちたように、落ち着きを取り戻した少女の眼差しは、『主人』の命令を全うしようという従僕のそれであった。

さみしいことだけれど、それが自然とあるべき関係であったのかもしれなかった。


「宿に帰る。ついて来い」

「…うん」


そこは「はい」だと突っ込む気力ももはやなく、草太はきびすを返した。

そうして自動的に後ろで見物を決め込んでいた大人たちの様子を見ることになって、さすがにお話のひとつでもしたくなった。


「後ろから見てて、楽しい?」

「楽しいな」


頷き合う大人たちに、草太はいよいよ疲れたようにがっくりと肩を落としたのだった。


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