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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【鬼っ子東奔西走編】
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032 なぞの老人






この老人、ひとりで歩いていたわけではなかったようだ。


「先生、お怪我はありませんか」

「ちっとは気をつけや、ぼうず」


老人の後ろに控えていたらしい男たちが、草太と老人との間に割って入った。

「先生」と言うからには、この老人の生徒か何かなのだろう。とくに老人が名の知れた剣法の使い手のようには見えなかったので、剣術道場の師匠と門弟、というわけではなさそうだ。

生徒のほうは帯刀しているので武士階級の出らしいが、敬う相手の「先生」がなんとも無防備な丸腰で、左手に一升徳利をぶら下げている体たらくである。

武の方向でないとするならば、この時代の流行からして『私塾』とか運営する学問系の偉い先生なのかもしれない。

京都で私塾?

涙を袖口で拭いながら、草太は束の間考える。

が、歴史好きではあるが専門家ではない彼に思い浮かべられるのは、この頃大阪にあるはずの緒方洪庵の『適塾』や、いまはまだあるかどうかすら不明の吉田松陰の『松下村塾』ぐらいである。

緒方洪庵などはあの脳外科医が逆行する某ドラマでも便利使いされていた有名人なので、歴史好きがどうのという類の知識レベルでなくとも、この老人が緒方洪庵でないと断じることができる。

歴史の教科書に載っていた肖像画を思い出せばいい。あの背中を丸めた猪首の長髪男のそれと、目の前の仙人のような老人を見間違う恐れはないだろう。


「だから買い物ぐらい、弟子のひとりでも遣わせればよかったんです。とくに最近はすこしばかり物騒ですから」

「ははは、物騒なのは世間様じゃのうて源次郎、おまえさんのまわりのほうじゃろうが。わしは話の分かる頭のよいやつは好きじゃが、おまえさんが連れてくるのは囲炉裏に掛けた薬缶みたいに沸騰しっぱなしの暴れ馬みたいなのばっかしじゃろ。あの手合いは何を話しても都合のいいことしか聞きもせんし、いい加減ああいううっとうしいのを相手するのは疲れたわい。…わしがこうしてわざわざ散歩に出たのも元を正せば……源次郎、おまえのせいじゃろ」


源次郎、と呼ばれた中肉中背の青年は、細い鼻筋を苦笑いにゆがめて、「わたしの責任ですか」と頭を掻いた。


「家にはおまえさんの連れてきたあの暑苦しいやつらがしつこくはりついとるし、息抜きに抜け出すとこうやって護衛とかぬかして暇人どもがぞろぞろ金魚の糞みたいについてきよる」

「…先生もどうかご自覚なさってください。所司代の犬どもが最近盛んにあたりを嗅ぎまわっておりますゆえ」

「いまは難しい話などいらん。…見なさい、こんな小さな童がわけ分からんように驚いとるじゃろうが」


別に話が難しくて驚いているわけじゃないのだが。

それよりも源次郎という名の青年がつぶやいた物騒な言葉のほうがびっくりではないのか。

「所司代の犬」とか、それって京都所司代手下の与力・同心の方々なんじゃないの?

まだ新撰組の時代ではないけれども、黒船来航後の京都である。(かしま)しくなる世論を気にして、京都での幕府監視役たる所司代が神経を尖らせているご時勢なのだろう。

と言うことは、この方達は幕藩体制に対する『反動分子』ということであり、幕末キーワード的には『志士』と呼ばれる皆様なのだろう。間違ってもテロリストといってはいけません。勝てば官軍をその身を持って体現していく武闘派の方々である。

正直逃げ出したいのだけれど、お幸ちゃん捜索中であり、相手が誰であれ来た道を引き返させられるのは業腹なことだと思ってしまっている自分がいる。


「なにを泣いとるのかの。大切な失せ物でも捜しておるのか」


ほんの少しだけ考える。

護衛気取りの若者の話の腰を折るためなのか、老人がしゃがみ込んでニコニコと笑いかけてくる。純粋な好意で心配していると思えないあたり、草太もいい加減すれからしているのだけれど。


(好々爺そうだけど……私塾経営者か…)


門下生の護衛がつくぐらいだから、それなりに名の通った人物かもしれない。

ならば門下生もバカにならぬ数がいることだろう。揉め事を起こして囲まれるのは勘弁してもらいたいところだ。

どうせ草太の外見は6歳児の何処にでもいるような子供にしか過ぎない。訳の分からないわがままを言い出せば、常識のある大人ならばめんどくさがって逃げていくに違いない。そう算段して。


「連れの女の子がいなくなっちゃって…」


「女の子」というところに力を入れてみる。

まあこの初対面の段階でいきなり個人的な問題を投げかけられるのは、迷惑この上なかったであろう。


「夜になっても帰ってこなくて……だから大きな街は怖いから、ひとりで出歩くなっていってたのに」

「迷子捜しか」

「さっきから捜してるんやけど、ぜんぜん見つからんし…」

「…そりゃあ困ったのう」


後ろで護衛たちがうわーっという顔をしている。老人が少しでも気紛れを起こせば、とばっちりを食うのは彼らなのだ。

普通ならば毒にも薬にもならない気休めを言って立ち去るのがベターというところであったろう。現代ならせいぜい交番まで手を引いていってくれる程度の親切でも引きだせれば御の字のところだ。

老人は少し考えるふうに顎鬚をしごいていたが、「よし」と言って左右の護衛たちに顔を向けた。


「時間も遅いし、わしらが手伝ってやろう……源次郎」

「先生、まさかとは思いますが…」

「いなくなったのは女子らしいからの、人さらいにでもかどわかされたら大変じゃろう。そっちのおまえさんらはこの子から捜し人の風体を聞きだして早速捜してやるがええ。…源次郎、おまえさんはうちに戻って暇しとるやつらを片端から叩き出してこい」

「先生―っ」


まさに気紛れであったのかも知れない。

老人は手に下げた徳利のふたをあけて、ぐびっと酒を喉に流し込むと、ぷはーっと気持ちよさそうに夜気に白い煙を吐き出した。



《人は知己に遭えば、死もまた足る…》



か細く、老人は星の輝く夜空に吟じた。



《木は良工に遇って、異材となる

怪しむ個の渓山、衿色を帯びるを

かつて名士の品題を経て来たる…》



なにかの詩歌であろうか。

酔っ払いの爺がほろ酔い気分に鼻歌でも謡うような気軽さで、老人は飄々と風にたゆたうように声を流し、それらが街中の喧騒に塗り籠められ消えゆくはかなさを悲しむように、またひと口と酒をあおった。

和歌というよりも、漢詩か何かなのかもしれない。

よくは分からなかったけれども、この時代の詩文にいささか慣れ親しんで育った草太には、老人の内に秘められた豊かな教養が感じらるようであった。


「安心なさい。無駄に人手は多いしの、すぐに見つかるじゃろうて」


待つほどのこともなく、源次郎青年が仲間を呼ばわってきた。

彼の後ろで「何事があった」と血相を変えていた者たちは、それがたんなる人捜しだと聞いて、「またか!」みたいな顔をして髪の毛をかきむしっている。

先生である老人の気紛れに振り回されるのは日常茶飯のことであるらしい。


「孝道を説く者、言葉よりも前に範を示さねばの」

「小僧、その女子の特徴は!」


投げやりに手掛かりを聞きだして、駆け去っていく男たち。

全部で30人ほどもいただろうか。人の多い京の都でも、この人数がひとところに集まっていると何気に注目される。最近この界隈で変な目立ちかたをしてしまっている草太は自然と俯いてしまう。

正直、勘弁してほしいのだけど…。


「捜している女子は、おまえさんのなんになるんじゃ?」


皆が散っていった地点から離れるわけにもいかず、老人は適当な屋台の腰掛に居座って話しかけてくる。

屋台の主人が文句を言い出しそうなところに弟子のひとりが割って入って、商品のおでんをいくつか注文する。そんなことにはちらりとも注意を向けず、老人は自慢に違いない立派な髭をいじっている。


「そんなふうにべそかきながら捜しとるってことは、世話を任されとった妹か何かかの」


妹ではないので首を振る。


「姉か?」

「………」


また、首を振る。


「ならば、預かった子か」


こくり。

たぶん、それが一番近かろう。草太の目を覗き込んだ老人は、かかと笑って、


「そうか、好いた娘か」


どうして年長者というものは、何でもかんでも色恋に結び付けたがるのだろう。まだ6歳でそちらのリビドーの片鱗さえ見えていない小さな子供を捕まえて、まさか色恋はないだろう。普通に考えて。

ややむっとして顔を上げた草太の鼻先に、串に刺したこぶ巻きが差し出されてくる。その昆布独特の匂いと暖かな湯気に、思わずおなかが鳴ってしまう。

すでに老人は大根らしき物をぱくついている。


「男のしけた顔は、女子に嫌われるもとじゃて……これ食って精をつけておくがええ」


正直、おでんのネタのこぶ巻きは好きではなかったのだけれど。

ひと口齧っただけで口内に大量の唾が湧いた。そのあとは、ただ無心にかぶりつき、喉へと押し込んだ。

こぶ巻き、好きかもしれん。


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