031 洛中東奔西走
「おまえはバカか」
次郎伯父に殴られた。
客観的に見て草太自身に落ち度があったわけではなかったと思う。ただ守るべき少女の気持ちをちゃんとケアできなかった察しの悪さが、フェミニストブラザーズの勘に触ってしまったようだった。
「オレたちも捜してやる。おまえは死んでもあの子を見つけ出してこい」
「サボるんじゃねえぞ」
次郎三郎が暗くなった街なかへと飛び出していった。
殴られた拍子に腰砕けに尻もちをついていた草太は、口の中に広がる鉄臭い血の味を感じて、思わずえずいた。
草太の様子に慌てた池田屋の女中さんが、「吐くならここにおし」とドブ板のはがれたところに彼を運んだ。
胃のなかの物をあらかた吐き出してから、草太はよろよろと立ち上がった。
行き交う人々が様子のおかしい童を胡乱げに眺めていたが、目が合うと面倒ごとを恐れるようにさっさと行き過ぎていく。
と、そのなかに佇んで草太を見下ろしている大人がひとり。
どこかに行っていた権八だった。
「どんなかしこても、ガキはやっぱガキなんやなぁ」
「…なんだよ。何処からどうみたってちっさいガキだろ、ぼくなんか」
「かわいげにふてくされちまって、ほんとおまんが見た通りのこまいガキやっちゅうことがようやく納得できたわ」
どうやら物陰にでも潜んで一連の出来事を見物していたのだろう。
そちらの稼業の習い性なのだろうが、なかなかにいやらしい見物人もあったものである。
「非人のガキのひとりやふたり、ほっておけば面倒もないんちゃう? わざわざ捜しになんかいかんでも、あんなしつけもなってない小便臭い小娘、いてもいなくてもおまんのやることにゃたいして影響もなかろうに」
いわでもいいことを口にしつつ、草太の様子を観察しているふうの権八。どうも彼の反応を見定めようとしている気配がある。
いまこの瞬間にも、草太はこの男に値踏みされている……そう見たほうがよいのだろう。
最近のやや失敗続きの観のある草太としては、弱みを見せぬためにもひとふん張りせねばならないところであったろう。やや苦しくはあるがちくりと反撃してみる。
「あんたも捜さんくてええの? あの子はあんたの行李を背負ったまま消えちまったんやけど…」
この男が返還を切望している商売道具。
その薬種行李が、お幸ちゃんといっしょに絶賛失踪中なのだ。
それを聞いた瞬間に権八はこの世の終わりのような顔になって、おおいに慌てだした。意外にもその可能性にまったく気付いていなかったようだ。
「なななな、そりゃあいかんちゃ!」
「やっぱなくしたらダメなんやろ? ならその『行李』を捜すついでにお幸ちゃんも捜してあげてよ」
「ついでって……ああもう、そういうことははよ言えっちゃ!」
踵を返そうとする権八の袖を寸前でとらえて、草太は素早く算段する。
こいつにお幸ちゃんの行方を捜させるのはおおいに有りだが、蛇の道は蛇、次郎三郎や草太にもできる街中捜索をさせるよりも、こいつにしかできなかろう類の裏エリアを捜索してもらったほうが得策だろう。
ちょっとした思い付きであったけれど、その線もなくはないと思うのだ。
(お幸ちゃんはあいつらのとこに行ったかも知れない…)
少し想像力を働かせれば気付くことだ。
衝動的に飛び出したお幸ちゃんが、身寄りのないこの見知らぬ土地で生き抜くために、わずかでも食い扶持にありつけそうだと考えそうなところ……そんな場所はかなり限られている。境遇の似たもの同士、もしかしたら助けてくれるんじゃないかと一方的な期待を胸に、お幸ちゃんは彼らのあとをついていったという筋書きはおおいにありうると思われる。
そちら方面の捜索であるのならば、この怪しげな裏稼業人はまさにうってつけであっただろう。
「あんたには違うとこを捜して欲しい…」
「違うとこって…」
草太のかいつまんだ説明を聞くうちに、権八はうわっという顔をして「非人小屋かいや」と天を仰ぐようにした。非人小屋というのが彼らの住まうところであるのだろうか。
「それなら小屋に保護される前に小娘をかっ攫わにゃならんぞ……いよいよ急がにゃ」
「小屋に保護された後だと、何か具合が悪いの?」
「小娘は夜鷹の子やろ。いまはどこにも属さへん『野非人』やけど、非人小屋は小屋頭っちゅう抱え非人に厳しい管理されとって、なんでもその小屋にいったん入っちまうとそこに所属させられちまって、そうそう簡単に抜けられんくなるらしい」
もともと食うに困った人々が流れて無宿となり、いわゆる『非人』と呼ばれるようになるのだが、幕府の管理の行き届かないそれらの人々を統制するために非人小屋が各地に置かれ、そこに半ば強制的に定住させられるのだという。
そこを支配する小屋頭は、手下となった非人たちを働かせ、その金を吸い上げることで富を得るという分かりやすい利権を持っていて、たぶんそこに入ってしまった瞬間に非人の所有権的なめんどくさい利権がらみの話になっていくのだろう。
これは手遅れにならないうちに急がないと。
「なんしとるん」
「…なにって、ぼくも一緒に」
「足手まといやわ」
言葉の刀で一刀両断。
小なりとはいえ『組織』を相手にするのだから、逃げ足の遅い子供など邪魔にしかならないのだという。権八としてはお幸ちゃんの身よりもおのれの薬種行李が非人頭の手に渡ることを恐れているのだろう。
掴んでいた袖も振り払われてしまう。
「でも…」
反駁しようとした草太がさらに権八の服に取りすがろうとして……その手が宙をつかむ。
あれ?
すでに権八の姿はそこにはなくなっていた。
掴み損ねた指をわきわきとさせながら風のように小さくなっていく権八の背中を見送った草太は、「あー」と間抜けな声を漏らした。
(あいつも行李の運命がかかってるんだ、そうそうヘマはしでかさないだろうけど……あっちを手伝えないなら、こっちはこっち、他にぼくがやれることをやるしかないか…)
しばし思案する。
国内最大規模の大街である京の町中を、6歳児が走り回ったところで全体を網羅するどころかほんの一部を触るだけになってしまうだろう。
人手がいる。
まずは捜査員を拡充しなければ。
そう思い立って、多少なりとも事情を知っている池田屋の女中さんに泣きついてみたのだが、案の定というかやっぱりというか、気の毒だけど仕事が忙しいからとやんわり断られてしまった。
リアクションがいちいち現代的な京の人々に、情実で訴えてもあまり効果はないだろう。
もはや細かいことなど構っていられないので、草太は袖の中から1両小判を取り出して、女中さんの前でちらつかせた。
「ここまで見つけて連れてきてくれたら、これあげるよ」
レッツ懸賞金!
分かりやすい反応、ありがとうございます。
俄然やる気になった女中さんたちに、さらにはそこに居合わせた泊り客らも巻き込んで、『1両争奪買い物(指定品:お幸ちゃん)競争』のスタートが切って落とされた。
奥から女将さんが怠け者の女中連を叱りに現れたが、イベントの内容に接するやどばっと空気の壁を突き抜けるような勢いで駆け出していった。夕食の準備中らしい厨房の奥からは弱々しいヘルプの叫びが聞こえたが、むろん草太の聴覚神経からは自動でカットされた。
やり方が金の亡者的で気分が滅入ってくるが、こういう即物的な力が金というものの長所ではあるのだろう。
動き出した人々を見送ったあと、草太は自らも街中へと駆け出した。
さいわいなことに、京の夜は誘蛾灯のごとく怪しげな光に満ちて路上を照らしている。溢れるような人だかりに難渋させられそうな予感とともに、これが京の都での最後の夜になるのではないかという漠然とした想いにとらわれた。
(…お幸ちゃんを見つけられたら、大原に帰ろう)
夜の街を眺めながら、目的とまったく関係のないことに奔走している自分のバカさ加減に呆れてしまって、返って踏ん切りがついたような気がした。
(明日の朝には荷物をまとめて……帰ったら瀬戸のほうにでももぐりこんで下絵師を…)
この騒動が終ったら、遅くとも半月後には故郷の大原に戻っていることだろう。祖父の期待を裏切ってしまってがっかりさせるだろうけれど、名誉挽回の機会はきっとまだあるに違いない。
まずは江戸本家との天領窯所有権の話を具体的に詰めて、林家の権利が確定した後に天領窯を完全復旧させて……そうして骨灰の調達先を…!
(骨灰!)
その一瞬のあいだに思考の霧が急激に晴れたように、草太はもうひとつの重要な目的を思いだしていた。
この京都に来た目的は、実は絵師スカウトだけではなかったのだ。
(忘れてた。骨灰入手先を探しとかないと!)
こんな重要なことを忘れているなんて、相当にどうかしていたらしい。絵師が見つからないのなら、そっちは置いておいて骨灰入手先調査をやっていれば時間の無駄もなかったのだ。
なんというバカさ加減だろう。原材料の由来が同じである膠を扱う問屋が大阪近郊にあるというのは耳にしていた。それが分かっていたというのに、絵師に拘泥しすぎて貴重な時間を失ったのだ。
また強烈な自己嫌悪が彼を居竦ませる。鬼っ子とか言われて調子に乗っていたらこのざまだ。いっぺん死んどこうか。
おぼつかない足を繰りながら、つらつらと他ごとを考えていた、そのとき。
ドンッ!
人込みの中で、前を見ているようでまったく注意が散漫になっていたようだ。
その衝突事故は100%草太側の過失であったが、相手の大人と6歳児、相対的な質量の隔絶が一方的に草太のみをすっ転がした。
「…大丈夫か」
かけられた相手のものらしき気遣う声。
尻もちをついた草太は瞬きして混乱から我に返ると、期せずぶつかった相手と目線がかち合った。
(仙人…)
草太の目に映ったその人物は、豊かなあごひげを蓄えた痩せた老人だった。
何処か浮世離れした印象のあるその老人は、草太を指差して飄々とつぶやいた。
「こんなところに泣き虫小僧がおったわ」
転んだ拍子に泣きが入ったわけではない。目的を達せないままに都落ちする想像に悲観が入っただけで……まあべそを掻いていたのは間違いはないのだけれど。
目じりからにじむ熱いものを必死になって拭い、草太は立ち上がろうとした。
すると立ち上がる寸前に老人のほうが目線を合わすようにしゃがみ込み、草太の背中についていた砂を払い落としてくれた。
「子供の癖に何を死にそうな顔で泣いとるかしらんが…」
じっと間近で草太の顔を覗き込んだと思ったそのあと、
「なかなか珍しい相の顔じゃな」
その老人はしごくまじめな顔でそうつぶやいたのだった。