024 身分制
「…お幸ちゃん、もう食べないの」
旅路を共にして以来、人生の中でもっとも輝く瞬間が食事時と雄弁な笑顔で語っていたお幸の様子がおかしかった。
ひと口、ふた口。
そうして味気ない砂でも噛んでいるようなしかめ面でうつむいたかと思うと、とうとう箸を置いてしまい、気でも紛らわすようになにもないおのれの手をいじっている。
「残したらもったいないやん。…おいしくない?」
聞くと、ふるふると首を横に振る。
まずいわけがない。飯はやや精米の甘い茶色っぽい米だけど味は悪くないし、おかずのモロコの甘露煮は疲れた体に染み込んでいくように旨い。カブの漬物といい高野豆腐の煮びたしといい、出汁もしっかりと利いていて文句をつけようもない料理である。
まだブラックバスに汚染されていない琵琶湖は魚の宝庫であるらしく、現代では珍しくなってしまったモロコもまだこの時代ではありふれた食材であるようだ。
うつむいた顔を覗き込もうとすると、お幸はそれを察してそっぽを向いてしまう。しつこく顔を覗き込もうとしている草太の耳を次郎伯父が引っ張った。
「いやがっとるやろ。やめといたれ」
たしかにちょっとしつこかったかもしれない。
女心の機微には聡い次郎伯父。その隣でニタニタ口元をゆがめている父三郎。
イケメン女たらしブラザーズの態度は少しカチンと来るけれども、その大人な対応は今後見習わなくてはなるまい。
「調子が悪いなら、先に部屋で横になってたら」
「…そうする」
静かにお膳を前に押しやると、お幸ちゃんは食事スペースの囲炉裏端から立ち上がり、しおたれたように二階の部屋へと消えていった。
その姿を見送った仲間たちは、いぶかしみつつも声には出さない。
原因をある程度察している様子の、なぜか同室して飯をかき込んでいるお役人様に、自然ともの問うような視線が集まった。
その注目に応えるように、お役人様が芝居気たっぷりに片目を開けた。
「…それがしには詳しいことは分かりかねますが、もしかしてあの娘、こぎれいな格好はしていますが非人の子ですか」
事前の情報などほとんどないだろうに、ずばりと確信をついてくるこのお役人、本当に侮れない。
皆の沈黙を肯定と受け取ったか、お役人はおのれのなかの推論の積み上げを、慎重に確かめるように開示して見せた。
「ここ何日かあの娘を見ていましたが、坊やの『小間使い』というのはなかなかに信じがたいえそらごとだと思っていましたので。あなたがたが濃州のどこぞのお武家の子弟なのは格好と訛りで分かっていましたが、上方に向かう旅に同行させるにはあの娘はあんまりに年端もなさ過ぎるし、そもそもあっちふらふらこっちふらふらの落ち着きのなさは、奉公ずれしてなさ過ぎだと見ていました。ちゃんとしつけされたふうにも見えませんし。…だとするなら、旅の途中で気紛れに孤児でも拾って、若様のわがままで連れ歩いてるってあたりが一番それっぽいだろう、…と、そう思った次第です」
うはぁ。マジで鋭すぎ。
次郎三郎の大人組も感心したように目を見開いているし、権八も時折見せるやや暗さを帯びた真顔でお役人の口述に耳を傾けている。
って、のんきに感心している場合じゃない。いつまでくっついてくる気かしらんが、やっぱり機密保持のためにも早々に一行からパージすべき危険人物ってことはもはや確定だろう。
一緒にいるだけで情報的に丸裸にされそうで、ぞぞっと背筋が寒くなってくる。
「…で、その非人の子が、異郷で同じ非人たちを見て、それを同じくしてうろんそうに眺めている同行の若様に気付いて、そのとたんにその若様の気紛れで成り立っているおのれの危うい境遇にはたと気づいてしまった、というところなんじゃないでしょうか」
プロファイリングというやつか。
悔しいが、言われてなるほどと思ってしまった。
女心とかそういう高度なもんでもなく、おのれの人生の先行きに不安を覚えて心が揺らいでいる、ということであるのだろう。
身分制などという概念そのものがほとんど消えてしまっている現代とは違い、この時代では絶賛『士農工商』制発動中である。身分間の差別は現実問題として目先に横たわっているし、それを無視してはまず生きていくことができない。
その身分制からも外れた非人たちは、この時代の戸籍である人別帳からも記載を消され、帰属する故郷もなければ一般のコミュニティにも属することもできない。
むろんのこと、職業選択の自由どころかまっとうな正業につくことさえほぼ不可能であるらしい。お役人は、いまひとつ理解の深まらない草太の顔を見て噛み砕くように非人であることがどういうことなのかを説明してくれた。
いわく、お幸ちゃんは『野非人』であること。
『野非人』とは、お上に納めるべき租税を滞らせて、所属するコミュニティの戸籍『宗門人別改帳』【※注1】から記載を消され放逐された無宿者が、非人小屋の管理に収まらず野に放たれている状態を意味し、お幸ちゃんの母親は村はずれのあばら屋で春をひさぐ夜鷹をしていたことからもおそらくはその『野非人』であっただろうこと。
そしてその子供であるお幸本人も、必然的に人別帳に名が載らぬ『野非人』にしかなりえない。『野非人』の子がまっとうな職につくことはほぼありえない。
たった10歳の子供がどこまで考えているのかは定かではなかったけれども、少なくとも悲観するに足る不遇が目の前に待っていることだけはたしかだった。
鉛を飲んだように押し黙る大人たちに草太も引きずられるように暗い気持ちになったが、そこはリベラルな環境で培われた前世の感覚とチート知識が憂いのたまはばきとなって、あっさりと気分をリセットさせた。
(どうせ、維新でそんなのなくなるじゃん!)
すぐにはそうした因習はなくなりはしないだろうが、少なくとも幕藩体制が崩壊して彼らの権威の背景である士農工商が廃止されれば、法律上の平等性は得られるようになる。
平成の世の民主主義とはまだ大きく隔たりはあるだろうけれども、明治新政府は武家政治の名残を払拭するためにも『士』の優越の象徴でもある身分制度は確実に破壊してくれる。
あとたった十数年後のことである。激動する時代の濁流に流されていれば、たぶんあっという間に過ぎてしまうだろう。
それに……草太はおのれの膝の肉を爪を立てるように掴んだ。
目の届く範囲内であるなら、自分がこの手で守ってやればよいのだ。周りに口をつぐませるぐらいに力をつけて、おのれ自身の成功で雑音など吹き飛ばしてしまえばいい。
「…そんなの」
草太は無意識に言葉を選んでいたが、彼のほうに集まった視線に気付いて迷いを振り払った。
「そんなの、知ったことじゃないし。…お幸ちゃんはぼくの小間使いにしたんだから、それを守るのは主人であるぼくの義務やろう」
みなの上に落ちかかる暗がりを打ち払うように、草太は決然と宣言した。
その言葉を聞いて、まわりの大人たちは目を剥いた。
目の前にその身分制を守る立場にある幕府のお役人がいるというのに、子供とはいえ大胆すぎる発言だった。
だがしばらくもせぬうちに誰かがこらえ切れず小さく吹き出して、それをきっかけにして笑いのさざなみが瞬く間に大人たちに広がった。
ややして次郎伯父が、引き攣る腹筋に呼吸困難になりつつも猿臂を伸ばして彼の頭をぐりぐりと掻き回した。
「それでええわ! それでこそ林家の男ってモンやわ」
見ると隣の父三郎も、微妙な顔をしつつも口元を緩めている。あまりわが子に親愛の情を示すことのない父親であったが、このときばかりは同意とばかりに肩を叩いてきた。サムズアップが飛び出しそうな勢いである。
保護者たちがイケメン女たらしである前にフェミニストでもあった、ということなのだろう。
この成り行きを見て意外そうにしている薬売りの権八には別の結論があったのかもしれない。お役人のほうを見て、それから草太を見たあとに、小さく肩をすくめてみせた。
そして問題のお役人様はと言うと、
「たいした童ですねえ! なるほど、お上の法度なんぞは鼻息で吹き飛ばしてみせると! ははっ、おもしろいですね!」
別段怒るでなく、膝を叩いて大笑いでした。
別の意味で大丈夫なのか、このお役人様…。
***
食事が済んで部屋に戻ると、窓際の隅に布団に包まったお幸ちゃんが膝抱えに座り込んでいた。
大人組が変な気を利かせてそそくさとおのれの布団にもぐりこむのを他所に、草太は膝をついてお幸ちゃんを上目遣いに見て、「まだ調子が悪いの?」と聞いた。
彼に見つめられてやや狼狽したふうにそっぽを向くお幸ちゃんに、草太は少しだけ深呼吸して、
「一緒に寝ようか」
と誘った。
不安がってる子供の気持ちを落ち着けるのに、経験上頼りがいのある大人の体温は非常に有効であるのは知っている。雷を怖がる子供も、親と一緒ならぐっすり眠れるというあれである。
後ろのほうで「うほっ!」っと変な声がしたが、まあそれは聞こえなかったということで。別におかしな気持ちはありませんから。
包まった布団の中から、お幸ちゃんがじっとこっちを見ている。
不安を少しも与えまいと、草太は我ながらあざとく微笑んで見せた。
手を掴んで引っ張ると、さほどの抵抗もなくお幸ちゃんの身体が倒れこんできた。あとは背中でもなでながら子守唄でも歌おうかと思っていたのだけれど。
布団の中でお幸ちゃんが力いっぱいにしがみついてきた。なかなかの大力ある彼女のサバ折りは体格の劣る6歳児には腹筋背筋を総動員せねば抵抗さえ難しいレベルだった。
くるしい……が、ここは耐えねば…。
そのあとカニバサミされて、抱き枕な一夜を送ることになった草太であった。
【※注1】……宗門人別改帳。江戸中期に宗門改帳(信教、宗派を確認しておくことでキリシタン化を防ぐ狙いの台帳)と人別改帳(秀吉時代以降の賦役人数確認のための台帳。家族構成まで網羅していた)が統合された戸籍台帳。