023 時代の暗部
気に入らないので再投稿いたしました。
意味のない部分をがっつり削っています。
琵琶湖の大雪を何とかやり過ごすと、京への道程は旅立ちのときには想像もできなかったリアルさを持つようになった。
盛んな降雪で真っ白に染まった琵琶湖畔を横目に、草太一行は一心に上方を目指して足を動かした。
中心地に近くなるほどに洒落っ気を増す宿場町では民芸品群を旺盛に調査しつつ、時代のデータバンクを肥やして、ピンボケ気味であった審美眼の焦点を強引に調整していく。
(…たしかに友禅染めはきれいなもんやけど、美濃くんだりまで来てくれるような絵師が本当にいるもんかな)
そうして染付け業界の様子がぼんやりと分かってくるほどに、この時代の絵付けが職人個人の力量に大きく依存していることが歴然としてくる。
(たとえばモチーフが『花』でも『蝶』でも、形の輪郭を決めるのは白抜きの細い線……防染剤で埋める『マイナスの作業』で描くんやけど、同じ伝統絵柄でもその『線』がいびつに歪むとそれだけで明らかに台無しになる。生き生きと均質な『線』を決められる職人は、腕のいい職人と分かる…)
染付けの色がはみ出るのは論外。
色の取り合わせが悪いのもセンスのなさの顕れ。
染料の色映えの悪さは、その原料を用意した工房そのものの質を問われかねない。
絵付け職人の世界も、知れば知るほど奥が深い。
(なるたけ腕のいい職人がほしいのは事実なんやけど……腕のいい職人はどんな業界でも『宝』みたいなもんやし、簡単に引き抜けたりするものなんやろうか…)
たとえば京都が多治見のすぐ近くであったなら、そんな悩みなど抱く前にぶつかっていけただろう。
たどり着くのに日数が必要であるために、抱かなくていい不安にさいなまれることになる。失敗ができないという気負いが、心を萎縮させる。
腕のいい職人は、当然ながらその職場では『エース』であり、給料の面からも相当な好待遇を獲得しているはずである。それを引き抜くとなると、どれだけの大盤振る舞いをせねばならないのか。
(…いや、まだナーバスになるのは早い。ここまで来たんや、ぶつかってみんことには結論なんか出せんし……ポジティブシンキングせなあかんて)
草太は下腹に力を込めて、草太は空を見上げた。
足早に流れていく雲と、間断なくちらついてくる雪片。冬の凍てつく景色が困難な旅路にあるおのれを意識させる。
冷えて萎えそうになる足をまた一歩踏み出して、草太は小さく洟をすすったのだった。
***
草太一行が明日は京都入りという大津宿にたどり着いたのは、大原を発って実に14日目のことだった。
まるっと2週間。明日の行程で1日計算すると、片道だけで半月かかったことになる。
帰り道のことにも想いを馳せて気が遠くなりそうな草太とは裏腹に、大人組はいよいよ旅の終着点を目前にモチベーションがあがりまくっている。
この時代、交通機関が発達しているわけでもないから、格別理由でもないかぎり京の都など訪れる機会はないし、おそらくは一生に一度のことなのだと分かっているのだろう。
都の話に盛り上がる次郎三郎は、自然と足が速くなって先行してしまっている。置いていかないで欲しいのだが、気持ちは分かるので草太も黙って足を早くした。
大津宿はいままでにみた宿場町の中でもダントツの規模を持つ町だった。
薄暗がりになり始めている夕暮れの地平線に、町の明かりがきらきらと広がっているさまは実に魅惑的で、誘蛾灯のように旅人を引き寄せて止まない。
たぶん美濃一番の加納宿の倍以上は大きい。
大道である中山道と北陸道の結節点であることも理由のひとつであろうが、京都という大都市に近いというのも決定的な理由のひとつであったろう。都会近くの衛星都市は、なまじっかな県庁所在地よりもでかいというやつである。
宿場町へと延びる街道には、もうだいぶ時間も遅いというのに人の姿が多い。先行する次郎伯父が「早くこい」と手招きするのに急かされて、草太が無意識に一行の位置確認をすると、すぐ後ろに権八がいて、げじげじ眉毛をひそめて遠くを見ている。
その目線を追うと、薬種行李を背負ったお幸ちゃんがかなり先行していて、道端の人だかりに混ざって何かを見ているふうなのが目に入った。
飴売りでも店を出しているのだろうかと草太がそちらに近付いていくと、人垣の向こうに倒れ臥した馬と泣き喚く馬喰の男の姿があった。
上方と江戸を繋ぐ大街道であるから、荷を運ぶ馬喰の数は多い。中には相当に年季の入った老馬を引っ張ってるやつもいて、そんなくたびれた相棒がとうとう天寿をまっとうした場面であるのだろう。
横たわる馬の死骸を見て、草太はあの大原川の川原で、馬の骨を煮立てて骨灰を作っていた当時の光景をくっきり思い出した。お妙ちゃんとふたり玉のような汗を掻きながら、よくもまあ小さな子供だけであの大変な作業を成し遂げたものだと思う。
(絵付け職人だけやないな……骨灰の入手方法もちゃんと算段せんと…)
ボーンチャイナの主原料であるリン酸カルシウム……骨を焼いた灰を手に入れる段取りを整えるのも、この京都行ではずせない重要な仕事のひとつである。
古くから伝統工芸の技術を伝承している京の都ならば、そうした特殊な材料を扱う商家があってもおかしくはないと草太は期待していたりする。
まったく、やることが多すぎて、気が遠くなってくる。
「お幸ちゃ…」
声を掛けようとしたそのとき、彼の背後からガタガタと車輪をきしませる音が聞こえてきて、人垣が割れようとする波にあっさりと押しやられてしまう。6歳児の軽量ボディのせいで踏みとどまれない。
そこに現れたのは大八車で、数人の身なり怪しい男たちが一緒にぞろぞろと帯同している。
発酵したようなひどい体臭で近くの人間たちを追い払いながら、男たちのひとりが泣き崩れる馬喰の肩を叩いてその耳元でなにかをささやいた。
(あいつら、馬の死体を引き取りにきたっぽいな…)
いくばくかの銭を馬喰に握らせた男たちは、無言の目配せで馬の四方に取り付き、なかなかの大力で荷車に引き上げ始めた。
その様子を熱心に眺めているお幸に、「お幸ちゃん」と、声を掛けて近寄った草太であったが……そこでビクッと肩を震わせて振り返った彼女が、目を見開いてこっちを見た。
冬の寒さからではない顔色の悪さで小さく首を振ると、お幸ちゃんはまるでなにかから逃げ出すようにその場を離れていく。
…あれ? 避けられた?
首を傾げる草太の横では、集団が大八車の上の死体に手際よく縄をかけている。非常に良く統制の取れた集団であった。
お幸ちゃんに逃げられた代わりに、しつこいストーカーが近付いてくる。
今須宿以来、一行のストーカーを決め込んでいるサトリ役人さまが、目の前の作業を一見して、
「おや、非人どもの買い付けみたいですね」
と、誰かに聞かせようとするかのようにつぶやいた。
特に目前の光景にはあまり関心がなさそうなお役人様が、今度は草太のほうを興味深そうに見下ろしてくる。どうやら彼の反応を見て面白がるつもりなのだろう。
もうどうせ面白がられるのだから、いっそのこと事情に詳しそうなお役人様に質問をぶつけてみることにした。
「ひにんって、なんですか」
「なんだ、そういうことは知らないんですね。…憚りごとなのであまりおおっぴらには口に出来ないんですが……いわゆる『士農工商』の埒外に置かれた者たちのことを指して、非人、と呼ぶのです。…お上は弾左衛門【※注3】に任せてしまっているので本来は構いつけないんですが、あれはたぶん畿内の非人どもですね。西にももともと古くから穢れ仕事の職工が多いらしいですが、あの馬の死骸もたぶんなめし皮や膠の原料にでもするんでしょう」
士農工商と言う身分制と、その埒外に置かれた被差別民。
時代の暗部をいままさに目にしているのだろう。
草太は胸の奥の空気が腐っていくような不愉快さを覚えつつも、粛々と馬の死骸を運び去っていく彼らの背中を眺めていた。
【※注1】……室町筋。現在の中京区にある筋。近年は友禅職人さんたちも郊外に移りだしているようですが、当時は『友禅流し』の技法も確立されておらず、やや内陸のここに集中していたそうです。
【※注2】……糊。この場合は防染材としてのもので、米の糊。もち米を使っていたそうです。
【※注3】……弾左衛門。江戸時代、被差別民を統括させるために幕府が任命した役職が『穢多頭』。みずからは長吏頭矢野弾左衛門と称したことからこの名前が認知されているようです。