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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【鬼っ子東奔西走編】
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022 なぞの人物




ちょっと待った。

誰よ?

このサトリ妖怪、誰なのよ?

ひとりテンパる草太の内心の叫びに呼応する人間はむろんおらず。

パニック気味の草太を置き去りにして、そのコミュニケーション能力の高い役人様は場にあっという間に溶け込んで、草太がなかなか口にしようとしない《噂話》のディテールを、彼の仲間の証言から引き出し始めている。

ちょっ、個人情報保護法はどこいった。法の番人カモン! たったいま小市民のプライバシーがはなはだしくシンガイされようとしてるんですが!

三郎ッ! 暇だからって、簡単に釣り込まれてんじゃありません!


「…尾張の町じゃ、海千山千の大商人相手に、すったもんだの末にとうとう泣きまで入れさせて百りょ……って、あっ痛ぅぅ!」


情報漏洩すぎだっつうの。少しお黙りやがれです。

彼の目配せで次郎伯父が父三郎の脇腹を思いっきり肘エルボーすると、これがなかなかきれいに決まったらしい。お腹を折って父三郎が呻き出したが、まあ自業自得だし同情する気などさらさらない。

幕末維新のメインキャスト張るような人物に名前覚えられるとか、それ死亡フラグですから。責任取れないのなら自重して引っ込んでてほしい。

幕末という時代の大波が押し寄せてきているこの時期に、草太は依然として保護者の必要な無力な子供にしか過ぎず、たしかな寄る辺もないままにその時代の大波を食らえば、たちまちさらわれて歴史上のモブとして藻屑となりかねない。

そうなのだ。今まであまり実感としてなかった時代の潮流は、いままさに静かにその潮位を上げて人々の足をひそかに浸し始めているのだ。まだ気付くものも少ない、国そのものを揺るがす明治維新という名の変革の大潮が確実に迫りつつある。


(…桜田門外の変はたしか1860年……ということはあと5年しかないってことだし)


水戸藩士が幕府大老の井伊直弼を襲撃して殺害する……この時代、幕府支配が揺らぐことなんて誰も想像さえしていなかったのに、瞬間湯沸し器の脳筋バカがやっちまった襲撃事件で「あれっ? 押せば倒れるんじゃね?」と世間に気づかせてしまった時代のターニングポイント。

ある意味そこから先が世に言う『幕末』であり、まだ幕府が揺らいでいるわけでもない現時点は江戸後期と分類すべきであるだろう。

美濃の片田舎にいるあいだは、維新騒動など他人事として商売に専念していけるだろうとなんとなく思っていたのだけれど。こうして渦中の人物なのだろう存在とこうもあっけなく遭遇してしまうと、その考えがあまりに甘かったことに気付かされる。


(こんなていたらくでボーンチャイナ商売、ほんとにうまくいくのか……いまさら悩むべきことじゃないんだけど、販路とか付き合い先は慎重に選ばないとえらいことになるな)


美濃新製(ボーンチャイナ)は金持ち相手の高級ブランド商法でいこうと割と気軽に考えていたのだが、幕末が本格化するとたしかに経営環境が激変するわけで、優秀な経営者ならば転ばぬ先の杖、リスク分散をしておくべきだろう。

有力顧客である諸大名など軍備拡張で財政が逼迫するだろうし、もう一方の期待すべき顧客である商家の旦那衆などは、先を読むのに長けているために不穏な時勢に財布の口をきつく閉めてしまうに違いない。


(…ということは、あと5年のあいだにロケットスタートをかまして、大急ぎでキャッシュフローを作る一手だな……そのあとは水戸藩の動向をうかがいつつ生産調整して、最悪は一定期間の操業停止も織り込んどかないと…)


ひとりブツブツつぶやいている草太を横目に、お役人様はまた父三郎を手玉にとって、地元での鬼っ子ぶりを面白そうに聴取している。

次郎伯父も地元の自慢話ぐらいならばと、見逃しているようなのだけれども。

そのうちに話題が根本の天領窯ネタへと傾斜し始めたので、草太は忍び寄った背後から父三郎にフライングクロスチョップをかまして、そのまま囲炉裏端から引きずり出した。


「なっ、なんや、草太!」

「なんややないし! ええから口つぐんでこっちきて!」


物陰に行っても満員状態の宿の中で人目を避けられるわけではない。

勢いに任せて父を懇々と説教する6歳児を、通りすがりの宿泊客らはもの珍しそうに眺めていったが、幸いにも客らの賑やかな話し声がノイズになって説諭の内容までは聞かれずに済んだであろう。

最初はむっとしていた父三郎も、息子の鬼気迫る黒いオーラに気圧されて不服の言葉を唾と一緒に飲み込んだ。


「ぼくたちがこんなしんどい思いをして上方に向かってるのも、根本の《天領窯》をどうにかして林家のものにして、新しい家産につなげようっていう狙い、お爺様からは聞いてるよね? 京には優秀な絵師を見つけにいくんやよ?」

「…そらあ聞いとるがな」

「その《天領窯》の現時点の所有者は誰か知ってるの?」

「江戸の林本家やろ。そんなことぐらいいわれんでも知っとるわ。代官の坂崎様が主導されとるが金は本家から出とるそうやな」

「林領2000石のお家は江戸にあって、旗本やから公方様にお仕えしとるんでしょ。どれくらいの数その《旗本》がいるのか知らんけど、あのお役人も長崎にやられるくらいやからそれなりのお役についとるはずやし、少なくとも直参以上、もしかしたらお家同士付き合いとかあったりするかも知れないよね」

「そりゃ旗本同士やったらな…」


そこでようやく、父三郎も草太の言わんとすることに気付いたようだった。


「…たしかに江戸といや、林のご本家とつながりがあるかもしれんな」


同じ江戸在住の林の本家とつながりがあるのではと疑うのもけっしてうがった見方ではあるまい。世間とは思った以上に狭いものである。武士の世間の広さなど高が知れている。

窯株を譲って欲しいと交渉中の本家に、不用意にこちらの懐具合を知られては身包み剥がれかねない。100両など、大身の旗本から見たら奢侈のひとつで消し飛ぶような小金でしかないのだ。


「すまん。…考えが足らんかった」

「あのお役人様、ちょっと只者やなさそうやし、あんまり不用意に関わらんほうがええと思う。次郎伯父さんとかは木曽屋で見慣れとるのか、すぐに察してだまっとってくれとるのに」

「たしかにあのお役人、頭の回転はめっぽう速そうやなぁ」


徳川幕府は上に行くほど血筋優位で人材が少なくなるが、運営母体の大きさから小役人の実務能力は必然的に高く、ある意味現代の官僚組織に近いとどこかのうんちく本で触れた記憶がある。

この役人様もその例に漏れず、きっと優秀なお役人なのだろう。

一度多治見商工会の講演会で呼んだことのある某進学塾のカリスマ講師があんな感じだった。1を聞いて10を知るではないが、一言二言から的確に要点を引き出していく。

ああ、こっち見てるよ。

囲炉裏端で、話相手をなくしたお役人様が、草太たちの消えた廊下のほうをじっと見ている。顎をしごきながら、小さく笑っているようなのがまた怖い。

やっぱり興味持たれたかもしれない。まだ何も成し遂げてないってのに、こんなところで人生の難易度上がるとかってどうよ。まったく、足止めの原因になった吹雪が恨めしい。


(ほんとあのひと、誰なんだろ…)


草太は考える。

優秀な幕府のお役人で、わざわざこの時期に長崎まで送られる人材とは、すなわち時代の潮流に乗ったエリート街道にある人ということなのだろう。

この時期、長崎に何があったっけ…。

幕末好きの前世記憶はあるというものの、歴史マニアではないのでさすがに激動前の微妙な時期の知識とかは持ち合わせていない。

長崎と言えば、出島に蘭学、シーボルト……相手が書生であるならば勉学を志す若人と得心もいくのだが、幕府の役人ともなると蘭学とかそういうノリでもないだろう。

なんだっけ……こう、喉元まで何かが出掛かってはいるのだが。うろ覚えでしかないから、たとえそれがぽんと出てきたところで信頼に値する推測にはなり得ないのは分かっているのだけれど。

西洋の新型武器についてあれだけ反応していたのだから、おそらくは軍関係の案件に携わっていることは間違いない。

幕末の象徴的な軍事力と言えば、銃や大砲、それに黒船に代表される西洋型艦船であったろう。そのどれかを取引するために長崎に向かっているのだろうか。いや待て待て、長崎とは言っているものの、それが本当なのかどうか誰も保証などできないだろう。もしかしたら公然と外国と密貿易している薩摩藩とかと折衝すべく向かっているのかもしれない。

長崎、長崎…。

坂本竜馬の亀山社中もたしか長崎にあったよな。まだ竜馬自身が若造だろうからずっと先の話になってしまうが、やがて彼は長崎の地で、海援隊の前身となるその亀山社中を立ち上げる。たしか日本で最初の商社だとかなんとか。

そういえば長崎に海軍の伝習所とかもあったっけ…。

物影から囲炉裏端のその人物を眺めて、無意識に喉を鳴らした。

まさかの偉人だったりしたら、歴史スペクタクル的には急展開ワクテカなんだけれど。まさかね。

とりあえずお役人様の相手は権八たちにさせておけばいいだろう。

草太は次郎伯父も引っ張って、三人して危険人物の付近からフェードアウトしたのだった。

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