021 寒風の回廊
改稿作業の負荷増大中につき、アップ作業が遅れ気味です。
ご容赦くださいませ。
濃尾平野では、北西からもたらされる冷たい季節風を『伊吹おろし』という。
前世でよく天気予報のお約束として耳にしていた、『西高東低の冬型の気圧配置』にあるとき、大陸から流れ込む冷たい北風が福井の若狭から侵入し、琵琶湖近辺まで大いに降雪をもたらした後、中山道の通る山間の回廊を経て寒風が濃尾の平野部に訪れる。
濃尾平野から見て北西には伊吹山があり、それが『伊吹おろし』の名の由来となっているらしい。
標高1377m。けっこう高い山である。
その積雪で真っ白に染まった山嶺を恨めしく眺めつつ、草太たちは今須宿で予期せぬ雪隠詰めで長逗留と相成っていた。
「琵琶湖のほうはずいぶんと吹雪いとるそうやぞ」
顔を真っ赤にしてほうほうのていで宿に転がり込んできた上方の行商人から、前途の様子を聞いていた次郎伯父が難しい顔をして囲炉裏の傍に胡坐をかいた。
琵琶湖のあたりが豪雪地帯だなどと聞いたことはなかったが、宿の女中さんいわく「なに言っとるの。あの辺は冬になるとぎょうさん積もるんよ」だそうである。
今須宿は地形的にまさしく琵琶湖近辺と濃尾平野を繋ぐ回廊の中間地点と言ってよく、いままさに湖岸一帯から収斂された雪混じりの風が、狭い山間をごうごうと駆け抜けていっている。入口の戸が開けられるたびに冷たい粉雪が盛大に舞い込んでくる。
先を急ぐ旅人にはまったく困った悪天であったが、この宿場の旅籠などはまさに書き入れどきであっただろう。次から次へと新しい旅人はやってくるのに、街道の出口が塞がれて宿泊客らは糞詰まり状態なのである。
草太たちの泊まる部屋も相部屋相談を何度も受けて、結構な過密状態になりつつある。困ったときはお互い様とはいえ、ものには限界があると笑いが止まらない宿屋の主人にひとこと言ってやらねばなるまい。
「あんさんら、反魂丹売りかい?」
もっとも、書き入れどきがやってきたのは宿屋ばかりではなかった。
宿に入ったすぐの囲炉裏そばで陣取って、御丁寧に例の「薬有ります」ののぼりまで立てている彼らが目立たないはずもない。
「家内が寒くて死にそうになっとるから、なにか身体があったまる薬を持っとったらちびっと分けてくれへんか」
「そりゃ旦那、運がええね。これこれ、鶴亀堂のよう効く《実母散》があるんやちゃ。これ飲めば手足の冷えなんかいっぺんに飛んでしもうわ」
「なんでもええわ。それなんぼになる?」
「毎度~、お幸ちゃん、ひとつ渡してあげて」
こんな調子でなかなかの売り上げを叩き出しているのだった。
客対応は権八、薬の受け渡しはお幸という自然発生した分担で目下盛況を博している。
何故権八が薬売りの手伝いをしているかというと、まあ説明するまでもないと思うが旅を続けるには手持ちが不足し過ぎていたのだ。少ないというより、無一文といったほうが表現としては的確であったろう。
薬売りの懸場帳を取り戻したいから草太たちから離れるわけにもいかない……しかし京に向かっているという草太たちに付き合うにはどうしてもそれなりの路銀がいる……そうして悩んだ末に彼が出した結論は、金満家のこあくさい6歳児に恥じも外聞もなく泣きつく、というものであった。
懸場帳という究極の弱点を見つけた草太にとって、権八は実に扱いやすい人材であった。
泣きついてきた権八に、草太は販売の補助を任せ、その対価として販売実績による歩合を支払うことにした。尻に火がついている権八は、本来売り上げすべてが自分のものだった薬種行李を切なげに眺めやったが、彼にもはや『断る』という選択肢は存在し得ない。
で、先ほどの販売風景と相成るわけだが。
お幸ちゃんは一度手に入れた薬種行李を絶対に手放す気がないようで、必然的に受け渡し役となっていた。懸場帳は次郎伯父の懐にしっかりと確保されているので、多少のことなら任せても大丈夫だと言ってはみたものの、
「これ、お幸の」
すでに所有権はお幸ちゃんにあるらしい。
もっとも金銭的な感覚での言葉ではなく、「自分の役割」という責任感からの発言ではあったようだ。
そうこうするうちに、また何人か宿屋に転がり込んできた。
その中の一人、旅装の役人っぽい小男が赤くなった手をしごきながら、人のあいだを分け入って囲炉裏の傍までやってきた。長旅なのだろう、ちょうど草太の隣に割り込んだ役人から、埃っぽい汗の臭いがした。
「こう寒いとやってられません。…ああ、さぶさぶ」
この時代、あまり聞かないかなり標準語に近い言葉遣い。標準語の元となったという、江戸近辺の人間であるのかもしれない。
お役人がもっと囲炉裏に近づけるように、草太はあいだを詰めて隙間を大きくしてやった。
「すみません。…ああ、ありがたい。生き返るようです」
「…お役人様は江戸からこられたのですか」
草太も暇だったのだ。
なんとなく話しかけてみると、流し目でこちらをじいっと観察されてしばし、お役人は細面でイケメンな面をこちらに向けて、肩をすくめて見せた。
「どうなんでしょうねえ。…なんで坊やがそれがしを江戸の出だと思ったのか、そっちのほうがずいぶんと気になりますが」
柔らかい話口調もそうだったのだろう。草太もとるに足らない世間話のつもりであったので、あまり警戒することもなく思ったことを口にしてしまっていた。
「…いえ、なんとなくそんなふうに。それにその旅装がそのもの『お役人』様ですし、この吹雪に慣れてないってことは、ここいら地元のお人でもなさそうでしたから……お役で遠路を旅されるとなると、江戸(公儀)のお役人さまなのかと思いました」
「………」
じっと見つめているお役人様は、若かった。
二十代半ばぐらいか。遣いに出されるくらいであるから、そこまで偉いお役についているとは思えないのだが、さあどうなんだろう。
そんな暢気なことを考えていた草太であったのだけれども。
「おい」
隣にいた次郎伯父に背中をつねられて、ビクッとしてしまう。
そのとき次郎伯父の目が注意を促していることは分かったのだけれど、草太がその真意を理解したときにはすでに手遅れだった。
「ご明察です。なかなかかしこい坊やですね」
たった一人で、この厳しい冬の季節に単独行動している公儀のお役人が、むろん物見遊山であるなどということはまずないわけで。
そのお役人が、余人にはけして語れない秘密の役務を負って旅をしていたのだとしたら、それに関わるということの『まずさ』は押して知るべしと言うところである。
「本陣【※注1】も脇本陣【※注2】も『先客(偉い人たち)』でいっぱいで、ついてないなとがっかりしていたんですが……面白そうな話し相手がいて、むしろ運がよかったようです」
強い眼差しで射すくめられて、逃げ出すことも出来ない。
「ちなみに、その『公儀』の役人であるわたしについて、ほかに思いついたようなことがあったなら、後学のために是非教えていただきたいですね」
「…すいません、ちょっとおそそに」
がしっ。
あっ、膝頭を手で押さえつけられた。立てない。
「さあ、謎解きをしてみましょうか」
「………」
「では、わたしが江戸の人間だとして、どこになんのために向ってるのだとお思いですか?」
伊勢参り? それとも善光寺参りのあとの旅歩き?
いやいやそれじゃ公務にならないでしょ。
中山道を、遠路はるばるこんな岐阜のはずれにまでやってきて、どこに向ってるのかって……そりゃ西に進んでいるのだから、大阪か長崎か…。
秘密裏に旅するって、公儀隠密【※注3】で問題のある藩にでも入り込もうとしているのかな。
死して屍、拾うものなし……あれは隠密同心の心得之條だったっけ。でも隠密なら、そもそももっとばれないように変装とかしてそうだし……やっぱこの時代なら『長崎』かなー。
ぶつぶつと独り言を言っている草太に、お役人様のプレッシャーが容赦なく掛けられていく。
そしてついつい、そのちいさな呟きの一部をお役人様に拾われてしまったのが運の尽きだった。
「新式の銃か大砲の買い付けとかなったら、もう答えは『長崎出島』の一択になるんだけどなー……でもそれだとこのひとが幕末の偉人のひとりっていう可能性が出てくるし、まさかなぁ…」
「なんと」
その声に気づいて顔を上げると、お役人が目を見開いていらっしゃいました。
むろん聞き取られているなどとは思っていなかった草太は、一気に全身の毛穴が開く感じだった。慌てて口をふさぐがもう遅い。
幕末も近い、攘夷論【※注4】がうるさくなってくる時代である。
現地から遠い内陸の、しかもたった6歳の子供が新しい西洋式火力戦についての話題をさらりと口にしてしまうのはいかにも違和感があった。
あの有名な黒船来航から1年、幕府内ではいままさに現在進行形で、黒船に対抗する方法を喧々諤々している最中であるだろう。
そしてこれは『武士の沽券』に関わることでもあるので、そうした怯え慌てふためく様は、大衆には当然ながら秘密であったに違いない。
「なかなか物知りですねぇ。…どこでそんなことを聞きかじったんですか」
「ええっと…」
物腰静かな役人のぎょろりとした目に睨まれて、草太は背筋に鳥肌がぞわりと立った。
まずい。もしかしたらけっこう歴史上で重要な人物と鉢合わせてしまったのかもしれない。この時期に長崎に行く? いったい誰だろうか。
落ち着け、落ち着け。
とりあえず目立たないように深呼吸をしてから、いいわけのしようを算段する。
本を読んだ、は最悪である。そんな本が出回っているなど聞いたこともない。
物知りに教えられた、もドツボコースまっしぐらだろう。それは誰だと聞かれたら返答に窮してしまうこと請け合いである。
こりゃほとんど逃げ道がないや。もう子供特権を発動して、適当なこと言って煙に巻くしかあるまい!
「…先月尾張で聞きかじりました噂話です。なんだか知ったかぶりしてしまったみたいで申し訳ありません」
「…いまなにか言葉選んでませんでしたか? …そういうのには敏感な質なのです」
うわー、いらないスキル発動だよ。
そのあとそれがどういった《噂話》であったか根掘り葉掘り聞かれまくったが、思いつきとおっさんの舌先三寸スキルで、10分ほどの尋問をのらりくらりと、苦労したけど何とかしのぎきってやりました。
よくやった、オレ!
「…で、作り話聞くのはそれぐらいにしておきましょうか。…まあ、坊やがなかなか面白い童だというのは分かりましたんで、ぜひ吹雪が止むまで暇つぶしに付き合っていただきましょうかね」
しのぎきってないし!
【※注1】……本陣。参勤交代の大名や公家、幕府役人など、身分のある客を泊めるための宿舎。一般客は泊まることができません。
【※注2】……脇本陣。本陣で収容しきれない場合などに使われる宿舎。
【※注3】……公儀隠密。忍者転じたお庭番衆を指すものですが、時代劇のような、町廻りの隠密同心とかもいたようです。
【※注4】……攘夷論。外国船を打ち払い、追い返してしまえというタカ派的強硬論。




