012 草太6歳(数え7歳)
この京都行では、この時代ならではの差別用語等が含まれるようになります。
その表現を除外しての改稿に何度も挑みましたが、そうした人々の存在を抜きにしてこの時代に『骨灰』の入手方法を語る筆力を作者は持ちませんでした。
読むに耐えないとご判断されましたら、そこでページを閉じていただきたくお願い申し上げます。
大原郷は、正月を穏やかな空気のなかで迎えていた。
急造の家の土壁はその頃にはおよそ乾いていたし、草太が考案した藁を断熱材とした二重壁が割合と普及し、囲炉裏の熱を効果的に蓄えることに成功していたのも大きかったかもしれない。
林家の食卓にも、普段なら決して口に入らない贅沢な食材が並んだ。池田町屋の酒屋から若干色味のおかしい蒲鉾と昆布、豆などを購ってきて食欲をおおいにそそるおせち料理が用意されていた。もしかしてあの百両から流用して買ってきたのではと草太を不安にさせたが、祖父いわく「ちゃんと特別な日のために蓄えは作ってある」とのこと。
近隣の住民たちがわずかなもち米を庄屋に持ち込んで、ささやかながら餅つき会も行われた。ひとり当たり子供の握りこぶしぐらいの大きさだったけれど、醤油をさっとかけて食べたお餅はまた格別だった。
甘酒まで出てきたときちょっと大丈夫なのかと叫びだしたくなったが、多少このあと節制しなければならないとしても、正月ぐらいは多少の贅沢はしたいということらしい。甘酒おいしゅうございました。
そうして三が日をまったりと過ごした草太は、翌日の朝には池田町屋の木曽屋に突撃して、次郎伯父を旅支度へと引きずり出していた。
名古屋行を成功させたとはいえ今度の旅は比べ物にならないぐらい果てしなく遠い。準備は万端整えねばならなかった。
「さすがに上方までとか、おまえには無理やろう」
次郎伯父の気遣いは半分おのれの保身のためであっただろうが、その危惧は草太にも充分自覚のあることだった。
そのために草太は、長旅のための特製シューズをひそかに開発していたりする。
(とうとうこれをお披露目するときが来たか…)
取りい出したるこの草履。
見かけは足袋!
しかしその足裏には、この時代ありえない丈夫な靴底がドッキング!
きましたチートグッズ!
『スーパー地下足袋』の登場だ!!
この時代の旅行者の足回りは草履以外に選択肢がなく、その草履も結構な消耗品で、あの名古屋行のときも途中で一度草履を買い替えている。
だいたい寿命は4里(約16キロ)ぐらい。だから池田町屋のような宿場町の路傍でも草履を売る農民がいたりするのだけれども……辛い経験をもとに、チート成分の乏しい転生者がない知恵を絞って作り上げました。
以前、骨灰を得るために奮闘していたときにたまたま得ていた、馬の死体から大量に確保していた『皮』がキーポイントだった。
うろ覚えで少々不安はあるものの、掻き集めた茶ガラと一緒に煮詰めて、いわゆるタンニン鞣しも済ませてある。そいつを何枚も重ねて厚底を作り、おばあ様に用意してもらった厚手の足袋をがっちりとドッキング。(※縫いつけは女中さん)
厚さ2センチはあろう靴底のクッション性と耐久性は、未舗装路の街道歩きにベストマッチ! ついでひそかに身長もアップする優れものなのだ!
(ふう、われながら恐ろしい傑作を生み出してしまった…)
草太が足に履いた不思議な『靴』を見て、次郎伯父はバカにしたように「そんな重い草履はいとると、すぐバテるぞ」といってきたが、とりあえず無視しておく。
さあ、準備準備。
あとは旅人の定番荷物である薬の入った印籠、折りたたんだ提燈と蝋燭、火打石、矢立(筆記用具)、少しばかりの干し柿を詰め込んだ編み籠を次郎伯父が背負う。草太はなるべく体力が持つように大荷物は持たず、その日食べる握り飯を風呂敷にくるんでたすきがけにした。
そうそう、編み笠も忘れてはならない。天気の悪い日だって必ずくるのだ。
「目的を達するのも大切だが、一番大事なのは命だ。何かあったら迷わず引き返すのだぞ」
見送りに来てくれた祖父祖母に、
「分かってるって」
次郎伯父の欠伸半分な応えは軽い。
その横では話を聞いているのかいないのか、妙ちくりんな草履を試すように草太が足踏みを繰り返している。
送り出す祖父たちの目には、相当に危うく映っていたことだろう。
「それじゃ、いってきます」
そうして最初の一歩を踏み出して、草太は手を振った。
祖父と祖母は、彼らの姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
***
大原郷を発った草太たち『3人』は、一路中山道は太田宿(現在の美濃太田市)を目指してやや西寄りに北上していた。
その道は、おそらく多治見の陶器商たちが物を運ぶ主要街道であっただろう。その道が今渡の渡し(太田の渡し)手前で中山道と合流する。
中山道の三大難所のひとつとされるこの渡しでは、乗船待ちの旅人が小さな茶屋などで休みを取っていた。
「なあ兄じゃ……茶でも飲んでいかんか」
しんがりの人物がそのようなことを言ってくる。
先を行くふたりは基本無視の姿勢を貫いている。
「渡しもだいぶ混みあっとるみたいやし、少しぐらい休んでも…」
「お~、ちょうど船が入ってきたぞ。こりゃ運がいい」
先頭は次郎伯父、それに続いて草太、そして最後尾に父三郎が半泣きの様子で歩いている。
草太の上方行きは、旅の道連れを増やしていた。
「途中で草太が動けなくなったとき、大人がふたりいたほうが何かと都合がよかろう」
祖父貞正の計らいで、普段からまったくものの役に立っていない父三郎が上方行に同行が命ぜられた。
なるほど、彼が体力的にくたばったときに、おんぶするにしても大人ふたりでかわりばんこのほうが負担は少なかろう。
その命令を聞いたとき、即座に父三郎は逃走を図ったが、これは長兄たる太郎伯父の怒りを買って、ぼこぼこに殴られて引きすえられてきた。当主である祖父の権威は家内では絶対であるのだ。
「…なあ兄じゃ」
「船に乗ったら少し休めるやろ。ほんと情けないやつやな!」
普段からまったく鍛錬とは無縁の自堕落な生活を送っていた父三郎に耐え忍ぶ辛抱強さが備わっていようはずもなく。その吐きまくる弱音に同行者たちは少々苛立っていたりする。
年明けで6歳となったばかりの草太でさえ、まだまだがんばっているというのに、恥ずかしくはないのだろうか。
「今日中に太田宿に着かなあかんのに、早々休んどられるか。きりきり歩け」
「もう足が動かんし、茶を飲んで少し休めばまた歩けるようになるから…」
「女子相手にはよう動く腰も、旅ではからっきしとか誰が信じるんや。はよう歩かんと日が暮れてしまうわ」
「しかしなあ、兄じゃ…」
「…そういや、太田宿にはえらい別嬪ぞろいの置屋があるらしいがなー」
置屋とは芸妓が所属する派遣会社のような店のことである。宿場町には大なり小なりそのような場所があるものであり、夜の楽しみこそバカな男たちには最高の発奮剤となるものだった。
「…そら急がんとな」
それだけでにわかに足が速くなる実の父親に、草太はおのれのなかに流れるこの男と同じDNAに絶望しそうになる。
まさかとは思うが大人になって欲望全開になったら、同じような大人になってしまうのだろうか。
いやいや、いまはそんなことを心配している場合ではない。
『浅貞』から100両の金をせしめたうえは、いずれ当然のことながら価値付けしたボーンチャイナの入荷を矢のように催促してくるのは間違いなく。
実際に草太にはあまり時間的な余裕はなかったのだ。一刻も早く天領窯の生産体制を確立せねばならないのだ。
現金なまでに元気付いて、さっさと追い越していく父の向こう脛を蹴っ飛ばしたのもいた仕方なしと許して欲しい。この旅は決して気楽な物見遊山ではないのだ。
三大難所とかいわれる今渡(太田)の渡しであるが、天気さえよければそんな大変な印象などどこにもなく。ほんの少し船旅を楽しんだ後、3人は対岸に上陸した。
ここはもうれっきとした中山道である。
今渡から太田宿までの道は、さすが五大街道というべき立派な整備が進んで歩きやすかった。前世的には、国道21号線あたりが中山道に該当する。
安政の大地震からひと月あまり、すでにその被害のほどは日常の風景に埋もれてしまっている観があったが、そこここにつぶれたまま放置された納屋とか、瓦が落ちたままになっている祠とかを見ると、このあたりも相当な被害があったことが分かる。道端の崩れたあぜ道の復旧跡がまだ新しい。
太田宿に近づくにつれ、人の気配が濃くなってくる。冬の日暮れは駆け足である。
旅人たちの流れに飲まれるように、3人もまた最初の宿場町に到着したのだった。