011 休む暇なんてあるわけがない
…かくして、普賢下林家が手に入れた資金は、なんと100両。
江戸末期の1両が現在の貨幣価値に換算するといくらになるのか、諸説分かれるところだが、ここでは物価に準拠するほうが混乱が少ないように思う。
1両5万円として、500万円。
大金ではあるけれど、もしもそれが現代でのことなら小さな店をオープンするにもこと欠く程度の額である。
微妙な金額のように思えるのだけれども、この時代の人件費は嘘のように安いので……東南アジアなどで起業する感覚に近いかもしれない。
(この100両、無駄になんか出来ない…)
ひとつの家族が10年は食べていける額である。
世の金持ちに鼻息で吹き飛ばされそうな程度であっても、これはいまの草太にとって二度と得られないかもしれない『虎の子』の金であることに違いはない。
「…おじいさまのおかげで、どうにか代官様のご理解はいただけたと思うけど、やっぱり《天領窯》の窯株に絡む話になると、江戸本家とじかに交渉するしかないか…」
「どこまでいったところで、お代官の坂崎様も江戸本家抱えの家臣の一人に過ぎぬのも紛れもない事実。その一存で本家所有の《窯》を勝手に右左することはできまい……いずれ地揺れによる『窯崩れ』の一件についてもご報告される由、その再建の道筋のひとつとして我が家からの出資についても書き加えていただけることになったのだから、あとはその返答をおとなしく待つしかあるまい」
根本・可児の復興に協力した褒美として、下げ渡された金一封をさらりと固辞し、資金繰りに厳しさが募るこれからの一年を乗り切るのに、無駄にしてよい金など一文たりとてありはしますまいとか、口清いことを言ったあとで、祖父は孫に注入されていた『領地復興への新たな御協力』を申し出たのだった。
《天領窯》を林家が責任を持って復旧すること。以後も林家が運営を主導して確実に利益を上げること。たとえ利益が思ったほど上がらなくとも、毎年10両の冥加金を江戸本家に納めること。
そして肝心の《窯株》を《権利株》として分割し、過半に当たる51株を林家にいただきたいこと、その対価にしかるべき金子を上納すること、さらには《権利株》システムの核心が持ち株に対する利益の分配にあることすることも申し上げた。
むろんそのあたりのプレゼンテーションは草太が受け持っている。
「藩校で学ばれたお代官様であの様子。一度は江戸表に出て本家の方々にじかにご説明する必要があるかも知れんな」
「絵図を引いてあれだけ説明してようやく理解も半分というところやしね……お代官様も出資すれば儲かる仕組みが分かってからは、自分も割り込ませろとか大騒ぎだったけど(笑)」
「…その点ではお代官様にも《権利株》のいくばくかを持っていただくことが、今後のなによりの助けとなろう。いちいちせっつかぬでも自ら動いてくれようしな」
100両という資金は手に入ったのだが、普賢下林家はどこまでいっても地下侍、名字帯刀はしても所詮は半農の庄屋にしか過ぎない。こうして謀議を繰り返したところでなにひとつ決定権など持ち合わせていないことに気付かされる。
窯株の権しかり、蔵元の専売権しかり、なにをするのも既得権者の顔色をうかがって動かねばならない。なかなかに難儀なことであった。
「…江戸よりの反応を待つ間、先に窯修復に手をつけるか?」
「それはやめといたほうがいいと思うよ。苦労して直しても『大儀であった』のひとことで全部持ってかれるのがオチやし」
「ならば他に何かやっておくべきことはないのか。この冬場の農閑期、わずかな手間賃で人などいくらでも集められようし」
「…なら人を使っていい土を探してもらおうかな……瀬戸の『千倉石』の標本がたしか天領窯の倉庫にあったはずやし……それに似た長石質の陶石を探していけば…」
「素人にはなかなか難しそうだが……おまえがきちんと指導すればどうにかなるだろう」
状況的に、『待ち』になることは分かっていた。
しかしそれがまた歯がゆい。人の一生の長さなど、子供の時分は永遠のように感じるものなのだが、一度死を経験した三十路のおっさん的には、ストレスで腸が引き千切れそうなほどの時間の浪費に他ならなかった。
土探しもいいだろう。
しかし草太にはまだいくつか成し遂げねばならない難問が残されていた。それらはこのひなびた田舎で座していたら、永久に解決することのない問題だった。
「おじいさま」
われながら無茶なことばかりしていると思う。
しかし現状、この《天領窯》をもって確実な成功へと導くプロセスを頭に思い描けるのは彼自身をおいて他にはなかった。
「上等な磁器には、『絵付師』が不可欠です」
ボーンチャイナは美しい素地をもっている。
ただそれだけで優美な製品を作りだせることは分かってはいるのだが、春のパ○祭りではないけれどシンプルなだけでは目の肥えた顧客は長く引き止めらるものではない。
美しい絵付け。
この窯のみが生み出せるボーンチャイナが他窯の製品と一線を画すためには、いままでにない精緻な絵付けが必要なのだ。
「絵付けとは、瀬戸新製のような『下絵付け』【※注1】のことか」
「ちがうよ。ああいう呉須の鮮やかな青の下絵もきれいやけど、それはたぶんこの『美濃新製』の滑らかな肌には合わんと思う」
「…ならば『上絵付け』か」
「うん。どっちかというと有田の柿右衛門あたりだと思うけど、方向性としてもっと近いのは九谷焼【※注2】の五彩手かもしれん」
「九谷か……三彩か五彩か知らんが、わたしはあまりああいうごてごてしたのは好かんのだがな」
「好き嫌いあると思うけど、五彩の金襴手【※注3】とか、こう分かりやすく高級そうできらきらした感じの……瀬戸や有田とは別系統の……ともかく分かりやすく差をつけようと思っとるんや」
むろん草太の頭のなかにあるのはワンセット数十万もするような、鍵のかかる陳列台に並ぶ高級ティーセットである。もちろん高級感の分かりやすい金彩は必須(笑)。
まだ《権利株》も手にしてないうちから自分の物のように想像する《天領窯》の新体制は、絵師成分が不足することが目に見えている。
小助どんはもしかしたらそれなりに使うのかもしれないが、その弟子のオーガこと山田辰吉は、あの見てくれ通りがさつが服着て歩いている人間なので、ちまちました絵付けになどまったく適性を欠いているだろう。むろんまだ未熟者の周助などは論外である。
上絵付けだ、下絵付けだと知ったふうに論議している祖父と孫であるが、その概念がこの地に入って来たのはずいぶんと最近で、瀬戸で『磁祖』と英雄視される加藤民吉どんが正々堂々有田に入り込んで産業スパイして凱旋したのが始まりである。それこそ数十年前のことに過ぎない。
瀬戸ではもっぱら製作に手間のかからない下絵付けが普及し、二度焼を要求される上絵つけ文化はほとんど根付いていないようである。
ようするにここ多治見盆地には、現状上絵付け技術者がいない、ということに他ならない。
やるとなったら、外地から連れて来ねばならないのだ。
「…一度、上方に行こうと思います」
まだたった5歳にしか過ぎないというのに、人材スカウトも彼の責任仕事なのであった。
この時代、上方といえばむろん千年の都、京都である。
『絵付け』という技法がどのようなものなのか、技術的なことは幸いなことに草太の頭のなかにすでにあった。必要なのは『絵師』なのだ。
腕のある職工を引っ張ってくれば成り立つはずであった。
「…えっ、まさかオレもか?」
書斎の隅でハナクソをほじっていた次郎伯父が、二人の視線を受けてがっくりと肩を落とした。
【※注1】……下絵付け。釉薬の下に絵の具をのせる技法。たいていは素焼きに呉須で描きなぐって釉薬を上からずぶ掛け、本焼成で完成という工程の少なさが特徴。日常雑器が主力の瀬戸物に相性抜群の技法です。
【※注2】……九谷焼。加賀百万石が育んだ色彩鮮やかな焼物。「らしい」といわれる名品に奇抜な色遣いのものが多いことから、ひとによって好き嫌いは分かれるかも。
【※注3】……金襴手。金箔や金泥を用いて焼物に金色をつける技法。一気に豪華さが増しますが、これも好き嫌いあるかもですね。
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