045 根本郷始末③
墨を溶かしたような暗い空から、ちらちらと粉雪が舞い落ちてくる。
積もるほどの勢いはないとはいえ、地面はすでに踏みしめた足跡のあたりからぬかるみ始めている。せーのと声を合わせるひと塊の村人たちから盛んに湯気がたち登る。
倒れた柱の裏側に差し込んだ指が凍るように冷たい。半ば濡れ凍ったそれらを素手でつかんでいると、すぐに感覚がなくなってくる。
「まさかあのお堅いお代官様の口から、こんな領民想いの名裁きが下されるなんざ思いもせんかったわ」
吐く息が真っ白い煙になるような雪の日の作業であるというのに、草太の隣で汗を掻く村人たちの横顔にはふくらかな笑みがある。村の男手が総出で復旧もままならなかった家々に取り付き、村の本来ある姿を取り戻すべく一心に力を合わせている。
「ありゃあ、大原の庄屋様の入れ知恵だとか聞いたが、ほんとうは草太、おまはんの引いた図面の通りに踊っとるだけと違うのか?」
根本郷の数少ない知り合いのひとり、オーガこと山田辰吉のバカ力にかかればなまなかな丸太ぐらい小枝のように持ち上がる。「ガキんちょは邪魔や、やすんどれ!」と余裕の笑いだ。
このあたりにチーム天領窯の皆が住んでいるのか、小助や周助の姿も見える。
「地震のあと村の様子がどんどん悪うなってって、どうなることやとはらはらしとったが、こんでやっとみんな笑うようになった……おまはんなのか大原の庄屋様なのかは知らんが、今回はほんとに助けられた。これでもう根本郷は無事やろう」オーガの言葉に周囲の村人たちが賛意を示す。
「ほんに、まったくや」
「まるで芝居小屋の一幕でも見とるみたいやったわ! 大原の庄屋様の入れ知恵か知らんけど、我が村の代官様は先代様とは比べ物にならん名代官におなりになるやろうて。なあ!」
周囲の村人たちが思い思いに相槌を打つ。
「代官様のお裁きを聞いたときの、あのお役人様がたのマメ鉄砲くらったような顔! ありゃ見物だったぞ」
ぶふふと皆して笑いかけて、草太の無言のジェスチャーで慌てて口をつぐんだ。彼らのすぐそばに、ネタ元のお役人様がいたりするのだ。
「次はこの柱だッ! 全員でいっせいに引き上げるぞ!」
着物をたすき掛けにしたお役人様が、軍配代わりの扇子をびしっと目標の柱に向けて、盛んに音頭をとっている。実はそこかしこで代官所のお役人様全員が、村人に混ざって復旧活動に従事していた。それはもう必死の形相で。
「ありゃあ語り草になる名裁きやったな…」
誰かがつぶやくと、小さな忍び笑いが静かに広がった。
***
「穏やかであった村に、いたずらに混乱を招いたのは、ひとえに我が不明のいたすところ。この地を治める代官として、まずは皆に詫びたい」
ざわり。
突然村人たちを前に首を垂れた代官様は、わずかに赤らんだ面を再び上げると、たたんだ扇子を膝先の床にビシッと叩きつけて、ざわめく村人たちに「鎮まれ!」と一喝した。
「そしていまひとつ……代官所のこの白洲が、なにをするためのものかその方らも知っていよう。いつまでそうやって立っておるつもりかは知らぬが、そのほうらも場をわきまえてはよう土下座いたすがよい。…ここは不届きな罪人を罰する神聖な裁きの場、そこへそのほうらが召し入れられたことの意味は説明するまでもなかろう」
村人たちは驚愕の雷に打たれたように顔色を失った。
そして互いに見返して、本来ならありえない場所におのれたちがいることに気付いたようだった。
尻もちを付いて座り込む者、慌てて逃げ出そうとして取り押さえられる者。
入れと言われて導かれたのがここだっただけで、村人たちに何かの意図があったわけではない。だがなにゆえか代官様は厳しい面持ちで決めつけた。
「ここにそなたたちがあるのは、……それはそなたたちが裁かねばならない罪人であるからだ」
「なんでおらたちが!」
「わたしんらはなんも悪いことなどしとりゃぁせんて!」
「黙りおろうッ!」
代官様の叱責で、言葉を上げた者たちが役人の突き棒で押さえつけられる。
「そなたたちの罪は三つ」代官様の口から朗々と言上げられてゆく彼らの罪状。
「…ひとつは困窮する隣人に手を差し伸ばさなかった狭量の罪。……いまひとつは隣人に対し故なく暴力を振るった罪。…そして最後は」
代官様もなかなか堂に入った台詞回しである。草太はその台本を書いたのであろう祖父をちらりと見て、そこに満足げなドヤ顔を発見した。
「ここ代官所に石を投げ、あまつさえ身の程もわきまえずお上に『直訴』に及んだ罪! 直訴が大罪であることを知らぬものなどよもやおるまいな!」
直訴……まあ代官所に押しかけて押し問答してる時点でそういわれても仕方がなかっただろう。いちいちピンと来る罪状を告げられて、村人たちは顔色もない。
代官様が少しだけ祖父の方をチラ見して、その首肯に力を得たように言葉を継いだ。
「まあ、もっとも。本来なら死罪もまぬかれぬところであるが、大地震のあとのことでもあり情状酌量の余地はある。よって、直訴の一件については不問とする。…だが何も罰さぬわけにもいかぬ。それでそなたらから一時召し上げたこの米は、すべて没収の上、代官所預かりとする。異存はあるまいな」
もともと村人たちは米を取り上げたられたので押しかけただけであって、それの罰で米を取り上げるという論理はやや破綻してたりするのだが、そこに突っ込めるほどの冷静さを保ち得た者はいないようだ。
一縷の希望を失って力なく平伏する村人たちを尻目に、代官様の裁きは収まらない。
「次に貴公たち。森殿、妻木殿、北丘殿、小木殿…」
「はっ…」
与力役人4人衆は、代官様の坐る縁の両翼にすでに平伏している。代官所役人という肩書きはあれども、この4人は富農、有力者として代官所に与力することを求められたいわゆる名主でもある。
本来的に、村人の罪は代表者である彼らの罪でもあった。
「わたしはこれにおる林殿と、あの地揺れの後のわが代官所の取るべきであった施策についてさきほどまでいろいろと吟味を重ねた。あれほどの激しい地揺れの後であるゆえ多少の混乱はいたしかたないこととではあったろう……しかしその後10日も経たこの根本の里には、無辜の領民たちが互いにこぶしを振り上げ、わずかな米を奪い合う地獄絵図が広がっておる。…隣の大原が一致団結してすでに復興を遂げてあるというのに、この代官所の所在するまさにお膝もとの根本の里はこの体たらくである。…なにゆえこのような差が生まれたのだろうかとわたしは問うた。その復興を成し遂げた大原の庄屋、林殿はこう申した…」
与力衆たちがわずかに首をすくめて身じろぎした。
「代官所は領民たちの母屋であり、この代官は頼むべき親のようなものだという。…子は親鳥の羽の下に安穏を求めると。…領民たちが愛すべき子であるなら、親たるわたしはすべての村人たちにただ手を差し伸べるべきであった。そなたたち与力衆も、村人らの頼もしい兄であるべきだった。誰ひとりとして捨て置かれるべきではなかったのだ」
反抗的な村人を捨て置いてきた彼ら与力衆には、思い当たる節がありすぎるだろう。もともとつくりが立派な彼らの家はそれほど被害もなく、その縁者もたいがいもとの生活を取り戻した。そしておのれに縁者に不遇の者がいなくなったとき、村を覆う災いは彼らにとって他人事となった。
「そなたらが村人を分け隔てた、その大元の由は、我が父の倒れたあの一件にあるのかも知れぬ。だがそのような過去の恩讐にとらわれてまつりごとを誤るなど言語道断である」
「も、申し訳も…」
「わたしに詫びる必要などどこにもない。相手を間違うておるわ」
代官様は再び村人たちに深々と首を垂れ、「すまなかった」と言った。
最前の代官様の謝罪の真意を理解した村人たちも、返すように何度も平伏した。感極まって、さめざめと泣きだす者もある。
「…よって、名主でもある貴公らから召し上げたあれなる米も、すべて没収の上、代官所預かりとする!」
騒動が終わり次第おのれの米は回収する気満々だっただろうに、もはやそれも絶望的である。与力衆は反論もなく、ただ「ははぁ」と脂汗を浮かべながら平伏するしかなかった。
頭はよいが文人肌で、押し出しがきかなかった若い代官様の豹変ぶりはその人となりをよく知る代官所の役人たちをことのほか驚かせたようだ。大原の庄屋の後押しはあっただろうが、いまこの目の前で村人たちを信服させつつある慈愛深い代官様の姿は、眼から鱗が数枚剥がれ落ちるほどの衝撃を持っていた。
村人に突き棒を押し付けていた役人たちが次々に膝をつき、感極まったように平伏する。
それらの様子を見渡した当の代官様は、場の熱い一体感に少し酔うようにぼんやりしていたが、後ろから祖父にささやかれて背筋を伸ばした。
この後の台詞があるのだ。
それを忘れたら台無しというものであるだろう。時代劇ファンなら一度は見てみたいに違いない『名奉行の名裁き』……もといこの場合は名代官か。
古典的名裁きの形を完成させるには、もう一押し、もう一方の責めが必要なのだ。
代官様はこの後いうべき台詞を頭の中でそらんじたふうな沈黙の後、
「そっ、そしてだな…」若干の馬脚を乱しつつ、台詞を噛んで、
「そしてそなたらばかりを責めるわけにもいかぬ。…いたずらに混乱を招いたそれがし自身も責めを負わねばならぬ。よって……これらはそれがしの蔵より預け入れる米である」
約束された最後の台詞を完了させた。
ぱっと扇子を白洲の脇に向けると、合図に気付いた役人が飛び上がった。事前に指示はしてあったのだろうが、おのれが任された役割の意味をたったいま悟ったに違いない。
そうして脇に用意してあった、米俵を積んだ荷駄が白洲へと運び込まれた。
村人たちはこの展開に呆然としている。代官所の庫裡を開け放って運び出された20俵あまりの米俵。
白洲に集められた米は、全部で60俵近くになった。ないないと思われていた食料が、これでもかといわんばかりに集まった瞬間だった。
「予期せず、このようなところに大量の米が捨て置かれることとなった。代官所にて預かるとはいえ、これだけの米を納めるほど大きな蔵は持ち合わせぬ。…さて、これらをどうしたものかな」
わざとらしい独白。
代官様の言いように、村人たちが正気に返り始める。
捨ててしまうなら、食べたほうがいいに決まっている。もう村には米粒ひとつ残ってはいないのだから。
「だれぞ、何かよい案はあるか…?」
そのときになってようやく、代官様の口元に漏れたわずかな笑みの意味に皆が気づき出す。尊敬の熱いまなざしを集めた代官様は、まんざらでもなさそうに扇子を広げ扇いだ。
《根本の名代官》(見習い)誕生の瞬間であった。