040 例えひとりよがりでも
その日、根本郷の代官所から、ひとりの役人が林家を訪れた。
あの天領窯に初めて行ったとき、案内に立った若尾氏の若侍である。もともと線の細い神経質そうな面立ちの青年であったが、ここのところの震災復興で気の休まる暇もないと見えて一段と血の気が薄くなっていた。
「代官様がお召しにございます。急ぎ参られますよう」
「心得ました」
いつか来るのではと草太はそれとなく注意を促していた。
大原郷の復興は大地震後一週間ほどでおおよその目途がついてしまった。
物質文明の爛熟した平成の世の被災とは異なり、私有財産のあまりの少なさが、返ってこの時代の貧しい人々の復興を助けた観がある。
この世の終わりでも迎えたようであった村人たちも、そのわずかなあいだに旺盛な生気をよみがえらせ、いまではいかに楽しく正月(旧正月/1月29日)を迎えようかなどと暢気な会話さえ聞かれるほどである。
かたや復興の進まなかった根本郷では、代官所にゆかりのあった者たちから優先的に救済されはしたものの、いまなお捨ておかれる者たちも多く、凍死者もかなり出ているらしい。
まさに同じ領主であり、隣村である大原郷が瞬く間に復興した噂はすぐに彼らにも広がり、被災者をすぐに救済し復興の指揮も陣頭でとったという大原郷の庄屋の名采配も尾ひれがつきまくって人口に拡散していた。その分かりやすい対比の構図は、無策な代官所役人たちを責め立てる論拠におおいに引き出されているという。
「林様も、うまくなされましたな…」
後から必ず出頭すると言っているのに、若尾様は是非にもと同行を主張して曲げなかった。そうして準備の出来た貞正様とともに大原郷の道を歩きながら、すでに日常を取り戻しつつある村の景色にうらやましげに嘆じた。
「ひと段落したかとは思いますが、まだ食料の調達が見込める春先まで予断は許せません。住む家がとりあえず何とかなった、と言う程度のことで」
「それがなかなかできぬことなのです。まだ林様は根本郷の様子をご覧になっておられないので?」
「ええ、まだ他村に足を向けるほどの余裕もござらねば」
「…それでは根本の騒動の件はまだ…」
「騒動…?」
「とりあえず道すがら、お話し申し上げます」
どうやら復興の遅れから、根本郷ではひと騒動起こっているという。
もともと村人と代官所との折り合いはあまりよろしくなかったらしい。
「2年前の……例の一件があって先代代官様がお亡くなりになられたとき、首謀者の村人5人は親兄弟まで縁座【※注1】して誅されたんですが、その遺族がいまだ遺恨を含んでいるらしく…」
「例の件……農民が代官様を弑したとなれば、親兄弟の縁座は定法。情を頼んで刑を軽くするわけにはいかなかったのはわたしも存じ上げておりますが…」
どうやら2年前の事件の因縁がいまこの被災を機に吹き出しているらしい。
この辺りの人間にとってそれはたいそうな大事件であったようだが、当時3歳の彼にはおよそ縁遠い出来事であったわけで。
歩きながらやることもないので聞き耳を立てて草太であったが、実際この多治見という片田舎で『根本代官殺し』などという大それた弑逆事件があったなどとは寡聞にして知らない。
郷土史の闇というものなのだろうか。不名誉な出来事は、それを不名誉に感じる人々が口を塞ぐことでいずれどこかで失伝してしまう。前世の学生生活でも、一度として聞いたことのない事件であった。
殺されたのは、現根本代官様の父親である先代坂崎源兵衛で、農民が5人がかりで闇討ちしたというのだという。過酷な搾取を受けてもじっとしているおとなしい農民が殺害を決意したのだ、なにか相当に耐えがたい仕打ちがあったのかもしれない。
結果、最終的には被害者とされた先代代官様であるが、その弑逆の罪で一家皆殺しに処された農民の側から見れば、「悪いのはあいつなのに!」と、恨みを飲みつつ女子供まで縁座させられたわけで、幕府の定法通りの刑罰とはいえ到底気持ちは収まらなかったのであろう。
そして聞き耳を立てていた草太は、被災後の代官所のトンデモ対応に思わず吹きだしてしまった。
「日ごろから協力的じゃない村人を、後回しにしたわけですか…」
多くの村人が真冬の寒さに身を震わせていたというのに、根本の代官所はまず役人たち自身の家を最優先で建て直し、次にその縁者、それらが終わってようやく他の方にも手を回していったらしいんだが、反抗的な村人たちは終始空気のように無視して捨て置いてしまったのだという。
うわ、それ最低だよ…。
身内優先というあたりですでにアウトだが、えこひいきどころかガン無視って、それはあんまりじゃないでしょうか。
おかげでそれら反抗的な村人たちから凍死者が多く出たらしい。ドン引きです。
やがて根本郷へと足を踏み入れると、ああ……村人同士でやりあってます。まさに最悪の光景。
「こらこら貴様ら! 代官様の布令を聞いておらんのか!」
若尾様が仲裁に入るものの、にらみ合った村人たちは一触即発の状態である。
目の前に現れた突然の状況であるのだが、その争いの構図の根本原因がすぐに分かってしまった。
(格差をつけるからだ…)
本来、救済されなかった村人たちが怒りを向けるべき相手は、当のえこひいきを実施している代官所なのだが、彼らは下手に責めれば処罰を受けかねない代官所相手よりも、より卑近な相手を見つけてそれを怒りの捌け口としたのだ。
救済された村人と、そうでない村人。
食料を持ってる村人と、そうでない村人。
死人や怪我人を出してない家族と、そうでない不幸に見舞われた家族。
格差が妬みを生み、それが些細な行き違いで殴り合いの騒動になる。そうして隣人の食料を奪う村人が現れれば、もうコミュニティは信頼の輪を失って崩壊するしかない。
その場は代官所の権威をかさに着た若尾様の顔で何とか収まりはしたものの、何かきっかけが与えられればまたすぐにでも争いは再燃するだろう。
「お見苦しいところをお見せいたしました。…代官所へ向かいましょう」
騒動を見守る間、祖父の貞正はただ眉をひそめていたが、その内心では一歩間違えれば同じことが大原郷でも起こりえたのだと身の毛のよだつ思いであっただろう。
さて、これはいよいよ大変な難事を押し付けられそうだぞ。
代官の呼び出しを受けたのは祖父の貞正であったが、ことによってはその難事が彼の足元にスルーパスされるケースもありうる。いやむしろその可能性のほうが断然高いだろう。
(はやく計画をスタートさせなくちゃならないのに……大原の外のことまで面倒見なきゃならないなんて)
ぎゅっと、草太は懐にしのばせた硬い磁片を握りしめた。
暗闇のなか、月明かりに白く輝く磁器の破片をかたはしから回収した。あの窯で、正体不明のまったく新しい磁器が生み出されたことを誰にも知られないために、根こそぎに回収したのである。骨灰も、崩れたろくろ小屋の中から見つけ出し、すでに秘密の隠し場所に移してある。
(オレは……無駄にしないよ。ぜったいに成功してみせる)
失敗は許されない。
例えそれが夢のなかであったのだとしても、想いは託されてしまったのだから。
じっと、刺すような視線がまわりから集まってくる。
根本代官所の役人と一緒にいるだけで、彼らもまた憎まれる側の人間として認定されつつあるのだろう。
そのときどこからともなく飛んできたつぶてが、彼のこめかみを弾いた。
とても小さな、とても分かりやすい敵意。
「大丈夫か、草太!」
しゃがみ込んだ彼に気付いて祖父が駆け寄ってきたが、「大丈夫」と、草太は黙って立ち上がった。こめかみの辺りから暖かい感触がしたたっていたが、
「大丈夫だから」
彼は繰り返した。
【※注1】……縁座。刑罰のひとつで、犯罪者の血縁までも刑に処すことを『縁座』といいます。主従や師弟、村単位で起こした一揆に対するものなど、特殊なつながりに対して刑を及ぼす場合は『連座』となります。