039 夢
深い深い、地の底に沈むような眠りだった。
身体じゅうに澱のようにたまった疲労は、彼を相当に深い眠りに誘ったであろう。いわゆるノンレム睡眠というやつだろう。
だが、気が付くと彼は誰かに手を引っ張られていた。
(…こっちやよ)
聞きおぼえのある声。
彼の指を包みこむような大きな手。声は年端もない少女のもの。
(…草太さん遅いよ)
(お…妙……ちゃん…)
(はよ走って! 着くまでに日が暮れてまうよ)
そのときはっきりと自覚した。
これは夢だ。
もうこの世にいないはずの少女が、目の前を元気に走っている。その躍動する後姿を見つめながら、彼はまた夢だ、と思った。
夢を見るとき、人は浅い眠り(レム睡眠)にあるはずで、ならば自分は疲労困憊のはずなのに、寝床の中で半覚醒したまま寝ぼけて、うつらうつらしているということだ。
はやく体の疲れを取って村のために働かなきゃならないというのに、浅い眠りでぐずぐずしているおのれがいまいましくなる。
走るお妙ちゃんの背中に手を伸ばせば、今ならば触れられそうな気がする。そのくらい現実感があった。
掴まれていない左手を伸ばしかけて、そのとき振り返ったお妙ちゃんの楽しそうな笑顔を目にした瞬間、やるせなさに胸が刺し込むように痛んだ。
ぎゅっと、お妙ちゃんの手に力がこもった。
(はよ走って! 時間がないよ!)
なにをそんなに焦っているんだろう。
駆けていくその道の先には、沈みゆく夕日が真っ赤に揺らめいている。懸命に駆ける二人の横を、勢いよく景色が流れていく。その景色にはよく見覚えがあった。
(…ここ、根本郷…)
(もうすぐ着くし!)
そうして時間を切り取ったかのように、二人はそこに立っていた。
目の前には、あの崩れ果てた天領窯があった。その無残な姿に、彼は無意識に目を背けそうになったが、お妙に促されてさらに近くへと寄った。
(草太さん…)
お妙ちゃんの絡まった指が、ほどけて放れていく。そこで失われていく二人のつながりを惜しんで彼が顔を上げると、晴れやかなお妙ちゃんの笑顔があった。
(草太さんの《宝もの》やよ)
脈絡のない言葉。なんでそんなことを彼女が言うのか分からないまま、息をのんだままの彼が押し黙っていると、
(草太さんの、一等大事なものやよ)
まだなにを言われているのかピンとこない。夢だから、そこにたしかな整合性など求めてはいけないのかもしれない。ただ、彼女に語りかけられたまま押し黙っているのに耐えられなくなって、
(崩れてまった窯は、ただの瓦礫やし…)
そう答えると、
(違うよ)
(もうなんも焼くことができんし、何の役にも…)
(宝ものやよ…)
(でも…)
手を伸ばした。
お妙ちゃんに触れたかった。会話がよく分からなくても、そんなものどうでもよかった。ほんの少し、手を伸ばせば届くはずだった。
だけれど、そのわずかな距離が、いつの間にか開いている。
(お妙ちゃん!)
(あたしと、草太さんの、宝もの…)
(待ってッ)
お妙ちゃんの姿がどんどんと遠くなる。
落ちかかる闇が彼女の姿を飲み込んでいく。追いかけようとしても、彼の足は地に縫い付けられたようにびくともしない。
待って。
まだ話していないことがいっぱいあるんだ。
謝りたいことがいっぱいあるんだ。
待って…!
はっと、目が覚めた。
そこは林家の居間だった。
「夢……か」
分かりきっていることを口にしてみて、いっそうがっくりくる。
手のひらで顔をしごいてまとわりつく眠気をはらうと、周囲の人いきれが彼の現実感を急速に回復させた。見回すと、まわりには雑魚寝で眠り続ける大人たちの息遣いが溢れている。
しばらくぼうっと月明かりの障子を眺めていた草太だったが、ふとなにかひらめきに打たれたように布団を払いのけて立ち上がった。
忙しく着物を調えて、縁側に散らばっていた草履の中から自分のそれを見つけ出して外へと飛び出した。
林家の庭にも、焚き火が燃えていた。
まだ何人か火に当たりながらぼうっとしている者たちがいる。たぶん横になっても寝られないまま、遠い朝焼けを待っているのだろう。どろんとした彼らの目が、駆けだした草太の姿を追ったが、子供の夜更けの出歩きを咎めだてるまでには頭が回らないのだろう。誰も声を立てなかった。
草太は屋敷を飛び出すと、大沢川の堤をしばらく高社山に向かって上り、そこから根本郷へと続く細道に飛び込んだ。まだうっすらと雪の残る夜道は、月明かりに照らされて意外なほど明るい。
遠く犬の遠吠えが響いたが、まったく草太は気にしない。駆け通しに駆けて、やがて根本郷に降りると、そのまま天領窯を目指した。
レスキュー隊のおかげで復興が急ピッチに進んだ大原郷と違い、根本郷はまだ打ち捨てられた廃墟のようにうら寂れた姿をさらしている。互助的な活動がないままに、各自バラックのような住処をでっち上げているようだが、その雨風さえ満足に避けられないあばら家には雪が白く積もり、容赦ない寒気が中にひそむ家人たちを震え上がらせていることだろう。
代官所があるというのに、どうしてこんな機能不全に陥っているのだろう。若干腹を立てながら根本郷を駆け抜け、やがて元昌寺そばの天領窯を臨むあたりまで来る。林は黒々と暗闇に塗りこまれて薄気味悪かったが、勝手知ったるなんとやらで倒れた門柱を乗り越え坂道を登る。
そうして見えてきた天領窯。
人気もなく静まり返る廃墟には、まだ誰も手をつけた跡はなかった。それはそうだろう。いまは窯を直すよりも先に、自分の住処をどうにかするので手一杯なのだろう。
草太はそのひどい崩れっぷりに感傷に浸るのもつかの間、すぐに瓦礫に取り掛かった。窯の天井は見事に崩れ、穴の空いた窯の中には大小の瓦礫が積もっている。
そんなことあるはずがないと、彼の中のもうひとりが常に疑問を投げかけてくる。崩壊した窯の中は、一瞬にして急冷却されて、その恐るべき温度変化に耐え切れずほとんどの焼物が『自爆』したことだろう。
あるはずがない。
ありえない。
だけれど、草太はただひたすら掘り返し続けた。
彼の皿は……お妙ちゃんとともに作った、骨灰を練りあげて作ったボーンチャイナは、バカ犬周助の大物の傍、やや下のあたりの棚で遠慮がちにあぶられていた。バカ犬の焼物からがさつな鉄粉が飛んでこないように匣鉢【※注1】と呼ばれる篩のような形をした鉢に詰めてあった。
匣鉢……焼物を保護するために使う覆いのような役割の鉢は、それなりに頑丈ですでに焼き締まっていることから耐火性も高い。もしも奇跡的にその匣鉢がボーンチャイナを急激な冷却から守りぬいたとしたら…。
掘り出していくうちに、バカ犬の大鉢が出てきた。腹の立つやつだが、作品に罪はない。少し慎重に掘り出してやったが、結局下のほうが割れて底が分離していた。またがんばれ、周助。
そうしてその大鉢の残骸をどけたところに、かれの子供たちが眠っていた。
匣鉢は……ヒャッホウ! 下のほうは割れてないよ!
上に載ってる残骸を忙しく掻き出して、割れていない匣鉢を剥き出しにする。
「…あったよ、お妙ちゃん」
汗なのか涙なのかもう分からない。
こぼれだす水分を忙しく拭ってから、ほんの少しだけ呼吸を静めて。そっと匣鉢に手をかける。
そろり、そろり…。
手が震えるのを止められない。よぼよぼの老人にでもなってしまったように手に力が入らない。
そろり、そろりと匣鉢を避けていくと、そこに真っ白な磁器の柔肌が見え始めた。
ぬめっとした暖かい色合いの乳白。
彼のわずかな身動きで、首筋から漏れた月明かりが白い輝きをひらめかせた。
現れたのは、お妙と彼の成した宝ものだった。
【※注1】……匣鉢。本焼中の窯の中は灰や鉄粉などの飛散物質の嵐となります。デリケートな品は覆いを被せて守らなければなりません。その『覆い』が匣鉢です。裏向きにした洗面器みたいな形をしています。