037 お妙ちゃんの手
11月6日(1854年12月25日)の夜。
大原郷の空に、白い光の粒が舞い降り始めた。暮れゆく冬の曇り空を見上げた草太の額にも、そのひとつが落ちて瞬く間に形をなくしていった。
(…初雪か)
冬といっても、太平洋岸の気候帯に属するこの地に雪が降り始めるのはだいたいこの頃である。
白い氷の結晶を神秘的だ、美しいものだと評するのは生活に余裕のあるものに限られる。住む家さえ定まらぬ困窮者にとって、それは天から音もなく降り積もる死の誘いに他ならない。忌々しそうにする人々の舌うちにも、いささかの不安が混じる。
「よーし、こいつが終わったら切り上げだ!」
レスキュー隊だけでなく、家が復旧したばかりの者たちも、作業の終了とともに彼らに同調して普賢寺へと歩き始めた。住処が復旧したとはいえまだ壁もない吹きさらしの家で、雪の夜を過ごす胆力はさすがにないのだろう。
路上に寺へと向かう人の影が並ぶ。家がさほど壊れておらず救援の必要でない者たちも、心の不安に耐えられず寺に行く者が多いらしい。大勢の人と一緒にいたほうが心強いのもたしかだろう。
「おじいさまはこなくてもいいよ。目に見えるところに郷の庄屋がいないと、皆が不安がるやろうし」
草太はいま、彼らとは反対の方向へ歩きだそうとしている。
お妙ちゃんの様子を見に行くためだ。
祖父は草太を気遣わしげに見たが、孫にかかわりのあった女童が大怪我をしたと聞いて、様子を見に行くように言ったのは祖父自身だった。孫がその凶報に顔色を失っていたのを見かねたらしい。
本当は見舞い先にまで同行するつもりだったようだが、公と私は線引きしなくてはならない。大原郷復興作業は『公』であり、お妙ちゃんの見舞いは『私』である。被災者には、頼りになる庇護者の姿が目に見える場所にあるべきだった。
「帰り道は気をつけるのだぞ」
「うん」
草太はひとり、寺へ向かう方向とは反対に歩きだした。歩みはすぐに、小走りほどの駆け足になる。
足元には、うっすらと雪が積もりだしている。何人か村人とすれ違ったが、お妙ちゃんの家族ではなかった。
たいていの人が安心を求めてコミュニティの集合場所へと向かっているというのに、お妙ちゃんの一家は姿が見えない。動く気がないのか、それとも身動きがとれないのか。
怪我人はたくさん見た。軽い怪我なら、むしろ救護を求めて集合場所の普賢寺に足を運んだであろう。死人もあったらしいが、幸い草太はまだそれを直に見てはいなかった。
大怪我だと言っていた。
なら、死んではいない。
だけれど、普賢寺に運んでこないということは、動かすこともままならない大怪我で、家族が皆つきっきりになっているということ。
大怪我?
あの力強くて闊達な少女が、大怪我で寝ついている姿が想像できない。
この地震の怪我人は、ほとんどが家の倒壊に巻き込まれたものだ。木造の平屋、しかも瓦も載っていない軽い屋根であるから、倒れる瞬間はずいぶんとゆっくりしたものだったはず。身動きが俊敏なものなら、草太自身が窯の傍で屋根の倒壊から身を逃れさせたように、倒れてくるものをよく見ながら逃げ出すのはそれほど困難ではなかったはずだ。
考えれば考えるほど、思考がマイナスに陥っていく。
振り払うように首を振ったところで、お妙ちゃんの家が見えてきた。ここはちょうど、草太が次郎伯父と池田町屋に向かう途中、高田の窯の煙を見た場所の近くだった。前世的に言うなら、JRの小泉駅の付近であるだろう。
その家は、横倒しになった地蔵たちが痛ましい、小さな坂を下ったところにあった。
見た瞬間に、顔を手で覆った。
お妙ちゃんの家は、見事につぶれ果てていた。
横合いの草むらから、逃げ出したのであろう鶏が飛び出してきてぎょっとしたのもつかの間、川に水を汲みに出たのだろう人影と目があった。
あの馬の死体引き上げ騒動のときに、手伝いに来てくれたお妙ちゃんの兄だった。
名前は聞いたことがなかったが、大きな体つきが彼女の兄妹であるほほえましい特徴といえただろう。にきびをつぶしたようなあばたの顔が、彼の顔を見て苦虫をかんだようにゆがめられた。
「…おせえよ」
小さく、吐き捨てるようにつぶやいた。
家に近づくと、さめざめと泣く声が建物から染み出てくる。草太はその瞬間、全身がしびれたように動かなくなった。
泣き声は、つぶれた母屋ではなく、農機具小屋のほうからだった。彼の生家と同じく、小さな小屋のほうが倒壊をまぬかれたらしい。
「おまえのこと……ずっと呼んでたんやぜ」
なに?
なんなの? ちょっと待ってよ。
ぐっと唇を噛んで、草太は睨んでくる兄の横を通り抜けて、無事だった小屋の入り口に立った。
膝が震えていた。
「あっ、草太様…」
顔を上げたのは母親と思しき人。まだ面識はなかったが、あっちは彼のことをよく知ってるようだった。
すがるような眼差しで、家族たちがひしめく寝床の一角を彼に明け渡すべく立ち上がった。
その様子に気付いたお妙ちゃんの家族が、ぱっと顔を上げた。
よろよろと歩み寄る彼にはばかって、場所を開ける。そこに変わり果てた姿で眠るお妙ちゃんの姿があった。
「…草太様に、握り飯を届けてきたって、あんなにうれしそうにしていたってのに」
お妙ちゃんの差し入れてくれた大きなおにぎり。
それをあんなに味気なく食べていた自分をいまここで絞め殺してやりたい。
お妙ちゃんの頭には包帯が巻かれ、出血はそれほどでなかったものの頭部の傷害がどれほどのものか見た目では判断できないことを彼は知っている。
まだ、お妙ちゃんの胸は、弱々しく上下している。
生きているのだ。
生きている…。
最悪の事態ではなかったものの、様子を見れば分かる。もはや彼女の魂は、意識の奥深くに沈んで浮上することはない。昏睡している。
容態はどうなのだろう。なんで自分は、脳外科の医者とかじゃなかったんだろう。なんで治癒魔法とか使える転生チートキャラとかじゃなかったんだろう。
「お妙……草太様が来ていらしてくれたよ」
「目ぇ覚ませ、お妙…」
自分にはなにも出来ない。
彼女を救うには、確かな腕の医者が必要だ。
(医者…!)
大原郷には、薬草を煎じる老婆が幾人かいるぐらいで、医者のような特別な技術者はいない。いるとすれば旅籠町の池田町屋か、人の多い多治見郷あたりだろう。
池田町屋なら、次郎伯父がいる。次郎伯父なら、いま普賢寺で被災者たちの世話をしているはずだ。専門に医者にかかれば、あるいは…。
「すぐにお医者様を…!」
立ち上がろうとした草太であったが、その肩を上から押さえたのは先ほど外ですれ違ったお妙ちゃんの兄だった。
「もう掛け合った! 貧乏人の家にゃあやつらはこねえさ!」
「それなら林の名で…」
「あんたが治療費を払ってくれるってのか。そんな大金、あんたに右から左できるのかよ!」
治療は、おそらく途方もない額になるだろう。
しかも外科的な治療技術がないこの時代の医者を呼んでも、薬か何か処方するだけで「あとは体力しだい」とか無責任なことを言われかねない。金額云々よりも、脳の傷害をどうにもできないだろうことのほうが問題だった。
「それによ」と、兄は力なく言葉を継いだ。
「頭の傷は難しいってさ……蘭学の名医でも連れてこねえと無理だってさ! 蘭医とかって、江戸とか長崎にしかいねえんだろ!」
草太は混乱したまま布団の外に出ていたお妙ちゃんの手を握った。
まだ暖かい手だ。おっきい、彼女の心の広さを現したような手だ。
指をからめたら、おそらく条件反射なのだろう、お妙ちゃんが握り返してきた。ぎゅっと、二人の手がつながった。
繋いだ手の上に、涙のしずくが落ちた。
自分のものか、それともお兄さんのものか分からない。
しのつく雨のように次々に、繋いだ手が濡れた。