036 神童現る
安政東海地震があったわずかその二日後、再び大きな余震が多治見の大地をおののかせた。
体感震度は、3ぐらいだろうか。大原郷救援隊(レスキューって言っても誰も知らないし)の活動が始まって半日ほど経ったころのことだ。
余震、というよりも安政南海地震という本震の余波がここまで届いた、といったほうが正しいのかもしれない。震源域からそれなりに距離があるためいささかたかをくくっていた草太であったが、地揺れとともに半狂乱になった村人たちに指揮役の彼もおおいに慌てだした。
「大丈夫だから! もう家がつぶれるような大きなのは来ないから!」
叫んだところで、誰が信じてくれるわけでなく。
草太の傍でも、泰然自若が服を着ているような祖父が珍しく若干腰を引かせていたりする。大地震が村人に残した心的外傷はかなり大きいようだ。
「…本当に、大丈夫…なのか」
「しばらく小さな地震は続くだろうけど、もうあんな大きいのはこないと思うし。…ああっ、あんなに取り乱しちゃって! はやくみんなを落ち着かせて作業を再開させないと」
「小さいのは……続くのか」
「池に石を投げ込んだときの《波紋》みたいなもんだから。…ええっと、その、蔵の資料! ちょっと前に蔵の本で読んだことがあったからさ! 大昔の地震について、小さいのがしばらく続いたって書いてあるのがあったから、それを言ってるだけで」
「…そうか、本で知識を得たのだな」
ややして立ち直った祖父が草太の意を汲んで、散り散りになりかかった村人たちを一喝してくれた。大原郷での祖父貞正の権威は相当なものである。
「地揺れというものは、大きいのが起こるとしばらく小さい揺れが断続的に続くといわれている。心配はいらん! 落ち着いて足元を確認してみるんだ。もう揺れは収まっているだろう」
「し、深呼吸! みんな大きく息をしてみやあ!」
率先して、草太は幾分大げさに両手を伸ばして深呼吸を開始する。
すーっ、はーっ。
シンコキュウという単語は知らなくても、朝起き出したときに大きく伸びをして、新鮮な空気を肺に取り込むなんてことはみなが日常的にやっていることだ。
言い出したのが庄屋のかわいがってる孫ということもあり、様子をうかがいつつその場にいる全員が深呼吸の真似をしてくれる。エアリーディングは日本の村社会で必須の能力だよね、やっぱり。
どうやらみなが落ち着いたようなので、今後も同じことがないように地震知識を周知化する。
「大きな地震はほとんど遠州沖の海のほうからやってくるって昔の学者が本を書いてる。ここは海からずっとなかに入った内陸の土地やから、もうあんな大きな揺れはきっとこんと思う」
昔の学者とか、けっこういい加減な捏造を口走ったが、もともと本など接したこともないような田舎の人間にそんな疑問を突っ込めるわけもなく。案外あっさりと納得してもらった。
「さすがは『秘蔵っ子』なんて呼ばれるだけのことはあるわ。庄屋様があんなに自慢していたのも納得やなぁ」
「まだ6歳(数え)やのにほんとに賢いなぁ。神童、ちゅうやつかね!」
「えらいちっさい学者様やな!」
自分たちの慌てっぷりがやや恥ずかしかったのかもしれない。誤魔化すように皆で笑い飛ばして、ふたたび復興作業に取り掛かった。
草太はいま大原沿いの復興を担当する《ろ組》についてきている。柿の木畑の伊兵衛宅は郷の北側にありこの組の担当エリアに入るからだ。
お隣のおつるさん宅のほうも心配なのでこの組に帯同したのだが、何か期するものがあるのか祖父の貞正様も一緒についてきた。
彼がどこでとっぴな発言をするか分からないので、その後見的な立場に身を置くつもりなのだろう。その祖父のサポートをおおいに当てにして、草太はいろいろと大胆に行動を差配した。
「家の引き起こしの手順はまず大まかな瓦礫の除去! とくに屋根材を先にどかして家の支柱を最優先で掘り出して! 柱がみんな露出したら、全員がかかりで一斉に立ちあげる! 人数で柱を立てているあいだに、横木をはめて躯体(建物の強度を形成する構造体)を完成させる!」
建築は専門外だが、マンション強度偽装事件で揺れた国の人間であれば、とくにからくり好きの男に生まれたとあれば、それなりに建築知識は生半可に頭に入っている。しかもこの時代の家は恐ろしいほどシンプルな作りなので、指示が出しやすかったこともある。
「躯体の柱のあいだには、確実に筋交い【※注1】を入れて! それが柱の構造ががっちりと締まるから! 釘は予備があんまりないから、できるだけ瓦礫のなかのを再利用してね! …あと女のひとたち! こっちに集まって!」
家の建て直しなどの力作業には男しか参加できないようにも思われがちだが、この時代の女性の備えた勤勉さを有効活用しないわけにはいかない。
「おねえさんたちには、撤去した瓦礫の下から、食料品を掘り出してください! 家の人はそのありかを教えてあげて! 水に漬かって腐らせる前になんとか掘り出してください!」
この時代で幸いだったのは、火の気がなくて火災がほんの少ししか起こらなかったことだ。どの家でも冬を越す食糧の備蓄はそれなりにあったから、まずそれを確実に確保することが大原郷生き残りの必須問題である。
男たちが大まかに瓦礫を撤去すると、押入れの奥や竈近くの縁の下などに、漬物やら干し大根、かぼちゃや冬瓜なんかがごろごろと出てくる。米なんかはたいてい離れの小屋などのなかから見つかってくる。
食料が見つかるたびに、家の住人たちから明るい歓声が上がった。
そうして人数がかりで躯体を作り、その上に全体を引き締める梁を据え置くと、あとは屋根の外形を復旧させるだけだ。
棟を作る三角を大きく構築してから、もともと屋根材であった瓦礫から無事な垂木を掘り出しては屋根上の男に渡していく。若干支えの垂木が少なめだが、ある程度で見切りをつけて屋根を葺いていく。むろん板葺だ。材料が足りなければ雨戸でも何でも代用する。
屋根さえついてしまえば、後の壁ぐらい比較的容易に家人だけで復旧できる。レスキュー隊が手をつけるのは、人数がいないと無理なパートのみである。
一軒をそれなりに復旧するのに、2刻から3刻(1刻は2時間)ほどかかるため、組のノルマはだいたい日に2軒程度である。
大原レスキュー隊は全部で4組、1日で8軒が復旧できることになる。
単純計算とはあんまり褒められた話ではないが、大原郷の有人家屋は40軒あまりなので、5日間がんばれば村人全員が家を取り戻すことができる。
「あのぼうず、ほんにただもんじゃねえな」
ぼそりと、つぶやきが聞こえた。
首筋の汗を拭っていた草太は、一瞬びくりと身をすくませた。
「ああ、ほんまやなぁ」
「普賢寺の和尚がいっとったけど、まさに《鬼っ子》やな! うちにも同じぐらいのガキがいるけど、まだ寝小便たらす洟垂れやぞ」
「噂どおり、天狗の子かもしれへんな」
「普賢下の林様は、これから身代をずんとおっきくしてくんやろな……あの年であの学があるんなら、将来はとんでもねえ大学者かもしかしたら大商人にでもなっちまうんじゃねえか」
ひそひそ。
作業で汗を掻きながらの会話が彼の噂だった。
この時代に生まれたとはいえ、同時にこの時代の人間ではないという余所者の自覚もある。少しやりすぎたかな、とも思う。
だがそのときぽんと頭をなでられて、見ると祖父が気にするなと小さく首を振っている。
(臆することはない。おじいさまが後ろ盾になってくれている間に、林家は幕末の奔流に向かって準備よく泳ぎださなきゃ時代に埋没する。…まだこの体は5歳でしかないけれど、動き出さなきゃきっと出遅れる。時間は決して止まってなんかくれない)
幸運の女神は前髪しか掴めないものだ。
先見の明があるもの、先駆者であるものしか大きな成功はきっと望めない。
自分はいま動き出すのだ。まずは村人たちに一目も二目もおかせねばならない。
腹に力を入れたそのとき。
「地蔵坂の与一はもう自分とこの娘を売り込んどるらしいぞ」
「そりゃまた見る目があったのう! 与一の娘って、あの大怪我したっていう大柄な…」
ばくり。
心臓が撥ねた。
そういえばお妙ちゃんの姿をまるっきり見てない。
大怪我?
ぐらりと草太の視界がゆがんだ。
【※注1】……筋交い(すじかい)。建物の柱と柱の間に入れられる斜めの柱。これが入るだけで強度が驚くほど高まります。