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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【外交闘争編】
287/288

024 花押






 いつのまにか眠っていたようだ。

 染みの多い天井を見上げた颯太は、身体が重いことに気付いてもぞもぞと布団の中で身じろぎしようとした。

 その口に水で濡れた手巾を当てられた。わずかに口の間に入ってきた水が、激しい渇きを思い出させた。颯太の手が手巾を当てている何者かの手を掴んで、自分のほうへと引き寄せる。手巾を直接口に含んで赤ん坊のように無心に吸うが、むろんのこと満足な量の水が得られない。

 誰かが笑い声を上げた。

 そうして手巾が強引に奪い取られ、代わりに硬い何かが口にあてがわれた。

 そこから一気に流し込まれた水に思わず一度むせて、やってきた明瞭な覚醒感に目を見開いた。目の前にあった湯飲みを両手で捕まえて、むさぼるようにその中の水を飲んだ。

 なんという旨い液体だろう。

 飲み終えたあとに口の中に残った香りから、それが薄い茶であることがようやくにして分かった。


 「…やっと目を覚ましましたか」


 どこかほっとしたような声。

 そちらのほうを見ると、見覚えのある顔が並んでいた。

 ひとりは気が抜けたように背を丸めた小栗様で、いまひとりは下勘定所で世話になっている渡辺様かと思う。建物そのものから漂う年季の入った家屋のにおいが、そこがどこであるかを教えてくれた。


 (ああ、今日の出発地点に戻されたのか)


 そんな風に颯太は思った。

 老中会合という名の大プレゼン大会の日、小道具を抱えた颯太たちは下勘定所から御殿へと出発したのだ。勘定奉行の水野様がチームに含まれていたこともあり、便宜上深夜の準備作業もそこで行われていた。颯太自身も勘定所に席をおいていることもあり、そこはいわばホームのような場所でもあった。


 「前日からの徹夜に続いて、あの面々を前にした長口上でした。…陶林殿の普段がアレなものですから、ついついそういうものなのかと油断しすぎておりました。まあ冷静に考えて普通の童がやりとおせる仕事の量ではありませんでしたね」


 伸びをしてから、小栗様は隣に坐る渡辺様に会釈して、勘定所でヘビーローテされている急須を渡してもらうと、ほとんどお湯と変わらない出涸らしのお茶を自分の前の湯飲みに注いだ。

 あの極薄の茶が、いまさっき飲んだ水の正体であったようだ。渡辺様と仲がよくなったのか、互いにお茶を注ぎ合ったりしている。


 「目が覚めたのならもうひと安心ですが、念のためいましばらく安静にされることをお勧めします」


 颯太は自分のそばでお茶を飲ませてくれた人物を見、それが身なりのきちんとした医師であるのを知って軽く驚く。聞けば颯太が御殿で倒れたために、若年寄の誰かが表番医師を呼んだのだという。

 その場で寝かせるわけにもいかなかったので下勘定所まで運ばれ、医師もそのまま付き添ってきていたのだ。颯太のようなぎりぎり旗本程度の軽輩に医師がつくなどなかなか想像もつかないことではあったが、老中会合の出席者たちからしっかり面倒を見よと、その場の勢いというか流れで申し付けられたということもあったようだ。

 疲労回復によいという薬湯まで用意されて、その医師は辞去していった。

 颯太はまだ喉の渇きを覚えていたので、枕元にあった薬湯を湯飲みに注いで口にしたが、そのあまりの苦さに急いで一気飲みして、空になった湯飲みを小栗様のほうに差し出した。

 無言の「お茶プリーズ」に、小栗様が苦笑しつつお茶を注いでくれる。

 そして颯太が寝込んでいる間にこの下勘定所が、まさに『千客万来』であったと教えてくれた。体調が優れなかったであろうに阿部様がやってきたばかりか、その老中仲間がぞろぞろとついてきて、すっかりと寝入っている颯太の顔を面白そうに眺めたりしたらしい。

 そのあたりから「もう一度顔を拝んでおきたい」という出席大名の多くが、見舞いの順番待ちで廊下にまで並んだとか。驚く颯太の顔を見てほくそ笑んだ小栗様が、懐から畳んだ紙を取り出して、はらりと広げた。


 「…いろいろと要望もされましてね。陶林殿を短期でよいからと招聘したいと願い出た大名の一覧です。なかには経営の苦しい御家もあったのでしょう、参政(家老)としてでもかまわぬと申す方もおられましたよ。…どうです、わたしなりにお勧め順に並べてみましたが」

 「………」

 「…ああ、伊勢守様でしたら、面白そうだから伝えてやれ、と申しておりましたよ」

 「…ああ、そうですか」


 一気に力が抜ける颯太である。

 なんとなくその紙をつらつらと眺めていると、下のほうにいくつもの『花押(かおう)』が並んでいた。これは明らかに本人の自署なので、申し出にうそ偽りはないという証のつもりでサインしたのだと想像できる。

 もっとも、申し出リストの数よりも少ないことから、一部の誇示して恥じることのない有力家のものだけなのは察せられた。

 むろん『花押』の鑑定などできないので、小栗様にその人物の名を聞くと、真ん中が水戸の老公、斉昭公のもので、その右隣に尾州公、薩摩藩の斉彬侯、宇和島藩の宗城侯と、4つ並んでいる。

 むろん、話を受けるつもりはさらさらないし、うちの派閥の『領袖』が受けさせてもくれないだろう。一気に疲れが戻ってきて、颯太はぱたりと布団に倒れこんだ。


 「…もう寝ます」

 「ああ、それがよいでしょう。わたしもそろそろお暇いたします」

 「…陶林殿、何かあれば宿直(とのい)の者がおるゆえ、遠慮なく声を掛けてくだされ」


 小栗様が腰を上げると、渡辺様もそれに倣った。勘定所という場所柄、客がいるあいだはホストに徹してくれていたのだろう。

 ふたりが出て行き、急に静かになった部屋の中で、颯太は静かに天井を見上げた。はたしてプレゼン自体が成功したのかどうか、確信のようなものは意外にも颯太の中にはなかった。人に何かを伝えるという行為が、実は恐ろしく難しいものであるということを知っているがために、都合のよい結果を妄想するようなことはしない。

 紙のリストに、水戸藩が颯太を招きたいという意向は示されていなかった。ただ老公の『花押』が自署されていただけである。それをどのように解せばいいのかと、颯太はつかの間思案した。

 すでに以前、水戸藩に招かれて、それをはっきりと断っている。そういう流れでいけば、『花押』だけ書かれていたということは、伝えたかったなにがしかのものが、老公の心に届いたのだと信じてよいのかもしれないと思う。

 しかし最後の最後、一番大切な詰めの段階で体力の限界が来てしまうとは、なんともやりきれない。もしもそこで場の流れを掴んでいたならば、これでもかとばかりにぐいぐいと攻めて、一気に土俵を割らせるのがいつものやり方だというのに、実にもったいないことをしてしまったと思う。

 清貧を尊しとするだろう人々相手に、「銭、銭!」と押し捲ってしまったのが吉と出るのか凶と出るのかは分からない。あの紙を見る限り、反応はけっして悪くはないのだろうと思いはするのだけれども、逆に言えばそれ以外の、溜詰(たまりづめ)の譜代大名たちは誰一人食いついていないわけで、元来開国派が多いと思っていた彼らからの前のめりな反応がなかったことがものすごく気にかかる。


 (…歴史に残ってる『開国派』が、実は政治的な条件反射のみで生まれただけだという恐ろしい話だけは聞きたくないなー)


 幕末に向かって経済的、政治的に力を増していく外様雄藩に対しての、そのおのが力を信じての保守思考に対して、やっかみ半分で『開国』を主張していたなんてことがないように、もはや祈るばかりであった。

 颯太は迷いを振り払いつつ目を閉じる。

 そして眠りに落ちたという自覚もなく、夢の中で海を渡っていた。

 風をはらんで張った帆は、大海原を割くように陶林商会の大船団を東へ向かって進ませていく。

 なんだ、千石船だって遠洋余裕じゃんか!

 暖かな潮風を頬に受けて、颯太は破顔したのだった。


『陶都物語』2巻がいよいよ発売となります。

多治見市にあります『市之倉さかづき美術館』様でも本を並べていただけることとなりました。読者プレゼントを用意していただいた『幸兵衛窯』様も美術館近傍に工房を構えておられます。(というか、美術館の敷地そのものが幸兵衛窯様のものらしいです) 《根本新製》のデザインの着想などはこの美術館を訪れた際に得たものが多いです。ご興味がございましたら是非お立ち寄りください。


本がなかなか売れない難しい時世であります。

どうかご支援賜りますよう、伏してお願い申し上げます。


(5/24)

活動報告が上がっております。

プレゼントの詳細などもそこから見れると思いますので、一度ご確認お願いいたします。

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