017 扇子の一撃
2017/06/17 改稿いたしました。
さあ、やるからには全力を振り絞らねばなるまい。
この『開国案件』のゴール地点は見えているのだから、そこまで参加者たちの意識を誘導してやればよいのだけれども……この時代の幕閣がこと外国事情に関しては驚くほど無知であることは確定しているので、それをある一定の水準まで、共通の理解を抱き得るまでに底上げすることが最大の関門となるだろう。
気持ちの上では、そうだな……時代に取り残されたような山間部の村の集会所で、将来を憂う老人たち相手に、観光客を集める村おこしをレクチャーするイベント会社の営業……そのぐらいの設定でよいだろうか。
ぱっと見で分かりやすく、説明は端的かつキャッチーに。
そして放置すればやってくる残酷な『現実』をどれだけ効果的に印象付けられるか、そのあたりが肝となってくるだろう。
「…というわけで皆様。形だけでもよいのでそれがしとともに場に同席いただいて、ぜひ説明の進行にご協力いただきたいのですが」
なにが「というわけ」なのだと胡乱げにこちらを見てくる派閥の先輩たちに、多大な決意を込めた強い眼差しをきっと返して、颯太は正座したまま居住まいを正した。そして視線の低さから後ろのほうの人が見えないのに気付いて、束の間迷った後、よっこらせと立ち上がる。
「ご協力が是が非にでも必要なので。それがしのような軽輩があろうことか幕閣のお歴々相手に、直接ご説明差し上げねばならなくなったのです。貫目不足を補うこともそうですが、なによりそれがしのような子供が『大事』の責任を一身に背負うような恐ろしいことが現実とはならぬよう、皆様方には心頼もしい風除けになっていただきたいと切に願う次第であります」
「抜け抜けと……われらに『風除け』をせよと」
「それがし、陶林颯太がひとりで事に当たるのではなく、伊勢守様肝いりの『ご説明部隊』が複数人で対応することで、万が一の……正確に申すならば二つに一ほどの『大火事』になった場合の責任を、できる限り薄めておきたいのです。…というか、それが担保していただけないのならば、このお役は分不相応であることを理由にご辞退させていただきます」
「…いや、おぬしの一存で辞退できることでは」
「そうだぞ、この期に及んで…」
「聞き入れていただけぬ場合は、そこの柱におのれの身を括りつけてでも、登城を拒否いたします。いやです、動きません」
「………」
空気に流されず、NOと言える7歳児なのです。
このクソ坊主が、と苛立ちスイッチが先輩たちに入ったのを感じはしたけれども、ビジュアル的にはいたいけな7歳児の歳相応の駄々であるので、まともに怒り出すのも憚られたことであろう。こどもとっけんというヤツだ。
まあたしかにここに集められた派閥の先輩がたはどなたもエリートであり、忙しい身の上であるのは間違いない。予想外のことで多大な時間をとられそうだとあれば全力で抵抗してくるであろう。別の場所であれば、颯太もそのような抵抗は早々に諦めたであろうが、ここにはすべての理屈を一撃で吹き飛ばせる存在が鎮座している。
「よかろう、それでおまえの舌のすべりが良くなると言うのならばな」
にやり。
内心の笑みがこぼれぬように腐心する。
阿部様の鶴の一声で、文句を言いかけた先輩方が「うっ」と、寸前で飲み込んだ。「伊勢守様」と小さく叫んだのは勘定奉行の水野様だ。根回し巧者の『屏風水野』としては、その先で起こり得る派閥全体に対する危難が想像できたのだろう。
しかし数々の幕政改革を断行してきた老中首座、阿部伊勢守のその決断力は凡百の政治家が束になってもかなうものではない。
床几に肘をついて、面白そそうにこっちを見てくる阿部様に、ああこの人は説得が失敗するなんて露にも思っていないんだと確信する。天狗の神通力があればどんな局面だろうときっとひっくり返るに違いないと、面白い見世物でも待つような気軽い雰囲気さえあったりする。
これはかなり、おそろしい。
「…明日の会合までは、すべてに優先してこの『天狗』の望みを叶え、その絵に描いた『餅』を意固地なあの者たちの口にねじ込んでやるために協力してやるがよい」
阿部派一同の進むべき方向が定められた瞬間だった。
よっしゃ、風除けゲット。
無茶振りを受ける代わりに最低限のセーフティネットを領袖の口から引き出した。これだけのエリート集団がサポートに回れば、どんな局面になったとしてもなにがしかの出口を口八丁で確保してくれるだろう。
「…それではまず伊勢守様には大量の紙と藩の右筆を集めていただきたく」
かくして阿部一派の長い夜は始まったのだった。
***
その日、御城(江戸城)は朝から不穏な空気に包まれていた。
新型大砲の確保で台場陣地の堅牢さが飛躍的に向上したとの確信を得た幕閣が、それまでの南蛮列国に対する弱腰姿勢を改めようとしているとの噂が城内でまことしやかに拡散していた。
そして下田に押しかけてきたアメリカ使節、タウンゼント・ハリスとの外交交渉が、その幕閣の『強い意向』に沿って行われ、嘘かほんとか交渉が『優位』に進んだなどという風評、そして噂好きの茶坊主どもが所構わず吹聴するのを水戸の老公がきつく叱責したという噂……そして『風向きが変わり始めた』と誰もが感じ始めていたところに起こった緊急の老中会合の話は、当然のことながら人々の耳目を集めずにはおかなかった。
「…掃部頭様がこのような朝早くから」
「すでに水戸の老公も先乗りされているらしいぞ」
「下馬所が総登城並みにすごい混みようですな。例の会合はそんなに早くから開かれるので?」
「今日ばかりは偉そうなお付きたちも、他家の顔色をうかがっておとなしゅうなっておるわ」
「また輿がひとつ入っていったぞ。ご老中様がまたひとり…」
大手門前は登城する大名たちの家臣の大半が残されるために、時間帯によっては人だかりが出来やすい。今日はとくに登城する大名が多いらしく、まだ早めの時間であるというのにすでに混雑が始まっていている。
まだ夏の暑いころのことなので、人々は日差しを避けつつ、自然と石垣の日陰などに集まるようである。格上の大名がやってくれば必然的に順番を譲ったりもせねばならないので、弱小家などは殿様ともども結構な時間待たされている。
さて、今日行われるという『緊急老中会合』にどのような面々が集まるのか、実際に推し量るにはこの場所で観察していることが一番であったりする。
どこのなんという大名が登城しているのかが一目瞭然であるうえに、何々家の用人が何々の事情に詳しいなど集まる人の分だけ情報も飛び交い、その蒐集にはうってつけであったからだ。
『下馬評』などという言葉の由来も、この大名たちが下馬させられる場所に由来しているぐらいである。
その混雑ぶりを颯太が徹夜明けの目を擦りながら眺めたのは、下勘定所からである。福山藩上屋敷で『発表』の小道具準備を終えた颯太たちは、夜中のうちに大手門内の下勘定所に移動し、じっくりねっとりと今度は会の流れをさらうリハーサルに専心していた。
この下勘定所は御城に入ったすぐの場所、大手門内にあったりする。まさに下馬所のまん前で、喧騒を眺めるに最高の立地だった。
「…もうそろそろわれらも御殿に移らねばな」
「徹夜は体に応えるわ」
若干お年を召した方たちも混ざっているので、ぼやきも耳に届いてくる。
せめてもの心遣いにと、カフェインと愛情多めの特濃モーニングコーヒーを皆に振る舞った。水野様辺りはそんな心遣いをありがた迷惑そうにしかめ面していたものの、岩瀬様や小栗様あたりは「飲めば目が覚めます」という効能を聞いて、躊躇なく苦い液体を流し込んでいた。
プレゼンテーション大会の下準備というのは、荷物が多くなるのが当たり前なので、それぞれに分担分を抱えて、三の丸喰違門経由で御殿へと移動する。
エリートぞろいの阿部派閥の面々は、みなが旗本としての顕職についているため、自ら荷物を抱えての移動という風景は傍目には珍しかったのだろう。そこここで指を差されてなんとも落ち着かない楽屋入りとなった。
案内された控室は、先日永井様と待たされた部屋と同じであった。ぞろぞろと廊下を歩く間も、ときおり長袴の裾を払って歩く大名の一団とすれ違った。その向う先からおそらくは老中会合出席の大名なのだろうと当たりは付くのだけれども、当然ながら名前までは分からない。廊下での無駄口も厳禁されていたので、通り過ぎる時は壁際によって案内の若年寄以外は黙って平伏した。
そんな控室までの移動の間に、偶然が作用したのか記憶に鮮烈に残る異様に目力の強い人物とも顔を合わすこととなった。
そのときも無言で平伏したのだけれども、相手がスルーしてくれなかった。
「生きて帰ったようだな、小僧」
言わずとも知れた人物。
徳川斉昭公である。
無駄口は叩けないので、ただただ黙っているしかない。しかし老公のほうは絡む気満々のようで、一団が持っている『荷物』にいちいち興味を示して、厄介この上なかった。
「…これは何かの趣向と見えるな。楽しみにしておるぞ」
床を見ていた颯太の後頭部を、老公の扇子がびしりと叩いた。いちいちミートが利いているので、おでこがごつんと床にぶつかってしまった。
くそっ、めちゃ痛てー。
いい音がしたことがおかしかったらしく、ぷふっと老公の失笑が漏れた。
「儂を説得してみせるのだな」
やってやろうじゃないか。
颯太の中の闘志に、そのとき火が入った。
たくさんの感想ありがとうございます。
今日、多治見市の図書館『まなびパーク』に献本させていただきました。