015 下田会談④
たくさん感想いただいていろいろと刺激をいただきました。
頑張りますので今後ともよろしくお願い申し上げます。
アメリカ全権であるハリスに、決定権がないはずがないことを颯太は知っている。そう知っていることがここでは重要だった。知識チートとはまさにこうあるべきものなのだ。
史実でこの次にアメリカと締結されることとなる条約、『日米修好通商条約』はまたの名を『ハリス条約』とも通称される。その取りまとめに常に主導的役割を担ったのがまさしくこの男なのである。和親条約の内容について解釈の幅を持たせることぐらい……そのぐらいこの男にできないはずがないのだ。
「…実際にその目で江戸の防備を確かめてからでも良かったのではないですか? 海防は万全だなどと、未開な東洋人のたわごとであるやも知れないというのに」
「…先ほど件については、なんともその、ご容赦していただきたく」
「…まあ、武力行動を手控えられたのは賢明なご判断であったとそれがしも思います。…万一にも砲火を交えてしまえば、もはや後戻り出来なくなるところでした」
「…貴国がすでにあのイングランドと、軍需品の供与を得られるほどに関係を深めているなどとはまことに驚かされました。なるほど、アジア進出にいろいろと熱心な彼の国ならば、そのような『大胆な接近』の図り方をすることもあるのかもしれません。…差し出がましいことをお聞きするようですが、貴国とイングランドとはいつ頃から…」
ハリスの中でいま爆発的に広がっている不安のもとを察して、颯太はさらにその心を揺さぶるべく言葉を選ぶ。
むろんイギリスと軍事協力を行っているなどという事実はなく、純粋にハリスらの誤解であった。誤解すべく誘導しているのは事実であったけれども。
「さあ、そのあたりは極密のことでありますので…」
(…いっそのこと例のモンスタークレーマー案件、『イギリス商船襲撃』事案についても対処しておくか)
煙に巻きつつ、ほくそ笑む。
独立戦争以降疎遠になっているだろうとはいえ、アメリカの元宗主国に対する愛憎半ばする執着は長らく続くものであるし、念のため楔の一本でも打っておいたほうがよいような気もする。
少し迷うようなためらいの間を取りつつ、欺瞞という見えない楔を彼らの心にあてがい、素早く鎚を振るう。
「貴国もすでにお知りのこととは思いますが、英吉利国とは先年、貴国同様の和親条約を取り交わしております。それがしはその交渉とは縁がなかったのでありますが、伝え聞くところ英吉利国は貴国のアジア進出に大変な憂慮を示していたとか」
別にそんな話はまったくなかったんだけども、しゃあしゃあと語り出す。
アジア利権を可能な限り食らい尽くそうとイギリスが盛大にやらかしていることは世界で知らぬものなどないし、彼の国がドン引きするぐらいえげつないやり方で敵陣営を引っ掻き回す、政治駆け引きがご自慢のお国柄であることも有名であった。
ならばこちらが引っ掻き回しておいても、全部イギリスのせいになる可能性が極めて高い。身から出た錆に苦しんでもらおう。
「…しかし付き合いのなかなか難しいお国であることは間違いないですね。ときおり意味の分からない言いがかりを……ああ、いえ、これはさすがに言葉が悪うございました。文化の違いからか分かりづらい文句を言われることがございまして…」
「なにか彼の国のやりようにお悩みがありそうですな? それならば我が国があいだに入って…」
「…いえ、貴国に御迷惑をおかけするのもおかしな話なので」
「どうぞご遠慮なく……あちらの国々ならではの解決法もございましょうし、先ほどの件のお詫びを兼ねまして、我々にぜひ骨折りさせていただきたく」
「…はぁ、そこまでおっしゃっていただけるのでしたら……申し上げにくいことながら、先日彼の国の申してまいった寝耳に水の案件について、趣旨がいまひとつ不明でどう取るべきか幕府でも議論が起こっているのですが……実は」
颯太のやや見上げる目が、室内の限られた外光を映して青白く輝いた。
そのときつぶやいた颯太の声はほとんど囁くような大きさで、テーブルを囲んだ限られた人間の耳にしか届かなかった。
颯太の唇が動く。
万次郎がそれを拾い上げ、英語に訳する。
「イングランド船籍の船を、貴国の船が襲撃した、と」
「すでに周知のこととは思いますが、我が国の船は大船建造の禁が解かれたばかりであり、小型かつ鈍足……しかも武装さえ満足にありません。そのような非力な船が武装する英吉利国船を襲撃したと申すのです。まさに荒唐無稽と申すべき言いがかりなのですが…」
「………」
「…少し前に書状が届きまして、賠償金を請求すると……意味さえも分かりかねているところに使者の方から口頭での申し送りもありまして……亜米利加国との取引をこれ以上進めるのならば、容赦はしない、と」
口にした颯太以外、日本側出席者たちはきょとんとするばかりの話であったのだけれども……アメリカ人たちの反応は劇的だった。
この時代のアメリカはモンロー主義と呼ばれる孤立政策を継続的に行っている。ボストンで起こった茶会事件を端緒に、アメリカ人たちの紅茶文化が急速に衰え、コーヒー党が大勢を占めるようになったように、移民たちの祖国ヨーロッパへの文化的経済的依存が急速に弱まっていく時代であった。
アメリカ南北大陸以外の土地に関しては不干渉を貫くこの政策の核心的意味は、「だからおまえらもこっちの大陸にちょっかい出すなよ」という、アメリカによる自大陸縄張り宣言でもあった。台頭するアメリカとの摩擦を嫌い、イギリスはインドから中国へと植民地政策を東進させていた側面もあったろう。
アメリカは孤立主義を標榜することで、南北アメリカ大陸の利権を独占した。
それを黙認したイギリスから言わせれば、このような言葉が飛び出してもおかしくはないのだった。
『…ならなんで日本に手ぇ出すんだこの野郎』
アメリカの反則行為に対しての彼の国の『意趣返し』が、陰で行われていたとて何ら不思議なことではなかったのだ。
そうそう、考えろ考えろ。
その内容が染み渡っていくにつれ、アメリカ人たちの顔色が急速に悪くなっていく。イギリスのよる日米離間策が動き出しているという解釈が、揺るぎない真実として彼らの中に定着していく。
そんな馬鹿なと吐き捨てるように悪態をついているアームストロング氏に、颯太は目を細めながら続けたのだった。
「…お耳汚しをしてしまいまして、失礼いたしました。その件についてはまた後ほどということで……ではこれより、本来の目的である条約文についての交渉を再開することといたします」
***
その後の交渉がどのように進んでいったのかは……もはやそれは事務手続きのようなものであり、面白みに欠けるので掻い摘んで内容を挙げてゆく。
両国が『例外なき友好』の精神を以って互いの権利を尊重し合うことを謳った第1条を軸として、その他条文に対して未記載であるものの日本側の同等権利が含まれているものと解釈する『大前提』で合意が形成されると、あとはもうドミノ倒しのようにすべての条文の解釈が見事なまでにひっくり返っていった。
アメリカ船の物資補給の取り決めに始まり、物品の交換あるいは金銭での購入の際の約束事、上陸したアメリカ人の移動可能な範囲などが厳密に取り決められていき、そのほとんどが幕府の要求する範囲内に収まったのは、ハリスの領事権が正式発効と認められないという解釈に立っての決定だった。むろん彼の領事権が認められるまで、入国者たちの従うべきは日本の国内法ということになる。
ともかく駐日領事としてのポジションを固めたいハリスは幕府側の要求を気前よく受け入れつつ、アメリカ大統領との唯一の連絡役であるという一点をごり押しして『外交官詰所』なる名目でこの玉泉寺の一角を確保すると、これも窮余の一手だったのだろう、国家元首の代理人たるおのれに恥ずかしくない生活を送らせることも国家友好の発露のひとつであると言い張って、その敷地内のみアメリカの流儀が優越することを……ありていにはアメリカの国法が適用される治外法権エリアであるということを勝ち取った。
日本国内で犯罪を犯したアメリカ人は、最悪この『詰所』に逃げ込めば在外公館的な保護を得られることになる。ハリスもそのあたりは必死の交渉なのだけれども、彼が獲得した権利はあとあと自動的に日本側の権利主張の根拠ともなるわけで、押し問答しつつも内心で揉み手しまくりな颯太であったりする。
そして第9条にある『片務的最恵国待遇』については、当然のことながら全力で第1条との矛盾をまくし立て、『判断保留』の言葉を勝ち取ることに成功している。『片務的』の文言を外す提案が幕府からあったことを文書で明記させ、大統領府にハリスからの報告書として送付させる手筈までつけたのだった。
(…よっしゃ、幕府駐米領事の設置が既成事実化したぞ)
ハリスの報告を受けて、アメリカ大統領が駐日領事の諸権利をアクティブ化すべく同意する旨の国書を発すれば、事実上幕府の駐米領事も受け入れられる運びとなり、アメリカへの渡航はぐっと現実感を帯びていく。
アメリカ領事に誰が収まるのかはわからないのだけれども、その着任にくっついていけば自動的に渡航ミッションはクリアすることとなる。気持ちが自然と高ぶってくる。
議論の終了に合わせてまたコーヒーブレイクが持たれ、アメリカ人たちもようやくリラックスしたふうに異国でのコーヒーの香りを楽しんでいる。
井上様は個別注文で煎茶を持ってこさせ、それを口に運びつつひとり思案しているふうなのだけれども、この交渉で幕府がどのような結果を得られたのか完全には理解できていない様子である。
そして通詞の万次郎はというと……さっきからこっちをちらちらと見てきて、いろいろと話したそうな雰囲気である。颯太の外交通ぶりに好奇心が抑えきれないのだろう。まあこの後颯太自身はすぐに江戸に取って返して、阿部様らに交渉の結果を報告せねばならないので、彼のそうした興味を満たしてやることはたぶん難しいだろう。
「…貴国がまさかここまで海外事情に通じているとは想像もしておりませんでした。失礼な言い方になりますが、予想外の結果に正直まだ戸惑っております」
ハリスが差し出してくる手にすぐさま応じて、握手が交わされる。
「先ほどのイングランド船籍の船の問題については、我が国も何らかの形でご協力できるものと思います。極東のこのような場所にまっとうな商船などほとんどいはしないでしょう。ないものをあると言い、難癖までつけるというのはさすがに行儀が悪すぎるというもの、そのようなつまらぬ策謀に乗って両国の友好が破れるようなことがあってはなりません。我が国の大統領を通じてその問題が解決するよう、最大限の努力を払うことをお約束いたしましょう」
「助かります。ミスタ・ハリス」
「今後とも良しなに願います、陶林殿」
難癖をつけてきてるのはどうせイギリス海軍の東インド艦隊あたりだろうから、首脳同士のチャンネルで直接本国にねじ込まれたら、お偉い提督様だとてぎゅうの音も出ないだろう。女王に叱責されて飛び上がるやつらの姿を想像して、颯太は小さく笑ったのだった。