012 下田会談①
いつの間にかカバー絵が載ってましたね(^^;)
「…どうぞ。それがしの私物にて申し訳ありませんが」
陶林颯太という、当時恐ろしく平均身長の低かった日本人のなかでもひときわちんまい7歳の子供役人が、まさか幕府代表のひとりであるなどとは思えなかったのだろう。ハリスはささやかな饗応を受けつつも本格的に話し合いが始まるまでの四半刻ほど、颯太を見えない小人のように視野に入れようとはしなかった。
まあ颯太は颯太で、その誤解を助長するような行動をとっていたことは否定できないのだけども。
『美濃製陶所』謹製の量産ティーセットを本場のアメリカ人に使わせてみる絶好のチャンスと、豆とミルまで持ち込んで、会談前のお茶出しにコーヒーを用意させていたのだ。コーヒーの淹れかたを知らない寺の坊主にいちいち指図せねばならなかったために、よそ見しがちであった颯太はたしかに雑用の子供か何かにしか見えなかっただろう。
江戸西浦屋に試作品として送られていた輸出想定の擦り絵磁器カップは、アメリカ人たちの前にあっても特に違和感のようなものは感じられなかった。ちなみに擦り絵はオーソドックスな舞扇の紋様である。
ハリスのほうはというと、まさかコーヒーが出てくるとは思ってもみなかったのだろう、しばらく目を見張ったままだった。
「まだ手に入れて間もない新しい豆ですので、香りも十分に楽しめると思います。まずはご賞味ください」
まったくいいタイミングでオランダもこいつを寄越してくれたものである。豆もちゃんとしかるべき器具で挽いてあるので、鼻に近づけるまでもなく十分に香りが立っているのが分かる。
事前に下田奉行の井上様には根回ししてあったので、見慣れない『カヒ』を平然と受け入れてもらっているのだけれども、まあさすがに手に取るだけで口に運ぶのはあくまで振りだけだった。
通詞役としてデビューを果たした万次郎は、相手側通詞であるヒュースケンとか言う若いのが席についていたので、同じく席についてもらっていて、こちらは慣れたふうにコーヒーをすすっている。おっ、少し嬉しそうだな。
こちら側が先に口をつけることで、毒入りでないことを暗に証明してみせたのだけれども、ハリスたちは場の空気に飲まれかかったこと自体にイラついた様子で素早くコーヒーを口に運んだ。颯太と万次郎しか知らぬことではあったが、アメリカ人はもうこの時期、イギリス文化への反発から紅茶党よりもコーヒー党が大勢を占めている。
口にしてから、おや、という感じにハリスは表情を改めた。
「…この豆は阿蘭陀国からのものですな」
「違いが分かりますか」
颯太の返しに、万次郎がネイティブな英語で即座に通訳する。
やり取りが英語で済んでしまったことで、ようやくこの会談自体の様子がおかしいことにハリスは気付いたようだった。米国籍のオランダ人ヒュースケンも、蘭語に訳そうとしていた言葉を途切らせた。
「この濃厚でいて苦味の強い味は、阿蘭陀豆の特徴でありましょう。焼きのほうも深い……苦味もまた引き出されていますな」
「この口の中に余韻として残る苦味、それがしは気に入っています」
「……なるほど、分かりました」
なにが「分かった」のかは分からないけれども、ハリスの中で外交官魂に火が入ったことは伝わってきた。目配せの後、アームストロング氏は小さく頷いて瞬きし、ヒュースケンは居住まいを正すなり一切口を挟むことがなくなった。
井上様の横に並ぶように座って、にっこりとプライスレスな微笑を浮かべた7歳児に、ようやくハリスたちも相手側の『主役』が誰であるのかを見定めたようだ。
挨拶も交わさなかった欠礼はなかなかに気まずくはあったろう。すでに席についてしまっているために改めて握手を求めるようなタイミングもなく、ハリスの内心での舌打ちが聞こえてきそうだった。
会談の行われる玉泉寺の一室には、ハリスらが持ち込んできた応接セットが設置されている。土足厳禁な文化であることはすでに井上様からはっきりと伝えられているらしく、彼らも靴は履いていない。縁にフサのついた絨毯が敷かれた中央に、それなりにゴツイ造りのテーブルが置かれ、その両側に3脚ずつの薄いクッション張りの椅子が配されていた。
幕府側は下田奉行の井上様と颯太、通詞のジョン万こと中濱万次郎の3人が座り、アメリカ側には自称駐日領事のタウンゼント・ハリスと東インド艦隊司令官アームストロング代将、通詞のヒュースケンが居並んでいる。
颯太は何気なさを装いつつ室内を見回して、部屋の隅にもたれるようにして立てられたアメリカ国旗と、掛けるに掛けられず床に置かれたままの油絵数点、そして同じく額縁に入ったそれっぽい証書を……おそらくは大統領からの領事任命書と思われるものを確認する。
飾りつけはむろん柱に器具を取り付ける必要性から、許可待ちなのだろう。彼らはおのれの持ち込んだテーブルに幕府関係者をゲストとして招いているつもりであるだろうが、現実にはまだ彼らアメリカ人のほうがゲストだったりする。
続きの間へと続く襖は開いていて、そちらにはハリス側の随員が、開いたままの廊下側の障子の向こうには幕府側の随員が同じく控えている。その幕府側随員の中に、大砲上覧の時に見た覚えのある顔もあった。万次郎の扱いに不安を持っていた江川太郎左衛門が過保護にも一緒についてきているのだ。
(…ジョン万をいまだにスパイ扱いしてる人間がいるとか、引くわー)
現実のアメリカがどのような国であるのか、この時代に最もよく知っている人物が誰かと聞かれたならば、それはもうこのひとだと答えるしかないような稀有な人物なのだけれども、この諸外国が次々と襲来する国難の時に万次郎のような『有為の人材』が外交面で活躍できなかったのは、まったくもって惜しむべきことだった。
先年のペリーとの和親交渉でも、幕府は万次郎を直臣として召抱えてまでいたというのに、「ヤツはアメリカのスパイだ」と言いがかりをつける勢力に妨害されて、結局同席を果たしていない。アメリカの言語や世情に通じた万次郎がいれば問題もあまりなかったはずなのに、「I can speak Dutch!(オランダ語なら喋れる!)」と叫んでしまうような不完全な通詞を立ててしまったばっかりに、ペリーらとの交渉はかなり齟齬をきたし、てんやわんやの騒動となってしまった。
自国文化を突き詰め続けたがゆえにそれが至上のものであるのだろうと極論に至りつつあった水戸学……その影響を強く受けてきた水戸の老公、斉昭公がスパイ疑惑のある万次郎のアメリカ外交への関与を妨害したとの説は聞いたことがあるのだけれども、この下田までやってくる間、そして奉行所で井上様と下準備をしている間も、外交畑でその専門性により隠然とした力を持っているベテラン蘭語通詞とその関係者たちが、かなりしつこく万次郎に対するヘイト情報を垂れ流してきたのには驚かされた。
オランダ語が南蛮国とのコミュニケーションにおいて、独占的主要言語であった時代が長すぎた弊害だった。アメリカを含む英連邦英語圏の存在感が急速に高まっているこの時期、仕事からあぶれるのを怖れた蘭語通詞たちは、万次郎の活躍をなんとしてでも妨害したかったのだろう。
もちろん無視しましたけど、なにか問題でも?
ただ外交のツールとして蘭語を過信している幕府役人たちには、そうした蘭語通詞たちの意向を忖度し過ぎる傾向が強かったのは間違いない。
井上様もまさにその口で、「今後協力を得られなくなったらどうするのだ」とか真剣な顔で言ってくるので、颯太はその場にあった地球儀を手にとって、いちいちイギリスの植民地として刈り取られた広大な土地を指摘したのちに、比較対象として植民地を含めたオランダの萎み切った勢力圏を指し示してつけつけと物申したのだった。
「世界最大の領土を持つ『日の沈まぬ帝国』と、南方亜細亜に残された権益の残りカス確保に汲々としているだけの『終った国』……これから必要になる言葉とは、さてどちらの言葉なのでしょうか」
いま相手にしようとしているアメリカですら、もともとはイギリスのいち植民地に過ぎなかったという事実に、井上様は呆然としていた。
アメリカ、オーストラリア、インドに目下侵食されつつある清国……現実に日本列島を取り囲みつつあるのは英連邦であるので、時代の趨勢についてはまず誤解の余地もなかった。
もしも蘭語通詞の組合みたいなのが文句を言ってきたなら、簡単な話、既得権を握っている年配の層を取り除いて、稼ぎが薄く苦労している若手にチャンスを与えてやればいいだけのことである。蘭語関係の人材は、正直探せばどれだけでも出てくる状況だったりする。
もしも斉昭公のほうに睨まれたらそのときはどうするつもりなのかって? そんなもの悩むまでもなくうちの大将にお相手してもらうしかない。意外と老公とは仲がよろしいようなので、どうとでもフォローしてくれるだろう。
まあその辺はさておき。
幕府とアメリカとの間で行われることとなった下田会談は、ややしてハリスが口火を切ることで始まった。
むろん最初の議題は『領事の駐在を認めろ!』というのだった。
話が始まって、幕府側もアメリカ側も書類を持ち出しての確認作業となった。英文でまとめられたアメリカの和親条約内容と、日本側の和文のそれに誤訳があるという話は上陸騒動の折に既に持ち上がっていた。
その中の第11条に、英文の解釈ミスが発生していたのだ。
英文のほうには『両国政府のいずれかが必要とみなす場合に置くことができる』となっていたのにもかかわらず、和文のほうには、『両国政府の合意をもってはじめて置くことができる』みたいになっていたらしい。
何でこんなおかしなことが起こったのかは、日本側に英語に堪能な人間が不在だったからに他ならない。万次郎のスパイ疑惑を持ち出したのが誰なのかは分からないのだけれども、異国人を排斥しようとした結果がかえって堤防を決壊させた観があり、お粗末の一言に尽きてしまう。
まあそのあたりの戦犯探しは置いておくとして、この点に関してはアメリカの主張が正しかった。颯太がチェックし、万次郎が読み下したうえで、その過誤は確定した。
「…こちらの不手際があったようです。これでは受け入れざるを得ませんね」
今回の会談に幕府側が英語に堪能な人材を選りすぐってくれたことを、ハリスは神に感謝したことであろう。急に意志の疎通が簡便となったおかげで、彼の機嫌は瞬く間に回復していった。
英文のそれをテーブルに置いた7歳児が、ため息をついてぬるくなったコーヒーを飲み干した。口元がゆるんでくるのをこらえきれないハリスの様子をちらりと見て、颯太は居住まいを正した。
「…すぐに結論を出すわけには行きませんが、井上様、この件については予定通り、伊勢守様にご報告を差し上げた後に別途お知らせすることとなると思います。正式な決定は井上様のほうからハリス殿のほうに…」
「分かっている。早馬で頼むぞ」
すでに根回しの済んでいる井上様とのやり取りは簡単なものである。
井上様が目配せで続きを促した。
「メリケン国の領事を受け入れるとなれば、国と国同士、いずれはこちらからも領事を派さねば釣り合いが取れぬと申すものでありましょう。条約ではその点について言及はありませぬが、わが国だけが一方的に貴国の領事を受け入れるというのは道理に合いませぬ。両国が対等の関係であるとするのならば、この領事受け入れについての条項に対して、法的解釈の余地が生まれるべきところであるとわれわれは考えます」
束の間の沈黙が降りた。
「……What?」
ぽかんとしたハリスの間の抜けた顔を見つめながら、颯太はにっこりと微笑んだ。
「下田を開港地とした領事駐在という条件を、そのまま貴国へも当てはめていただきたい。これはすべての条項に対しても同様の主張をいたすところであります。両国の友好が真実のものであるならば、我々の差し許す『権利』と等量のものが貴国からも与えられねばなりません」
「………」
「我が国と貴国とが対等な関係であるのならば、『仲良くしよう』という和親の精神に基づき、与え合うものも等量等価とするのが当たり前。…そのことを前提として、さあお話を始めましょうか。まさか我が国は格下で、不平等な条約を結んだつもりであるなどと無体なことはおっしゃられないのでしょう?」