008 上覧会
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「またやるのか」
新型大砲上覧に際して、将軍徳川家定のコメントがそれである。
列国の新型大砲が手に入ったこと、性能が数段劣る旧砲しか配備されていなかった品川の砲台陣地が、その新型砲を迎えることで画期的に防御力を向上させたことを側近から説明されているはずなのだが、その感動の薄いことと言ったらなかった。
正直、まつりごとに関心が乏しいカステラ将軍にいまさら何を求めるのかというところなのだけれども、国を実効支配する武家の棟梁がその場に臨席する意味合いは確実にあるので、その周りをぞろぞろとついて歩く幕府のお偉方も将軍のわがままをなだめすかすのに腐心している。
また、このとき折よく参府していた出島商館長をはじめとしたオランダ人一行も客として招かれている。彼らの耳目もあったので、将軍のそうした不用意なコメントは関係者をおおいに赤面させた。
もっとも、またやるのか、という将軍家定の感想にはゆえがある。
実は去年の2月、江川太郎左衛門差配のもと台場砲台がどうにかひととおりの完成を見たときのこと……江戸湾の安全が確保されたことを内外に示すために、今回と同じく将軍による上覧が行われていたのだ。史実ではこの家定上覧時が、お台場で大砲が実際に火を吐いた最初で最後の機会となったらしい。
安政3年7月23日(1856年8月23日)、史実にはない2度目の上覧は、御殿山下に築かれた陸続きの砲台陣地で行われた。特にその陣地が選ばれたのは、例のロシアから持ち帰られた新式砲、68ポンド砲が据えられた場所であったからである。
葵の御紋を染めた陣幕が張られ、大勢の番方たちが陣幕の周囲を固める。
おそらくここに居並ぶ番方たちは三河以来の由緒正しい家の当主たちなのだろう。幕府において武をもって仕える番方(武官)の旗本御家人は、ともかく古い家が多く、才覚でのし上がる役方(文官)とはノリが違う。いちいち睨んでくるので何とも居心地が悪かった。
家定公の床几が置かれたのは、新式砲から10間ほど離れた場所であった。万一の暴発に備えてのものだろう。真夏の暑い中での上覧であるので、小姓が日差しを遮るために家定公に傘を差し掛けている。
(…これで風がなかったら暑くてかなわんかったな)
颯太の目は、風で揺れている陣幕を見ている。
その切れ間からは、江戸湾の遠い海原がちらちらと見えた。
(…改めてみると、やっぱり大きいな)
目を転ずると、68ポンド砲。
このロシアから分捕ってきた中でも特に大きい大砲は、32ポンドが中心の国産大砲とは明らかに大きさが違うものの、形状自体は専門家でないと分かりづらい程度の差しかない。
颯太の記憶が確かならば、それは『コロンビヤード砲』と呼ばれるもので、砲尾が一番太く、砲口に向かって肉付きが薄くなっていく。後世の『ソーダボトル』という異名が特徴をよく表しているかもしれない。前装式の滑空砲である。
ライフリングはない。
が、ロシアから提供を受けた砲弾は、対象物の破壊力を飛躍的に高めた榴弾であった。むろん形状も単純な球体ではなくなっている。
同じく提供を受けた火薬もロシアで開発された新火薬で、旧砲とは比べ物にならないほどの長い射程距離を実現しているという。
もとから設置されていた青銅製の旧砲の中にあって、黒光りする鉄製の新型砲は、異物感バリバリに浮いている。
真新しい架台だけでなく、地面に打ち込まれた杭に何本もの縄で固定されたさまがまた物々しい。まるで人食いの猛獣が罠にかかって引き据えられているようなふうにも見える。
颯太はオランダ人たちの応接役のひとりとして陣幕の片隅、家定公から見て右手の山側のほうに控えている。陣幕は海側だけ張られていないので、大砲が向けられた方向だけは視界が開けていた。
海上に並んだ幾何学的な形をした人工島、『お台場』が規則性を持って並んでいるのがよく見えた。
「これが話に聞いておった例の南蛮の大筒か。なかなか大きいではないか。まわりのやつとは違って、ずいぶんと黒いな」
「この大筒は鉄製にて。もとからある他の大筒は、銅に混ぜ物をした青銅で造られておりまする。薄緑色であるのは銅錆の緑青が出ているためであります」
「備中はもうこれを撃ってみたのか」
カステラ将軍の相手をしているのはふくよかな体格の老中、堀田様である。将軍の検分前に貴重な砲弾を消耗できるはずもないのだけれども、ナチュラルに聞かれて戸惑っている。
「…前はあの台場に船で渡って検分した覚えがあるが、この場所からだとあまり遠くまで飛ばぬだろう。前の時はあそこからですらあんまり遠くまで飛ばなかったからな。20町は飛ぶとか言うておったのに、ふたを開けてみれば半分の10町も飛ばせぬていたらくであったぞ」
「この新型砲は南蛮の最新式のもので、ほかの大筒とは比較にならぬほどの距離を飛ぶそうでございまする」
「そうなのか。…よくは分からぬが。まあ撃ってみるがよい」
「ははっ」
堀田様の目配せで、控えていた者たちが一斉に大砲にとりついた。
その様をオランダ人たちも興味津々で眺めている。
「…あそこに並んでいる『島』は石積みで、まるで人が作ったかのような形をしておりますが。護岸工事で砲撃戦に備えられたのですか?」
商館長ドンケルクルシュース氏に訊かれ、同じく応接役の岩瀬様があれらの『台場』が完全な埋め立て地、ゼロから作られた人工島であることを告げる。
その回答に、商館長が感嘆の声を上げる。商館のある長崎出島も人工島であるのだが、この国の土木技術が欧米人の感覚から見ても決して侮れぬ水準にあるみたいなことを言っている。
海上に築かれた台場は全部で6か所、特に大きい第1から第3台場はそれぞれ亀甲のような形をして10000坪(甲子園球場がスタンドごと楽々収まる大きさ)ほどもあり、小ぶりな第4から第6台場も6000坪ほどの大きさがある。この巨大な人工島を、幕府は前回の黒船騒動からたった2年余りで作り上げてしまったのだ。
少ない国土を干拓で広げてきた『低地人』であるオランダ人にとって、人工的に土地を作り出す技術というのは非常にリスペクトすべき技術であったのかもしれない。
「われわれの商館のある出島もそうですが、あの大きさの島をあれだけの数、わずか2年ほどで作り上げてしまうとは、この国の土木技術は驚くべき水準にあります。大砲もそうですが、次に植民地人がやってきたときには、並べられた大砲にではなく、以前はなかった人工島が突如として現れ湾口をふさいでいることに肝を冷やされるでしょう」
「…あなた方列国人からそのように驚かれたと伝えれば、汗を掻かれた江川殿もお喜びになられることでしょう」
いまここに岩瀬様がいるのは、むろん颯太の根回しによるものである。
木っ端官僚といえども、保身には全力を持ってあたるべきである。長崎での案件が尾を引いていることを理由に、オランダ人とピンで接点を持つことの危うさを説いて阿部様をなんとか説得したのだ。ただでさえ忙しいのにと岩瀬様からはクレームをいただいたが、もとは領袖の安請け合いから始まったことなので、涼しい笑顔で「ご愁傷様です」と目礼しておいた。
ちなみにここでいう『江川様』は、英龍の子である37代当主英敏である。その当人はいままさに68ポンド砲に取りついて、砲術を身に着けた門下の者たちに口うるさく指図しているところである。
堀田様に耳打ちされた家定公が、「撃つがよい」と口にすると、
「撃てェェッ」
江川様が叫び、大砲の導火線に火が付けられた。
全員が大砲のまわりから退避し、素早く耳を塞いだ。
ドォォーーンッ!!
盛大な煙を一気に吐き出して、68ポンド砲弾が空を切り裂いた。
発射の勢いで大砲が後ろに飛び出そうとするのを、杭に結わえつけてあった縄がピンと張りつめて強引に引き戻す。どったんばったんと架台ごと跳ね回る反動の大きさを見るだけでこの大砲の威力のすごさが分かろうというものである。
そうしている間も、撃ち出された鉄塊がおんおんと飛翔音をたなびかせながら飛んでいく。
かなり長い滞空時間であった。
砲弾は驚くべきことに第一台場どころか一番遠い第三台場の沖合にまで到達し、ややして榴弾としての機能を発揮して音もなく空中で四分五裂した後……周囲に盛大な水しぶきをまき散らしながら着水したのだった。
うはっ! マジで榴弾だっ!
それにかなり飛んだんじゃないのか!?
傍では岩瀬様が、商館長ドンケルクルシュース氏と並んで目を見開いている。
「…なん、と」
「…まさか」
そのとき家定公が床几から立ち上がっている。
その目が水柱を上げた着水地点に縫い付けられたようになっている。
「備中ッ! ここからあの辺りまでは、どのくらいの距離がある!?」
その問う声に、堀田様が慌てて周囲に問い質し、それに江川様が口元を隠しながら返しているのが見える。
「30町、…あるいは1里に届くやもしれませぬ」
「い、1里だと!?」
「…恐れながら、台場の先に見えますでしょうか。…沖合に瀬の境を知らせる浮標がありまする。あれが第三台場より10町、この御殿山下陣地から第一台場までが約10町、そこから第三台場まで20町ほど離れているようです。その沖となると、撃ち放った向きもありますゆえいちがいには勘定できませぬが……1里は見ても大げさではないかもしれませぬ」
「なんと、なんと…」
1里ならば、約4キロ飛んだことになる。
この時期にこの壊れ性能の大砲が幕府の手にあるということが、歴史に何をもたらすのか。現時点ではどのような影響が広がるのか想像だにできない。
ただこの国にまだあるべきではない高性能の大砲が江戸湾に鎮座したことで、国都である江戸が外国船に脅かされるリスクが大きく後退したことだけははっきりとしていた。
通商条約に意気込むアメリカもそうだが、日本を植民地化しようと舌なめずりしているイギリスの動向にも少なからぬ影響を及ぼすことだろう。
おのれの手でやったことでありながらも、颯太はそのとき身の震えを抑えることができなかった。