004 外交闘争の始まり
いろいろとありがとうございます。
メッセージが励みとなっています。
出版社にはわがままを言って考証家も付けていただきました。(ゆえに形になるまで時間がかかったとも…)
トンデモ歴史ものですが、フィクションであることを前置きしつつはっちゃけていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
幕府の対ロシア秘密交渉は、むろんのこと公のものではなかった。
ゆえに江戸に荷揚げされた最新の大砲類がどのような伝手で、どのようにして手に入れられたのかなどはけっして明らかにされはしなかった。国防の要となるだろう列国の重火器を、幕府がいともあっさりと入手した経緯に世間の注目が集まったのは当たり前のことであり、諸藩から問われた幕府担当者が『清国商人よりの購入』と返したことで、人々は鎖国体制のなかで南蛮列国の品物を手に入れる『抜け道』があることに気付いたのだった。
『そうか、清国商人を介せば取引ができるのか』
海外との交易はむろん幕府が専管している。
今回の大砲類購入が長崎で行われ、これをただ江戸まで運んできただけなのだと多くの者は信じた。そして国の海防体制が幕府の手によってすみやかに整えられていくのだろうと一定の安心感を諸藩に抱かせることに成功したのである。
そんな注目を集める類の噂は、当然のことながら瞬く間に広がっていく。
そうしてそれが西国の端にある長崎へも至り、阿蘭陀商館長ドンケルクルシュース氏の耳に入ったのも、これまた至極当然のことであった。その情報に触れて、彼の国の動きは短期間に急激に活性化した。幕府の海防政策の中枢にある老中首座、阿部伊勢守に急ぎ面会すべく、商館長の江戸への参府が決まったのである。
この時代、通商のお礼かたがた献上品を携えてオランダ商館長が江戸へと参府するのは3、4年ごとの恒例のものとなっていた。その旅路も慣例化していて、出発は正月、長崎から下関までは長崎街道を陸路で、下関から兵庫までは海路、そこから江戸まではまた東海道の陸路でとなっており、だいたい3か月あまりの旅であったようである。
しかし今回は異例の旅となり、タイミングが半年ほどずれていたばかりか、その旅程もまた時間効率優先のほとんどが船旅であり、長崎を発ってひと月弱ほどで彼らは江戸へと至った。商館長ドンケルクルシュース氏がいかに焦っていたかの証左であるのだが、むろん外交勘に疎い多くの幕臣たちは商館長の『珍しいものが手に入りましたので急ぎ献上いたしたいと』という理由だけで納得してしまっていた。
安政3年7月21日(1856年8月21日)、それは颯太らがロシア秘密交渉から帰着して約2か月後のことである。
そしてそれは、くしくもアメリカ初代駐日領事となるタウンゼント・ハリスが下田に上陸した日と時を同じくしていた。
将軍への拝謁が終わり、老中幕閣へのあいさつを終えた商館長は、疲れを休めたあくる日の朝、江戸での定宿である長崎屋源右衛門の邸宅でまんじりともせず座敷に面した小さな庭園を眺めていた。
オランダ人一行が宿泊するという噂はあっという間に広がり、毎度のことながらうんざりするほどの大人数が面会を求めてやってきた。医者や蘭学者などの文化人の相手をするのならまだしも、ただ異人が珍しいというだけの無教養な野次馬どもの騒々しさだけはどうにも我慢できるものではなかった。
長旅で疲れていると主人に強く言ってやつらを追い散らしてもらってようやく一息をついた商館長であったが、急に静けさが迫ってくるとそれはそれで余計なことを考えさせられてしまって、苛立たしさが募ってくる。
が、その耐えがたい時間に終わりの時がやってきた。
店の人間がある人物の来訪を告げたのだった。
「…遅くなりました。カピタン」
廊下を軽い足取りでやってきたその小さな人影を見て、商館長は椅子から跳ねるように立ち上がっていた。そうして自らもそちらに歩み寄り、差し出された手に両手で応えた。
「久しくしております、陶林様」
「まさか自らこちらにいらっしゃるとは思ってもみませんでした。カピタン、ドンケルクルシュース殿」
ハリスが下田の奉行所で饗応を受けていたその頃、オランダ商館長ドンケルクルシュースは老中首座阿部伊勢守の腹心の一人と目されている7歳児との再会を果たしていた。
強い輝きを宿したその眼差しに見上げられて、反射的に商館長の握る手に力がこもる。
「まずは中へ……カヒを準備させています」
「おお、いただいた豆を切らしていたところなのです! ご相伴にあずかります」
長崎屋源右衛門はオランダ商館員たちが江戸に参府する際に寝泊まりする定宿として、客人に対する心遣いをいろいろと行っている。
その部屋は板張りなうえに絨毯が敷かれていた。そして応接用のテーブルと数脚の椅子があり、当然のように颯太は商館長と向かい合う形の場所へといざなわれた。
颯太とともにその部屋に入った人物はほかにふたり、このところ行動を同じうしている小栗又一と福山藩の警護役の者である。警護はまだほかに数人いるのだけれども、そちらは入ってきた裏木戸と店の正面入口をふさぐように配置についている。ついでに補足すると、颯太の親族かつ付き人であると主張する林庫之丞が警護人なかに混ざってはいる。福山藩の人間からはいささか迷惑がられているのだけれども、警護対象の颯太自信の口添えもあり彼は同行を許されていた。庫之丞は裏木戸をくぐった庭の辺りでえらそうに構えている。
本人の希望としてはなかまでついていきたかったらしいのだけれども、さすがにお役にも就いていない若造を幕閣絡みの枢要な話に近づけるわけにはいかなかった。
出されたコーヒーの芳しい香りを楽しみながら、颯太は商館長の切り出してきた話を機嫌よさげに聞いていた。隣では小栗様が、出された面妖な黒い液体に見向きもせず話に聞き入っている。
「…ご公儀がまた大量の新式大砲を手に入れられたと仄聞いたしました。長崎で貴殿と条約交渉をいたしたときからまだ半年、たったそれだけしか時を過ごしていないと言うのにこの短期間に、どこでどうやってそれだけの大砲を入手されたのか、わたしはその手品のタネを是が非にでも確認いたさねばならないと思い立ち、こうして江戸にまでやってまいりました」
商館長ドンケルクルシュース氏の表情はいたって平静なのだけれども、ひっきりなしに額に浮いてくる汗を拭うそのしぐさが明白に内心の焦りを示している。夏ではあるのだけれども、まだ朝方で汗を掻くほどの気温ではなかった。
「…もうどこかで確認されたこととは思いますが、あれらの大砲は清国の商人から買い上げたもので…」
「…そのような世迷言を聞くためにここまでやってきたわけではありません。我が国の諜報能力を侮られては困ります。清国は強引な進出を継続するイギリスに対しての効果的な対抗手段を、それこそ血眼になって求めております。…その清国から同じ重さの黄金以上に価値のある新式大砲を購ったなどと、そのようなことがありえるはずもないことは明白なのです」
「…さて、そのようなことを言われましても」
「その大砲搬入の輸送船に、貴殿が同乗されていたということはすでに裏を取っております。大砲をどこでどのように購ったのか、そのすべてを貴殿は知っているでしょうし、さらに言わせていただくのなら、それらの差配を行ったのも貴殿なのではないかとわたしは推測を通り越して確信さえしているところなのです」
「…えーっと」
「長崎でも貴殿はおっしゃられていたではないですか。ご公儀には大砲を購入する手だてが他にもあるのだ、と。それでわが国に武器購入の便宜を図れと」
「そのように直裁なことは申してはいないはずなのですが…」
「…たしかにあからさまには申されていなかったかもしれませんが、十分にその意図は我々に伝わっておりましたし、商館はその幕府の要請に従うべく本国に大砲類の移送を直後に打診しております。そのとき依頼した大砲類がこちらに届くまでまだ数ヶ月は見なければならない状況であるというのに、ご公儀はもうそれを手に入れられたという。…清国は放出できるほどの大砲を持ってはいません。植民地が脅している相手に武器を与えることなどありえませんし、イングランド、フランスならばなおのこと、こちらには軍艦を派しているだけでその虎の子である大砲を譲って寄越すなどということもまったく考えられません。イングランドの東インド会社がそうした軍需品の輸送を行ったという情報も現状ありません。…出所が知れないのですよその『大砲類』は」
浮かせたこぶしを握り締め、テーブルに振り落とすように見えたのだけれども、商館長はぎりぎりで自制したらしく、若干震えながらコーヒーカップに手を伸ばすことで誤魔化した。
形だけカップに口をつけつつも、その目は颯太を食い入るように見つめている。
「…それはよい話をうかがいました。貴国から送られてくる大砲類が届くのはいつ頃になりそうですか? そのときの購入価格についてもいろいろとご相談させていただきたい」
「…いまはその話しをさせていただくときではありません。わが国がいまもっとも憂えているのは、ご公儀との間で長年にわたって続いてきた国家間の取引が、そこで結ばれてきたわが国の独占すべき特権が、知らぬところで脅かされようとしていることなのです。…清国でもない、イングランドとフランスの両国でもない、植民地でもむろんない……そうなればあとは消去法で、ロシア帝国ではないかという推測が残されたわけですが。陶林殿ならば我々の抱いている疑問を……絡み合った糸を解きほぐしていただけるものと確信して、このように阿部伊勢守様にお願いしてお呼びさせていただいたのです」
まあ誤魔化されてはくれないよねえ。
ただなんとなくはなのだけれども、オランダの諜報組織は北に対して弱いのかな? そんな感じがする。海洋国家として重要な海域にこそその力は注がれて、価値の薄い酷寒の地域には彼らの『目』となる者が少ないのかもしれない。
このロシアとの取引については、自分の判断でオランダに明かしてもいいという許可は貰っている。以前の条約交渉の際に、難物である商館長と五分に渡り合った実績を買われてのことだろう。
「…このたびはご昇進おめでとうございます。評定所留役に就かれましたそうで。陶林様へのご進物にと……入手したばかりの『豆』と『豆挽き機』にございます」
切り込んできた上に、間髪いれず贈り物が来ました。
悔しいがいま貰って一番嬉しいものかもしれない。豆をいい感じに磨り潰すのがなかなか大変なのだ。
にっこりと交わされるビジネススマイル。
そういえば報告が遅れておりましたが、このたびお断りしまくったにもかかわらず阿部様の豪腕で役職が上がりました。
『評定所留役』という役職で、役高100俵から150俵に50俵増え、なおかつ正式に『旗本』扱いだそうです。
もうこうなったら幕府と心中するしかないのかもしれん。