002 小天狗はもくろむ
「…陶林殿」
声を掛けられ、振り仰いだ颯太の目に、食い入るようにこちらを見つめ返してくる小栗又一の眼差しが映った。
福山藩邸での派閥領袖、阿部伊勢守との面談及び報告会が持たれたのち、帰りの玄関端で、小栗様は彼を送り出そうとしていた颯太に「少しばかり付き合っていただきたいのですが」と外出を誘ったのであった。
現状江戸に住まう場所もなく、阿部様が次回に登城する二日後まで藩邸にとどまるようにとお達しされている颯太の『事情』を理解しているはずの小栗様が外へと誘う……よほどの重要事なのだと察した7歳児は、すぐに戻りますとひとこと番士に告げてそのあとに続いた。むろん福山藩の藩士が慌てて護衛についてくる。いろいろとやらかしているこの7歳児が、身辺警護を必要とするほど周囲から注目されていることを阿部様は危惧していた。
しばらく歩いたのち、見つけた小料理屋の暖簾をくぐり、店の一番奥にある座敷のひとすみに二人は向かい合うようにして座る。注文を受けにきた男の店員が、護衛に睨まれるなり空気を察して急須と湯呑だけを置いて退散していった。
「…陶林殿は先ほどの途方もない話、あっさりと請け負っていたようですが、…どこまでが見えていて、どのようにして実現していくおつもりなのですか」
我慢していたものをようやく吐き出したことで、小栗様の目に見えないピリピリとした空気は緩んだのだけれども、その問いかけの内容に今度は颯太がぴきりと硬直した。
いつもであるならば、何を考えているか分からない『小天狗』にむやみに干渉してこようとする者などあまりなかった。好きにさせていれば勝手に何かやりだすと信じている阿部様などは典型的で、無茶振りの後は放置がいつもであった。
しかし小栗又一という人間はそのように無責任にはできていなかったのだろう。というよりも、颯太と同じくその夢のような『計画』を自分ならどのように実現するかをすでに構想し始めており、のちに幕末有数の能吏としての嗅覚が、台風の目となるであろう7歳児との『すり合せ』の必要を嗅ぎ取っていたのだろう。
「…小栗様は、まずどのような手立てがあるものとお考えですか?」
颯太は台の上に置かれていた急須の茶を湯呑に注ぎながら、淡々とした様子でそう口を開いた。
むろん幕末史に名を刻んだ小栗忠順の成したいろいろがその脳裏には思い返されている。たしかこの人、幕府の権威を使って豪商たちから100万両を掻き集めて、列国との交易を目的とした大商社を作ろうともくろんだ男である。
それに類するような想像をたくましくしているだろうことが予想された。
「…まず『開国』が成されねばすべてが意味のない議論となりますが」
開国、というところをかなり小声で口にしつつ、小栗様はやはり後に自ら実行してしまう計画のひな形のようなものを口にした。
「…我が国に出入りしようとしている南蛮列強国、及びその産品を持ち込もうとする商人たちを幕府がしっかりと管理するための役所、仮に名を付けるのなら『外国御蔵会所』のようなものを作り、そこでの取引のみ許可するという約束で門戸を開放します」
颯太はじっと耳を傾けている。
腹の中のものをすべて吐き出してもらってからと決めている。
「長崎にある既存の役所を通してだと、現状出島を独占している阿蘭陀との関係が難しくなるでしょう。阿蘭陀国との関係に配慮しつつ、他国との交易量を一定の枠内に調整して……その許容範囲内であちらの武器その他先進の物品をすみやかに入手します。そしていずれは、その役所で上がるようになる利益を元に、幕府の庫に重荷にならぬよう自前で武器を調達していくなんらかの仕組みを作っていく、というような感じでしょうか」
ちらり、と小栗様がこちらを見てくる。
その目を見返しつつ、なおも颯太は言葉を返さない。小栗様が『陶林颯太』という人間に対して抱いている『疑問』をまだ口にしていないと感じたからだ。
そうして小栗様は、小さくため息をついてから、言葉を切り出したのであった。
「…なぜ陶林殿があの英吉利国の講、『ぎんこう』なるものの口座に、おのれの名を付けさせたのか……あの瞬間には蘭語でのやり取りであったので分かりかねた部分があったので口を閉ざしていたのですが……こうして無事に祖国へと帰り着いたのちには、はっきりとその理由を聞こうと心に決めておりました」
「………」
「…なぜ、『とうばやし、とれえど、かむぱにー』であったのか……なにゆえに先ほど伊勢守様におのれを懸命に売り込んでいたのか、そのあたりのことをぜひ貴殿からお聞きしたい。…否と言っても吐かせますので覚悟してください」
小栗様の目の中で、厄介で粘質な何かが燃えている。
その爛々とした輝きに、ある程度覚悟をしていた颯太はうすく微笑みながら頬杖をついた。
「…さて、このような話をそれがしから無理に聞き出して、…小栗様はどのようになさりたいのですか?」
小料理屋の薄暗い片隅で、わずかな外光を受ける7歳児の浮かべるその表情に……年齢的にはありうべからざるほどにろうたけた、海千山千の商人のようにこちらを覗き込んでくるその眼差しに、小栗様は束の間瞬きした後、おのれが求められている解答の向きをすばやく察して、肺の中の空気とともに言葉を吐き出した。
「…むろん、場合によっては仲間にしてほしいからに決まっています」
共犯への立候補。
同じリスクを踏むことを了承して初めてこの7歳児が口を割るだろうことを小栗様はそのサトリスキルで理解したのだった。
むふふ。たぶんあんたならそう来るのだろうとは思っていましたよ、オグリさん。実に結構。
「…それがしの腹案を口にする前に、さきほどの小栗様の案に対する見解を述べさせてください。…国内にその『外国御蔵会所』を設けて、やってくる列国商人たちを競い合わせることで買値の低下を期待しているのでしょうが、おそらくはその低減効果は限定的なものに終わり、幕府の期待する通商管理は完全には機能し得ない結果になるものとそれがしは踏みます」
「…その根拠は」
「…あちらの言葉に、『かるてる』と申すものがあるそうです。我が国でもなじみのあることですが、商売を独占する同業の株仲間が、損を出さないように売り買いの値段を談合して縛るということがままあります……『かるてる』とは向こうの国々での、同様の価格統制行為のことを言うらしいです」
「………」
「彼らにとって、我が国が『弱い』ままでいることは重要なことなのです。思うままに先進武器を手に入れ、我が国が列国に対し対等に物申すような立場になられると……外交上『不足』のない状態になられてしまうと、非常に都合が悪いのです。ある程度高値で示し合わせて、こちらの懐具合に負担をかけることで常に『空腹』な状態を保たせようと画策するでしょう。売り物の武器は時代遅れのものを売りつけ、なるべく法外な値を付けることで数を買えなくします。…それがしであったら、絶対にそうすると思うので、多分あちらの商人も同じような結論に至るものと推察します」
以前颯太自身が、幕閣のお偉方に熱弁をふるった内容と齟齬をきたしているのだけれども、むろん小栗様はそんなことは知らないのであっけにとられて聞き入っている。
「…それで『本題』に戻るのですが……列国との商売で重要なのは、あちら側に飛び込む決死の覚悟なのだとそれがしは考えるのです。剣術に例えるなら、大刀を構えている列国に対し、我が国は脇差よりも短い短刀しか持っていません。打ち合いを遠間で決死の覚悟でしのいでいてもよいと言えばよいのですが、真に勝利を求めるのならば、相手の懐に飛び込まねばこちらの武器は届きません。…この、相手の懐に飛び込む捨て身の行為を、ここでいう『武器商売』に置き換えてしまうなら、それは我々が自らの足で相手国の市場に乗り込み、そこで直接の売買を試みるということになります」
いったん喉を湿すように出涸らしのお茶を口にして、小栗様を見る眼差しに力を込める。
「…小栗様の言われる『外国御蔵会所』も現状からは随分と踏み込んだ発想であるのは分かります。しかしまだ踏み込みが甘い。甘過ぎます。…それではまだまだ受け身でしかない。必要なのは打って出ること……戦を起こすのなら相手の領地内で、というのは兵法の基礎ではありませんか」
「…こちらから列国に、どのような手段をもって打って出るというのですか」
「これはもう伊勢守様とは話し合っていることであるのですが……メリケン国が、近く新たな使者をこちらに送ってくるだろうことが予想されています。これについては阿蘭陀国にも問い合わせ、裏も取ってあります。…メリケン国は先年結んだばかりの和親条約では飽き足らず、さらに踏み込んだ内容の条約締結を我が国に強要しようともくろんでいるようです。その条約をもって我が国の門戸が強引にこじ開けられる流れとなる……小栗様が気にかけておられる『開国』が成されるのではないかとそれがしは踏んでおります」
「…ッ!」
「それがしらが持ち帰った大砲の数がだいぶ揃ってきていますし、単純にあちらの黒船に脅されて条約を受け入れるなどという流れにはならないかもしれませんが、対等の立場でこちらにも明確に益のある内容でそれが結ばれるというのならば、たとえ脅されていなくても幕閣はその条約を受け入れるやもしれません。もうそのような流れが幕閣の中には作られています。あちらが送り込んでくるだろう国家の利益代表、大使もしくは領事と呼ばれる役職の者を我が国は受け入れることになるでしょう。あちらの外交とはそのような形で行われていると聞き及びます。…ならばこちらからもしかるべき職位にある役人を、幕府の利益代表として送り込むのに何ら不思議はありません。彼らが我が国の商売に参入することをもくろむのならば、それは我々も同等の権利を求めてよいということ。そうなった暁には、我が国は大手を振ってあちらの土地に役所を建て、堂々と売り買いに参加できるようになるでしょう」
「…その知識を、貴殿はどのようにして」
「本で読みました」
きっぱりと言い切る。
あまりの言い切りっぷりに、小栗様が目を見開いている。
もう少々のことはどうでもよくなっている7歳児は、次の瞬間にはそのわずかながらの罪悪感をぽいっと頭から捨て去った。
「メリケン国のどこかに、公然と役所を設けます。そしてあちらの商品市場の入札に参入する……むろんこちらからも生き馬の目を抜くような百戦錬磨の商人たちを向こうへと連れて行きます。…ご存知ですか、メリケン国は我が国の数十倍の国土と巨大な商圏を築いているくせに、糧穀の先物取引を最近知ったばかりのようなぬるい国らしいですよ? たとえばそこに海千の相場師が参入したらどのようなことになるか想像できますか? 幕府という巨大な金主が後ろ盾についている、たちの悪い仕手名人たちが暴れまわったとしたら……あっという間に焼野原ですよ?」
戦をするなら相手の領地で。
それは商売の世界でもいえること。
「メリケン国はもともと英吉利国の植民地が独立した国と聞き及びます。…その商売も英吉利国とは深くつながっているそうなので、いずれくだんの『口座』の資金も活用の目が出てくるのではないでしょうかね」
7歳児の浮かべた笑みに、小栗様はただ肩をわななかせたのだった。
勢いで書いてしまったので、改稿するかもしれません。