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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【露西亜編】
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057 天狗風






急速に接近してくるイギリス船。

むろん幕府船のほうも速力を最大に振り絞るべく動き出している。普段は調整気味の帆の張り具合が、このときばかりはすべてが開かれ、風の力を受けた帆柱がとたんに危うげな軋みを発して、帆桁が捕らえられた猛獣のように荒々しくもだえ出した。


「…鄭氏の船にも……って、もう逃げてるし」


機を見るに敏な鄭家のジャンクは、すでに幕府船の進行方向からはずれて陸側へと舵を切って離れつつある。イギリス船の狙いが幕府船であることをしっかりと理解している。

次第に速力が上がり始める幕府船であったけれども、加速し始めたのがずっと早いイギリス船のほうがむろん船足に勝っている。もともとのスペック的にも最大船速はあちらのほうが優速である。

もともとあった彼我の距離だけが幕府側に味方してくれているような状況で、その安全性を担保してくれる黄金の価値にも等しい距離が、タクシーの料金メーターのように遠慮会釈なく刻一刻と削られていく。

空はもう薄暮に差し掛かっている。むろんそれらもイギリス側の計算であるに違いなく、これまでの幕府船の無謀な夜間航行がせいぜい半刻ぐらいで限界を迎えることを計っての仕掛けタイミングだったのだろう。

幕府船がこの世から消えてなくなる『不幸な事件』の詳細な目撃情報をのちに残さないためにも、両者の接触は暗闇のなかで行われることがもっともリスクが低い。一方の幕府船に危険な重火器が存在していないことも、イギリス側にその選択を促す要素になっただろう。

日輪が水平線のかなたに沈み、世界が急速に光を失い始めるころには、相対距離は三町(300メートル)ほどにまでなっていた。七つの海を渡り歩くイギリス海軍の船乗りたちにとって、夜戦は手馴れたものであるのだろう。その甲板にはすでに海兵たちがずらりと待機し、物々しい雰囲気をただよわせている。

わずかに見える舷側の砲門は、さいわいながら閉じられているようだ。こちらが大砲を撃ってこないと分かっているからこその余裕なのか、はたまた列国での海戦規定、戦時国際法のようなものがあって、大砲を出したら戦意ありとみなされるような慣行を考慮したものかは分からない。

ともかくいまのような『後ろから追われる』状況では相手の大砲をまともに食らうことはないので、まだ逃げに徹することはできた。

が、物見の報告で、颯太の舌の根が干上がった。


「…英吉利船、船上で何かやってやがる! …ああっ! 大筒が出てきた!」


それは側面に偏重してしまうこの時代の大砲配置の弱点を補うべく置かれる、船首や船尾に設置される前後方向への攻撃が可能な小型の大砲だった。

いわゆる『追撃砲』というやつだ。甲板に野ざらしになりがちであるために、普段は水を弾く帆布などで覆いかぶされている。それをイギリス人たちが取り払い、砲撃の準備を始めているのだ。


「すぐには当たったりせんし! いいから逃げ続けて!」


颯太はそう叫んで、舵のところにいる船頭に駆け寄っていく。

その服の裾を掴んでかがませてから、耳元で風鳴りに負けないように大声で言った。


「そのうちに、あいつら大砲を撃ってくる。…でも、すぐに当たったりはせんから。着弾の距離を測るために何発か無駄撃ちしてくるやろうけど、怯えずにまっすぐに逃げ続けて。舵を切るとただでさえ負けとる船足が落ちる……そのほうがやばい」

「しかしこいつのでかい帆はいい的ですぜ?! それに穴でも空けられた日にゃ…」

「そん時は運やわ! 当てられたらこっちの命はそこまでやと諦めるしかない! …ともかくそれがしが指示を出すまでは船足優先で突っ張ったってね!」

「…陶林様のご指示が出るまでですか……ようござんす、請合いましたわ」

「頼んだよ!」


後は時間との勝負だ。

可能な限り最大船速で逃げを打ち続ける。幸い相手の追撃砲は船首に1門、10ポンドもなさそうな小型の砲だけだ。大砲とはいえ小口径の1発や2発ではとうてい致命傷にはなりえない……帆柱を叩き折られでもしない限りは逃げに徹せられる。相手だってかなりの船足になっているから、甲板上の砲なんか上下に揺れまくって、照準もおぼつかないに決まっている。ただひたすらに恐れるべきはイギリス船に並ばれること。その最大火力である舷側の大砲群のキルエリアにこちらの船体が収められてしまうことのみを恐れねばならない。

20ポンドクラスの砲弾を数十発食らえば、たぶん一撃でこっちはお陀仏だ。

ともかくイギリス船に並ばれないうちに夜の暗がりに逃げ込む。

そして夜間を、鬼のツッパリで航行し続ける。それしか活路はない。

イギリス船の動きを監視しつつ、じりじりと夜の到来を待ち続ける。その颯太の焦りを笑うように、イギリス人たちがついに追撃砲を撃ち放ってきた。


どっ…ぉぉぉぉん!


それは腹に響くような炸裂音のあとにやってきた。

前世での弾丸がマッハのレベルで行き交う現代戦とは違い、この時代の砲弾はリアルに人の目で追えたりしてしまう。ゴマ粒のような黒いものが、至近にまで至ってソフトボール大の鉄の弾だと分かった。

それが唸りをあげて颯太の頭上を通過していった。

それもわずかに2、3メートル上を、だ。いきなりの至近弾だった。


(ひょぇぇぇぇっ!)


さすがの颯太も、少しだけ漏らしてしまった。

ひゅんって、(体感的に)すぐ上を飛んでったし!

幸いにして方向がそれて、右舷の海面に水柱が上がった。


「構うなっ! まっすぐいけぇッ!」


一瞬の危険な忘我から、7歳児の叫びが全員を引き戻した。

なにかに突き動かされるように、颯太は船上で帆柱をのぞく一番高い構造物である船楼の屋根に這い上がった。三角の切妻屋根に神輿ライディングよろしく足だけで仁王立ちし、ほとんど無意識のうちに腰の刀を引き抜いていた。


「弾は当たらぬッ」


根拠もなく叫んだ。

天地神明にその願を立てるように、刀を天に向け、そして大上段にイギリス船を真っ二つにするように振り下ろす。


「弾は当たらぬぞぉぉッ!」


もうほとんどやけくそのその行動が、何らかの『験』を幕府船の人々に与えたものか。その次の瞬間には彼らの士気が異様なまでに高まった。

わずか7歳にして恐るべき功績を積み上げてきた陶林颯太という類まれな存在に、人々が人知の及ばぬ何かの気配を嗅ぎ取っていたのは紛れもないことであった。水夫のひとりが『天狗風が吹くぞ』と漏らしたことから、それがまたたくまに船上の人々に広がった。

多くの人間の思い込みが、幕府船の船足が上がったという錯覚を生み出した。

それは偶然にも、イギリス船のほうで追撃砲の射程を調整するために束の間減速が行われたためであったのだが……結果的に彼我の距離を広げてしまったことで霊験の根拠となった。

おかしなもので、逃げ切れるという確信が強まることで、人心の一致した幕府船はその瞬間発揮し得る最大のポテンシャルを発揮した。あるいは運よく速い海流をその瞬間踏んだのかもしれなかった。

イギリス船からはその後数度の発砲を食らうものの、さいわいにして舷側の一部を粉砕されたのみで深刻な被害もなく、次いで行われた示威であろう主砲の轟音(おそらく空砲)の音も響いてきたが、幕府船は完全に無視したまま逃走を継続した。

そしてついに、その海域は本格的な夜の帳に覆われた。

暗黒の領域となった海原は墨汁のように黒々として、遠近感さえも失いそうになる。それでもむろんのこと、颯太は全速での離脱を指示し続けた。


(…それでもやつらは……諦めたりはせんよね)


夜目に慣れてくると、ほんのわずかだが相手の船のシルエットらしきものは見える。イギリス人たちも、無灯火のまま追ってきている。身近に明かりを置くと周りが余計に見難くなることを知っているからだ。

そうしてそれは、颯太の準備させていた『はかりごと』の頃合に来た証でもあった。


「そいつは船首のほうから降ろすよ。英吉利船はやや左手やから、船首の右寄りで見えんように作業したって。…音は立てんと、そおっとやよ」

「艫に明かりをひとつつけさせました。…こちらの場所がばれますけど、大丈夫なのですか?」

「そんなの、大丈夫なわけないよ。さっそくあいつら、明かりを頼りに舳先をこっちに向けてる。たぶんしめしめと思っとるよ」

「…騙しの前振りというわけですね」

「さすが小栗様。もうだいたいは分かってると思うけど……ああ、樽と一緒にひとり降りて……道具を忘れんと。降ろすのはそおっとやよ、しぶきで濡らさんようにね」

「分かってまさぁ」


さて、少しの間だけ明かりの『目印』が本物である時間を置いてから、タイミングで切り替える。


「ちゃんと浮きやしたぜ」

「それじゃ火をつけて、降りた人の回収急いで」


颯太の指示で。艫につけられていた明かりを吹き消さす。

そして手筈通りに幕府船は陸側へと……船の影が紛れやすい陸の影の中へと舵を切る。颯太は固唾を飲んでイギリス船の動向を注視した。相対的に沖側になったイギリス船は、そのシルエットがより鮮明に見えるようになった。

彼らは……幕府船の方向転換に気付かなかった。

その向う先は……先ほどと同じように小さな明かりを灯し続ける船首から降ろした樽……急造のデコイのほうだった。


「そおっと……陸側に回り込みながら反転して……やつらをやり過ごしつつ距離を稼ぐよ」


樽作戦はどうにか成功したようだった。

この樽デコイによる逃走劇は、あちらの船に乗る傲慢士官見習いの身内である、アレクサンダー・トマス・コクラン提督の有名な逸話で、彼の英雄提督も同様の手法で九死に一生を得ている。

まさに半分以上がこちらを敵視しているであろう傲慢野郎に対する皮肉であったりするのだが、果たしてその趣意に気づくかどうか。まあ単純に怒り狂うだけかもしれないのだけれども。

慎重に音を立てないよう逆進を始めた幕府船はイギリス船をやり過ごし、少ししてからしっかりと展帆して、陸伝いに来た道を逆進する。陸影に紛れての離脱であった。

デコイの樽には、申し訳程度に帆を張るように柱を取り付けてある。すぐに追いつかれるだろうけれども、それまでにいくらかは距離を稼いでくれるものと期待する。稼げる時間はおそらく数分のことだろうけれども、明かりというのはその間近にある陰影を濃くしてしまうので、つけた瞬間に幕府船そのもののわずかなシルエットを打ち消してしまう効果も期待できた。おそらくはこちらの船影は明かりを至近に造ったことで闇にまぎれてしまったことだろう。

略奪馴れしたイギリス人たちが、幕府船を無傷で手に入れようと欲を掻いてくれたなら、無用な慎重さをもってこっちの離脱猶予をさらに与えてくれるだろう。

十分に距離をとり、相対距離が四半里以上離れたと判断したあたりで、船頭は危険な陸沿いから沖への転進を決断する。再発見されるリスクはあるものの、影に隠れて停泊していたらまた次の日には見つかってしまう恐れが高かった。

おりしも、幕府船が沖へと進路を変えたとき、遠く大砲の轟音がとどろいた。

まんまと嵌められたことに気付いて、怒り狂うあまり準備していた大砲をぶっ放したのだろう。イギリス船に盛大に灯火がともって、船員たちが必死に周囲を探しているのだろう様子がうかがえた。

よっしゃ、あんだけ明かりを焚いたら周りはほとんど見えなくなる。

まさに絶妙のタイミングでの海域離脱となった。


「…これはもう、東回り一択やね」


幕府船の前には、ただ漆黒の海原だけが一面に広がっていた。

イギリスの追跡を振り切るためには、もはや日本海を縦断するしかなかった。


派手な砲戦ののち沈めてしまおうと思っていたのですが、予定を変更して穏便なルートを選択しました。

まあたしかに露西亜編も長くなりましたからねえ。

いずれやりたいシーンではありますけど。


勢いで書いているので、改稿するかもしれません。

誤字チェックもできていません、指摘していただいた方には申し訳ありませんが、今しばらくお待ちください。

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