056 事案発生
遅れています。すいません。
出航してから最初の数日は、実に安穏とした船旅であった。
往路と違い、復路の幕府船はたっぷりと重量物を積み込んでいる。喫水はずいぶんと深く水の抵抗を受けているものの、順風にも恵まれて船は波を断ち割るように力強く旅程を刻んでいる。
併走する鄭家のジャンクは逆に荷が空に近くて増速しているため、帆をたたむだけで足りず、ときおり左右に船を振ったりしている。和船と違い帆の多いあちら船は、やはり推力に優越しているように見える。
のんびりと眺める海原に、遠く何かの魚が水面を飛び跳ねた。
(…刺身が泳いでる)
船足は若干遅くなってはいるのだけれども、一日で稼ぐ移動距離の点ではさほど変わらぬことになっているような気がする。この沿海州沖の航路を水夫たちが覚えたこともあるのだろうけれども、もしかしたら親潮のような海流的なものも作用している可能性がある。
「なんなら東回りに帰りますかい」
偶然手に入れたロシア製の世界地図を広げて、すうっと日本海を突っ切るラインを指で示した船頭のドヤ顔も、やはり航路を理解したという自信から来ているのだろう。その手にする海図には既存の航路らしきものも線で描かれている。
君沢型を売り払った代金を大砲の買い付けに回したところ、いくらか端数が出てしまい、大人の都合でお金として持って帰るわけにいかない彼ら使節団は、帳尻合わせに現地で雑多なものをいろいろと買い付け……そのなかにくだんの海図もあった。予想していなかった儲けものである。
船頭が口にした、津軽海峡を抜けての東回りの帰路ならば、明らかに距離が短縮されている。そのショートカット案が『万一の安全の保証がない』という理由で小栗様に却下されていなければ、2、3日後にはもしかしたら青森のあたりの陸影を拝んでいたかもしれない。
日本海は基本季節によって波が荒くなるだけで、危険な浅瀬や地勢的な難所があるわけではない。颯太的には早く着くのなら日本海縦断ばっちこいであったのだけれども、安全重視であるのならば仕方がない。
まあ鄭家も空荷という状況を解消すべく、ちょくちょくと最寄の集落に寄港したりしていたので、今回はもうこのルート以外はとりようもなかっただろう。
昨日も仕入れたばかりだという白酒(蒸留酒)や食べなれないコウリャンを鄭家から押し売りされていたりする。アルコールのほうは水夫たちに好評で、小栗様ら使節団の面々も土産物になると皆が買い上げていた。
(…こいつは療養中の阿部様への土産物にしよう)
颯太も付き合いで大振りな甕ひとつを購入している。
よもや買ってくれないなんてことはないですよねー的な、鄭士成の目の笑っていないビジネススマイルを思い返す。やっかまれてるなー。
幕府船と鄭家のジャンク船とでは、乗組員に3倍近い差がある。万一ではあるけれども彼らに悪心を起こされたときのことを考えて、緊急避難時を除いて一定数以上の清国人がこちらの船に乗り込むことを禁ずる旨、予め通告はしている。表向きは公儀にお届けする大切な積荷に万一のことがあってはならないと言う理由付けをしてはいても、使節団が積荷の強奪に神経を尖らせていることは彼らにも伝わっているだろう。
まあ颯太の感触では、鄭士成に幕府に喧嘩を売るほどの思い切りはないと踏んでいるのだけれども。長崎での既得権益を念頭に算盤をはじけば、収支が合わないのは自明なのだから。小栗様も心配性だなと思う。
さて、好天も続いている穏やかな船旅がいつまでも続くように気がして、すっかりと油断していた颯太であったのだけれども。
艫のほうで物見していた水夫の一人が何事かを叫んで、船上がにわかに慌しくなった。彼の背中側を何人もの水夫がばたばたと駆け抜けていく。
「…何なの?」
気になって、走る水夫を捕まえて聞き出そうとしているところに、船室から飛び出してきた小栗様がこっちを探して駆け寄ってくる。髷が少しよれているので、うたた寝でもしていたのかもしれない。
「船が見えたんでさぁ」
人の集まる艫のほうを気にしながら、水夫の言葉に颯太は頭を傾げた。
陸沿いの航路である。
大陸北寄りの寂れたところなので絶対数は少ないものの、たまにすれ違う船ぐらいはあってもおかしくはなかったのだけれども。
「…もっと右手のほうだ」
「見えん」
「見えねえぞ!」
「あんだろ、米粒みてえな…」
「…んお、あれだッ、見えたぞ!」
颯太らも結局は水夫らについていって、艫から見えるという『船影』を探した。
そして、やたらと視力がいい今生のスペックによって、実際に彼もそれを見付けたのだった。
そのキロ単位で離れているごくごくわずかな、ゴマ粒のような小さなシルエットが、忘れたくても忘れられない見覚えのあるものであることをややして理解した。
(フリゲートじゃんか)
そしてこのような極東の海に展開している軍艦などほんのわずかな数でしかないことも考慮すれば。
十中八九、それは往路で行き掛かりを持ったイギリス船と見てまず間違いはなかった。
その日から事案が発生した。
幕府船は明らかなストーキング行為に悩まされるようになった。
イギリス船は、確実にこちらの船を意識して船足を調整し、一定の距離を維持したまま水平線の異物としていつまでもまとわりついてきた。
意図はむろん分からない。不穏であることは間違いなかったので、颯太が提案するまでもなく小栗様の指示で日の丸の旗が掲げられ、こちらが幕府の公船であることをこれみよがしにアピールしたのだけれども、まったく反応はなし。
そして日が暮れ始めたあたりで颯太の指示により最大速力を出し、暗がりの中でなけなしの安全距離を稼ぐ、というのが日課となった。
夜間航行は危険が伴うものの、レーダーのないこの時代において敵船をまくのにこれほど有効な手立てもなかった。もしも敵船を有視界に置いたまま夜を迎えたりしたら、おそらくは襲撃される……颯太は直感的にそう確信する。
ゆえに無理をしてでも夜間航行で、相手を振り切ることを繰り返したのだけれども。
3日ほどそうしたことが繰り返されるに及んで、ついに相手の積極行動が励起されることとなった。
その日、イギリス船の接近が明らかに早い段階に始まって、暗がりを迎えそうな中、相対距離がこれまでになく接近したのだ。
颯太のなかでレッドアラートが大音量で鳴り始める。横にいる小栗様も舵に大勢の水夫とともに取り付いている船頭も、顔に緊張をのぼらせている。
「…とうとう奴さん、腹を決めたようです」
「…もうこちらが幕府の公船であることは分かっているはずなのに。いったいなんの目的があって…」
「…たぶん、何らかの原因で指揮官が変わったんでしょう」
颯太はつぶやいて、捕捉の言葉を追加する。
「われわれはどうやらあの英吉利人たちの矜持を傷付け過ぎたようです……奪うつもりがいろいろと最新装備を奪われて、とどめに『メインセール』まで剥ぎ取っちゃいましたからね……連中、雪辱するためにこの船を略奪する気かもしれません」
「略奪!? まさか」
「あの船長、ベイカー氏ならばすでに終ったこととして、こっちに接触などしようともしなかったでしょう。もしかしたら他の有力士官によって反乱が起きたか、もしくはその寸前なんじゃないですか……海兵どもの大事な新式銃をいくらか差し出させましたし、士官見習いからも家宝の短銃とか取り上げました」
「…こちらに恨みを含んだ手合いが、船の指揮権を奪ったと?」
「…その寸前、というあたりが正解に近いのかもしれんね。3日も襲撃をためらったあたり、ベイカー氏がまだかろうじて影響力を保持していた証だとも取れます」
長い過酷な航海のさなかに、部下の反乱が起きるというのはまったくない話ではない。イギリスにおいては艦長は航海中、女王の代理として船内において絶対的な権力を振るうことを許されているのも、そうした反乱に果断に対応するためである。
先の交渉で、ベイカー氏は幕府に対して捕虜交換のために最大限の譲歩をした。それは捕らえられた軍内有力者の子弟の命を購うためであったと颯太は看破しているが、救い出された本人はそれに恩を欠片も感じたふうもなく、家宝の拳銃が奪われることにも馬鹿みたいに抗弁したくらいである。あの傲慢な若者が、同じく虎の子の新式銃を供出させられた海兵たちに共感を示し、焚きつけたとしたならば……まああり得ない話ではないと思う。
航海中の船内での部下の反乱……小説の中の話でならば胸熱なのだけれども、実際にそれが目の前で起こっているのだとするならかなりドン引きである。
「…やっぱりあの英吉利人どもだ!」
「あっ、旗が上がりやした!」
見たのは2度目。
ホワイトエンサイン。そして停船命令と思しき通信旗。
「…また交渉になりそうですね」
小栗様がぼそりとつぶやくのに、颯太は厳しい眼差しを向ける。
そういう暢気な状況でないことは明々白々だった。
「交渉なんか有り得んて。この流れやと、こっちは確実に皆殺しやよ」
「……ッ!」
「理由は簡単、嫌疑も晴れたはずのこちらにまたあやをかけてくる理由です。国と国との揉め事にもなりかねないというのに、再び欠礼を冒そうというのは普通ならば考えられんし。…たぶんあの船長は船での権力を奪われたんやと見ます。いまわが国に開国を求めている英吉利国にとって、わが国の怒りを買うことはむろん望むところではないから、もしもここでやつらが幕府船を略奪するとしたならば、国に不利益をもたらしたとしてかなりの罰を覚悟せねばならんと思う。それが分かっていて襲い掛かってくるということは、目的は憎悪による復讐と略奪……おそらく襲撃のあとに都合の悪い目撃者がひとりも残らないという結末を想定してのものであると踏んだほうが間違いないと思います」
おそらく、交渉を形だけでも求めてきたとしても、それはたぶん罠。
不都合な目撃者は最終的には海の藻屑となってもらわなければ、やつらは事後に苦しむことになる。ゆえに、脅しに屈したとしても死の結末は変わらない。
海賊まがいの荒事など、この時代のイギリス海軍にはありふれた話なのだ。
「…小栗様、急いで用意してもらいたいものがあるんですが」
颯太はめまぐるしく頭を回転させつつ、注文の品を並べ立てた。
怪訝げな様子を示しつつも、小栗様はその要求を請合って、すぐに暇をしていた人間たちを掻き集め始める。一刻の猶予もないので、人海戦術で準備を始めるつもりなのだろう。
颯太は近付いてくるイギリス船を睨みつつ、船縁をこぶしで殴った。
(…弱者は、本当に舐められる)
この海がアフリカのサバンナであるならば、幕府船はいままさにライオンに追い込みを掛けられつつあるインパラのようなものであった。