053 日露秘密交渉⑧
あらためまして。
本年もよろしくお願い申し上げます。
1/14修正いたしました。
1/15ご指摘箇所を対応いたしました。
勅任艦長、コンドラト・グリゴリエヴィチ・ストロガノフ……その大柄な体つきからは粗野さよりも人好きのする愛嬌の良さのようなものが強く現れている。
ややたれ気味のその眼をわずかに眇めながら、手の中にあるティーカップを検分していたストロガノフ氏は、
「…これはどこの窯の物なのかな」
顎先を指でつまみながら、そう問うように颯太へと視線を投げかけてきた。
むろんここにいる東洋人たちが持ち込んだものであるのだから、その出身国のどこぞの窯だというのは歴然としているはずなのだけれども、その問いが求めている答えがそうでないことを察した颯太は、少しだけいたずらっぽい笑みを口元に造りつつ、試すように『問い』の形で答えを返す。
「…どこか、『西の国』で作ったものと思われたのですか」
西の国……それらはむろんロシア帝国から見て西の国を意味している。ヨーロッパのどこかの国と思ったのかと、颯太は聞き返したのだ。
通詞のやり取りが生む束の間のタイムラグが、双方に少しだけ思案する時間を与える。
「…中国のどこを探しても、こんな形の器は作られていない。そのぐらいのことはわたしにだって分かる」
いささかの逡巡さえなく、そう言い切るストロガノフ氏。
「…まず絵付けがこちらのものではない。この蛇のような形をしたドラゴンは中国独特の絵柄……たしか神聖な生き物のそれだと聞いてたことがある。あちらの品の模倣品を作る窯は列国にもいくらでもあるだろうが、日ごろから扱いなれていない、見慣れたものでもないモチーフをこちらの職人が模写すると、たいてい描かれる造形に甘い部分が出るもの。…このティーカップのドラゴンは、一切の迷いなくこの器に筆を走らせて描かれている。絵付けが本場の職人によるものであることの紛れもない証拠だろう」
突然ふるいだした評論家のような長広舌に、石井の通訳がなかなか追いつかない。途中訳が怪しくなるのを颯太はセルフ翻訳で脳内補完していかなくてはならなかった。
評価の内容を聞いただけで、このストロガノフ氏が数多くの磁器焼を見てきたことが分かる。絵付けが生きている死んでいるは、それなりに目が肥えていないと出てこない言葉であったろう。
たとえば人がなにかから絵柄を模倣する時、だいたいふた通りのやり方……実物をトレースするか模写をするかになるのだけれども、曲面上にある焼き物のそれはたいてい実物を横においての模写になりやすい。
そしてサンプルとなる絵柄が伝統的意匠の龍ともなると、その造形にはかなりの線情報が密集しており、よほど観察眼がありかつ細密画などに適性がないと1本2本の線ぐらいはすぐに感覚で端折ってしまうだろう。とくに器の素地に下絵として描線しているときなどはたださえ一発勝負、さらには難易度の高い曲面上での作業となる。失敗が許されない緊張から手が縮み、たいていの人間はまともな線など描けなくなる。
「その絵柄は、我が国に伝わっている空想上の生き物をあしらっています。そのドラゴンは、『青竜』という生き物で、古代中国から言い伝えられている神獣ですね。…トルストイ殿の持たれているそれは『鵺』と呼ばれる我が国に古来から伝わっている妖怪、モンスターになります。いろいろな動物の特徴を合わせているのですが、その器ではなんとなく獅子と虎をあわせたような生き物になっています」
「…これがセイリューで、あちらがヌエと」
「題材の一部に古代中国のものを含んでいるので、あちらの産品のように思われたのかもしれませぬが……紛れもなく、それらはすべて我が国の窯で焼き上げられたものです」
「…なぜ東洋産の白磁が、このような『ティーカップ』として存在しているのですか。そちらでもわれわれのようなティーパーティを開くことがあるのですか」
ストロガノフ氏は、鼻息も荒くトルストイ氏の器のほうも検分を始めている。これはもう、がっちりと餌に食いついていると見てよさそうだ。
「…そこがこの品、『根本新製』の大きな売りとなるところでして」
颯太は残りのカップも箱ごと執務机の上に運び上げ、ふたりのほうへと押しやった。トルストイ氏のほうも興味がわいてきたのか、ほかの器に手を出し始める。が、もともとそちらの方に造詣があまりないのか、ちらちらとストロガノフ氏の反応をうかがっている。
「ストロガノフ家のコレクションにないものがあるとは、珍しいこともあるようだ」
トルストイ氏の揶揄混じりの物言いに、鑑賞に夢中になっているストロガノフ氏が生返事を返す。
「…我が家が代々蒐集し続けてきた『東洋趣味』はそれこそ膨大な数に上りますが、わたしが知りうる限りにおいて、このように洗練されたティーカップがあちらのオリジナルとして存在しているなどとは寡聞にして知りません。…しかしこれは……いや、非常に珍しい一品ですな!」
ストロガノフ氏の実家は、白い宝石とまで言われる東洋磁器を、コレクションと言われるくらいに大量に蒐集しているらしい。貴族であるトルストイ氏が皮肉るくらいのものとなると、そのコレクションは相当な規模のものであるに違いない。
それはつまり、ストロガノフ氏の実家が、貴族さえ鼻白むぐらいの財力を有しているという証拠でもあった。
あちらの世界に行ったまま帰ってこないストロガノフ氏を置いておいて、颯太はトルストイ氏とストロガノフ家のネタを興味半分でやり取りしていたのだけれども、その内容は驚くべきものであった。
いわく、ロシア最大の富豪(※ロマノフ一族は別格)にして、ロシア正教の教会を私財で建てまくる最大の後援者、そして国内文化芸術学問の庇護者でもあるという。
ロシア国内の塩を牛耳り、国家の肥大とともに財力を拡大していったかの家は、貴族に列せられて後も広大な領地に農場を開発し、シベリア東進で得られる貴重な動物の狩猟、そして漁業……果ては鉱山開発にも手を伸ばして大成功を収めていた。
ちなみにあのロシア料理として有名な『ビーフストロガノフ』のストロガノフも、この家のレシピが元になっているために付いたというのだから驚きである。
「この磁肌がまた美しい……まるで透き通る乙女の柔肌のようだ。中国の器はどれももっとこう、同じ白でも玲瓏とした蒼さを持っているのだが、この乳のような暖かな色合い……近いものではイギリスのそれか」
ぐはっ、鋭すぎる。
坏土として調合する土が違うから、まったく同じというわけではないのだけれども。それ自体で磁器も焼ける磁器土を配合しているから、おそらく本物のイギリス焼(※ボーンチャイナ)よりも純白に近いやや硬質な色合いになっているはずである。
もっとも、その造形は転生したおっさんが出力した、後世で洗練されつくした名品群が参考にされている。カップの重さや取っ手のアール、そして細部の遊び等々、分かる人間なら分かるノウハウが詰め込まれている。
そしてなによりも、日本のプロ絵師の一派、円山派のモノホンの絵師が自ら描いた上絵付けは、ただ筆遣いに慣れただけの職人が描いたものとはひと味もふた味も違う『生きた絵』になっている。このティーセットで統一的に描かれた神獣、聖獣、妖怪の類は、それだけでも芸術品級のものであった。
「…なんという逸品だ」
陶然と『根本新製』を眺めていたストロガノフ氏は、なんともいえないウェットな眼差しで、颯太のほうを見た。
「最近、陛下がたいそうお気に召された東洋趣味の白磁の器があると、漏れ聞いてはいたのですが……その『白磁』がまさしくこれではないのですか」
皇帝陛下のお気に入り……その言葉を耳にしただけで、背筋をおののきが走り抜けた。
まだその『白磁』とやらが『根本新製』であるとは断定などできぬというのに、先走った誇らしさが興奮とともに喉の奥からせり上がってくる。
「…そ」
興奮のあまり、噛んでしまった。
しかし颯太はそこから言葉を何とか継いで、ストロガノフ氏に問うた。
「…その東洋趣味の『白磁』とは、我が国に参られていた全権使節、プチャーチン殿の持ち帰られたものであったのでしょうか」
目と目が合った。
颯太の問いに、ストロガノフ氏が少し言いよどんだ後に答えを返した。
「…噂の聞こえてきた時期的には、そうとしか考えられませんね」
ぞくりと、全身が震えた。
これならばあっちでも受けると、はなから自信はあったのだけれども。
こうしてそれを実際の『結果』として受け取ると、ほんとにもう気持ちの高ぶりがヤバすぎた。
「…あの時期は各地から届く詳報がよろしくないものばかりで、プチャーチン閣下の持ち帰られた成果は戴冠間もない皇帝陛下にはことのほか喜ばれ、宮廷でもおおいに賞揚されておりました。…その頃に伝え聞いた噂でありますので、おそらくプチャーチン閣下の献上された『白磁』であった可能性は極めて高いでしょう」
気が付いた時には、涙があふれ出していた。
弾けそうになる喜びをどうにか歯噛みして耐えながら、颯太はストロガノフ氏の目を見返したまま、散らばりそうになる言葉を力ずくで束ね合わせた。
「その白磁は…」
言葉の尻が震えた。誇らしさが熱となって喉をせり上がってくる。
「…『根本新製』だと思います。…それがしが、プチャーチン殿に、…その、お渡しいたしました」
それがこのあと数年にわたり、日本白磁『NEMOTO-SHINSEI』の一大ブームが欧米を席巻することとなる。