052 日露秘密交渉⑦
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
ご指摘にありましたロシアの茶文化についての補足を行いました。
颯太は知らないことなのだが……という解説的なところを端折って描写の小細工で押し切ってしまおうと思っていましたが、まあやはり『足りない』ですよね(笑)
蛇足ですが、トルストイ氏がロンネフェルトから茶を買い付けていたのは、客人用の取り置きです。
執務室の中の人口密度はすごいことになっている。
茶を出された幕府側の6人、小栗、陶林、永持、石井、中島、吉田が長椅子にすし詰めに座っているほかに、椅子を諦めた格好のカザケウィッチ、ボリス・イワノフ両氏がドア近くの壁際に立ち、執務机に座るトルストイ氏の後ろには部下っぽい丸メガネの男が澄まし顔で控えている。
そこに茶を運んできた士官候補生と入れ替わるように、勅任艦長のストロガノフ氏がごつい身体を割り込ませてきた。そのときかいま見えたドアの外でも、護衛と思しき人数が溢れている。後藤さんたちもその混雑の中で陣取り合戦しているのかもしれない。
英語が満足に話せないていでの会話のぎこちなさにやりにくさを覚えていた颯太であったが、それはトルストイ氏側も同じであったのか、ラジオのチューニングを合わせるようにいくつかの国の言葉が投げかけられて、そのひとつにうちの石井くんが反応した。
「…蘭語であれば、分かります」
トルストイ氏の後ろにいた丸メガネは、何カ国かの言葉を操るようだ。
オランダ語であるならは、トルストイ氏自身も多少いけるようで、この狭い空間での統一言語はそのときオランダ語となった。
この成り行きに颯太が顔色を良くしたのは言うまでもない。
「…まさかこのような船の中で、紅茶がいただけるとは思いもしませんでした」
手の中でカップを揺らしながら、颯太は言葉を選びつつぬるくなり始めた液体を口に含んだ。
そうして吟味するように口の中で回し飲みながら、意味深な感じで交渉の口火を切ったのだった。
「貴殿のような身分ある方が飲まれているものですから、この茶葉は貴国でもしかるべき値のつくものであるのでしょう。鋼鉄製の大砲であるならまだしも、いろいろと足の早い嗜好品を取り寄せるには、どうしてもそれを運び込む日数が……製造者と顧客との『距離』が問題になってまいります」
ちらり、とオランダ通詞役となった石井の通訳の様子を確認しつつ、颯太はまたカップの中の液体をくるりと回した。香りがない紅茶のこのつまらなさはなんなのだろう。
颯太の迂遠な言い回しに、トルストイ氏が反応した。極東アジアの未開人にヨーロッパの高級な文化の一端を味合わせてやったぐらいに思っていたのだろう、一瞬かすかに怒気を孕んだその眼差しが、一呼吸でまた友好的な微笑みに塗りつぶされる。
「…たしかに、途方もなく長い航海は貴重な茶葉にダメージを与えます。ロンネフェルトから取り寄せたそれなりのものでしたが、お口に合わなかったようで残念です」
「…茶はわが国には豊富に出回っておりますので」
「………」
いささかぶしつけ気味に、挑発の言葉を並べる颯太。
そしてその場に異質な7歳児が口にしようとした、お互いの立場の『相違』に気付いたふうなトルストイ氏。
日本には茶葉など新鮮なものがいくらでも大量に出回っている。ゆえに茶の良し悪しには子供でも鼻が利く。…かたや北の強大国ロシア帝国は、その隔絶した国力を誇るくせに嗜好品のひとつも満足に手に入れることが出来ない。
鋼鉄製のものならば時間がいくらかかっても、引渡し時に品質が劣化することはない。しかし食品関係はそう簡単にはいかない。大枚をはたいてどれだけよいものを購おうとも、この時代の貧弱な輸送能力ではその品質も駆け足で劣化していく。
これは『距離』の問題を提議しているに過ぎない。
この『極東』においての、ロシアの中央と、東洋の小国との位置関係の再確認。
「…少しお湯を分けていただきたいのですが」
颯太はそのとき木製のケースを取り上げていた。
警護隊の一人に運ばせていた、イギリスの略奪から守り通した『根本新製』のティーセットである。
まだ年端もない子供が浮かべる幼さの欠如した微笑み……その含むものを見抜かせないアルカイックなスマイルに、トルストイ氏の片目がピクリと動いた。
むろんお湯程度ならばと、すぐに沸かしてあったらしい熱湯が独特な形をしたポットで運ばれてくる。
「もっと必要ならば、サモワールを運ばせますが」
「サモワール?」
石井の翻訳もこの単語については名称ママであったので、一瞬颯太もきょとんとしてしまう。
が、ロシアがあの『ロシアンティー』の国であることを思い出して、その茶淹れに係わるなにかの道具なのだろうという想像にはたどり着く。
この場で無知をさらけ出すわけにはいかないので、持ち込まれたポットで十分だと意思表示する。
「…失礼します」
いったん席を立った颯太は、部屋の隅にあった小さなテーブルにケースを置くと、中から取り出したものを二対、カップとソーサーを並べ、同じく取り出したポットに懐から取り出した何かを振り入れる。
そういう場面がくるかもしれないと、下田を発つ前に入手しておいた日本の茶葉だった。小さな小壺(肩衝っぽいやつだ)を袱紗に包んで忍ばせていた。
ポットのお湯を注いで、しばし待つ。
そのとき次第に漂い出した日本茶独特の馥郁たる香りに、小栗様ら使節の面々のほうが早くに反応した。「そんなものを持ち込んでいたのですか」と目で問うてくる小栗様に、小さくニィッと笑いを向ける。こういうサプライズが効いたりするのだ、VIP接待とか言う場面にはなおさらに。
「…これが我が国の『グリーンティー』です」
注いだ二客のティーカップを、両手で捧げるように持ち上げた颯太は、気後れなど毛ほども感じさせぬしなやかな歩みで執務机のトルストイ氏に近寄り、すっとそのひとつを氏に押しやった。
「どうぞ」
もうひとつは素早く目を走らせてから、カザケウィッチ氏にではなく勅任艦長のストロガノフ氏に差し出した。
理由はただなんとなく、こっちのほうがより『貴族』な感じがしたからだ。それを意外に思ったのだろう、ストロガノフ氏は勢いに負けてそれを受け取ってしまってから、大きな肩をすくめておのれの腰ほどの身長しかない7歳児を見下ろした。
突然差し出された見慣れぬ飲み物に目を白黒させていたトルストイ氏であったが、その液体が放つなんともいえぬすがすがしい香りに気付いたようで、ほとんど吸い寄せられるようにティーカップを口元に運んでいた。
「…Хороший аромат」
わずかにそう漏らした氏は、そのまま緑茶を口に含んだ。
旅立った時期が良かった。颯太が持ち込んだ茶葉は今年最初の新茶であり、香りのよさは折り紙つきだった。
後世日本でおっさんが日常口にしていた緑茶と、この時代のそれはかなり味が違い、舌にひっかかる旨みのようなものが少なく感じられる代わりに、後口が圧倒的にすがすがしい。颯太は後世のそれと品種が違うのかなと真剣に思い込んでいるのだが、戦前くらいまでの昔はほとんど肥料を与えずに茶を育てていたので、旨みのもとと言われるアミノ酸が少なかったようである。
旨みではなくコクと香りが強い……そんな自然栽培の、一番摘みの茶であった。
「変わった味の茶ですな…」
ようやくオランダ語でのコメントが発され、氏が何のためらいもなく残りの茶に砂糖をぶち込み出したのには目を剥いてしまったのだけれども、海外で市販されているお茶のほとんどが甘い味付けになっていることを知っていた颯太はその驚愕からすぐさま立ち直ることに成功する。
ストロガノフ氏のほうは、生憎と手元に砂糖がなかったので、そのままのストレートであっという間に飲み干してしまった。
紅茶を文化のレベルにまで作り上げたイギリス人ならばもう少し違った反応になっていたのかもしれないと思う。しかしこの時代のロシア人にとって、紅茶文化は上流階級のたしなみ、文化ツールとして移入していただけであり、紅茶に「そこまでおいしいもの」という感覚はあまりなかったのではなかろうか。
…颯太はこのとき勘違いしているのだが、露西亜の茶文化はイギリスとそのルーツを異にして、大陸伝いの中国との交易により伝わったものであったりする。
長い陸路による交易であり、団茶と呼ばれる干し固めた塊で運ぶ茶であったため、手に入るものは発酵の進んだものであったようである。煮詰めた茶をお湯で薄めるというロシアの茶文化は、当時恐ろしく高価だった茶を限界まで煮出そうという涙ぐましい努力が昇華したもののようでもあり、その結果飛んでしまう『香り』を重要視しない向きがあった。
ゆえに新鮮な新茶の鮮烈な香りは、想像以上にロシア人たちに衝撃を与えていたのだが、彼らの貴族的な『強がり』により、その事実はまだこの外交の場では伏せカードとなっていたりする。
やや恐れていた『緑茶』への拒否感が薄いことに内心ほっとしつつも、颯太は嫌味にならない程度のウンチクをたれる。
「…わが国でその年最初の新芽を丁寧に摘み取ったものを新茶と言います。茶葉を時間をかけて熟れさせる紅茶とはまた違った風味があると思います。…普通であるならば、貴国にもたらされるのは1年後かもしれない、その年の新しい茶葉です。持ち込まれる『距離』がここまで近付いて、初めて貴国にもたらされたお味はいかがでしたでしょう」
「………」
「新鮮な『グリーンティー』には、健康増進作用……身体の調子を調える力もあるそうです。長い船旅でお疲れ気味の胃の腑にも効果が期待できるのではないでしょうか」
自分にはないのかと目で訴えてくるカザケウィッチ氏のほうは見えないことにして、颯太は真正面からトルストイ氏を見た。
氏は何のために中央からこんな極東の僻地にまで遣いさせられたのか……そのあたりは想像するしかないのだけれども、おそらくイギリスとか連合国に追い詰められている極東戦力のてこ入れとその現地調査みたいなものではないだろうか。終戦の事実を知らない颯太はそんなふうに考えている。
…実際のところ、海軍省の官吏であるドミトリー・トルストイは、極東戦線にパリ条約の発効……数年に及んだクリミア戦争が終戦状態であることを通達および徹底させるために派遣されていたのであるが、そのあたりの齟齬はまあ仕方がなかったであろう。
クリミア戦争終結後に、ロシアは清国の北東部への浸透に力を注ぎ始めるので、戦力の補強に頭を痛めていることに違いはなかったりする。
トルストイ氏には『直接関係はない』ことなのかもしれなかったけれども、カザケウィッチ氏ら現地幹部たちが東洋の島国と直接交易で艦船の補充をもくろんでいることは当然知っているだろう。
そしてこの船に東洋人たちが押しかけてきた理由が、虎の子の最新大口径砲の入手であることも、カザケウィッチ氏から伝えられているはずであった。
無関係と決め付けている出向役人であるならば、そっちの問題はそっちで片付けてくれとでもお気楽に思っているだろう。シベリア艦隊の拡充は、氏の直接の功績にはならないのだから仕方がない。
しかしここで、中央の官吏ならではの『功績』が見込める事案が発生したならばどうする?
(…新鮮な生活物資を提供する用意がある……東洋人たちがそのように売り込んできているのだと、その程度の表層的な理解で止まってしまうのならば仕方がないけれども)
気付くかな?
もう一押しすべきかな?
颯太はトルストイ氏の変化を注視した。
外交の真似事をしている間抜けな東洋人たちが、据え膳のように彼の『功績たるべきもの』を目の前に提示しているんだけど。
あんた、普通にカップの取っ手を掴んでるんだけど、気付かないかなー。
紅茶文化になぜか理解のある東洋人が、西洋人にとってお宝とも言える東洋磁器の、それも馴染み深いティーカップを持ち出しているのだけれども。
ロシア帝室は、帝室窯を自前で立ち上げてしまうほど陶磁器を愛している。プチャーチンが、シベリア総督が目の色を変えてそれを欲しがったのは、『上』がそれを好むことを知っていたからだ。
ほら、文化的な『距離』も詰める用意があるのですよ?
最初に『それ』に反応したのは、壁際に立っていたボリス・イワノフ氏で、手にした『釣り針』に先に引っかかったのは意外にもストロガノフ氏のほうだった。
間が空いておりますが、この年末年始にかけて、けっしてサボっていたわけではないのでご容赦くださいませ。人に伝えるための文章って、ほんと奥が深いです…
まずは修正分からということで。