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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【露西亜編】
254/288

048 日露秘密交渉③

更新が遅れています。ご了承ください。



安政元年(1854年)、和親条約を締結すべく来航したプチャーチンは、折悪しく発生した安政地震の津波とその後の嵐によって、座乗船『ディアナ号』を失った。

難渋したロシア人たちは幕府援助のもと伊豆の戸田村で設計図を頼りに船の新造に取り掛かり……それが結果として『君沢型』という成果を幕府にもたらすこととなる。

いま、このニコラエフスクに颯太ら遣露使節団が軍船セールスに押しかけられているのも、そのプチャーチンの不運がそもそもの切っ掛けであったと言えるのだから、人生なにが作用するか分からないものである。

そしてディアナ号の残した52門の大砲であるのだけれども、この貴重な大砲を幕府がどのように扱ったのかは正確には分かっていない。落し物が普通に交番に届けられるこの国の民度の雛形であっただろう、喰わなくても高楊枝してしまう意地っ張りでプライドの高い武家社会が、国交を結ぶためにはるばる来訪した外国使節の落し物をすぐさま勝手使いしたとはあまり思いたくない。

颯太たちが会談に臨んでいるこの時点よりもさらに数ヵ月後、和親条約の批准のために再び訪れたロシア使節、プチャーチンの副官であったボシュートによって、『貸与』されていたヘダ号の返還とともにディアナ号の大砲群が正式に幕府に寄贈されている。

安政3年(1856年)11月10日のことであるから、幕府がそれらの大砲を我が物として扱いだしたのはそれ以後のことであっただろう。

この交渉の時点では、それらの大砲群を幕府は『他人のもの』として指を咥えて眺めていたわけで、君沢型の対価として阿部伊勢守がその所有権を持ち出してきたのも不自然なことではなかった。


(…いや、まあ理屈としては分かるんだけど)


さて、そのネタを耳に入れられた颯太の反応はというと。

え? それでいいの?

そんな肩透かしを食わされたような感覚だった。


(…ていうか、そんなんだったら、自分が直接こんなとこまで来る必要もなかったじゃんか。美濃焼量産化準備だって泣く泣くほっぽってきたってのに)


すでに国内に現物のある物との交換でいいのなら、『交渉要員』である颯太が出張る必要などなかったのである。外国に遺棄した軍需品がそっくり返ってくるなどロシアさんもこれっぽっちも思っていないに違いない。落し物は返ってこない。世知辛いけれどもそれが世界標準なのだ。

おそらく譲り渡しを告げたボシュートさんも、極東の戦力不足のなかヘダ号返還というやせ我慢な社交辞令を交わしつつ、どうせ返ってこない物なのだからと半分ジョークみたいなつもりで譲渡の書簡を添えたのだろう。


(…なんかいい話にまとまってしまいそうなんだけど、そんなのは意地でもぼくが許さんし)


この「いい話」な流れで取引をまとめ、所属が曖昧なディアナ号関連の物品の確保と、外交上の『貸し』を作ることができれば良しという小栗様。その『貸し』をどのような形で取り立てるべきかを、現地でしか分からない情報をもとに思案いたしましょう……颯太を見下ろす目はそんなことを語っている。

それはそれで外交的にはありなのかもしれないのだけれども。商売人としての颯太はそれが下策であることを感じている。


(…この軍船セールスは太く長くルーブルをぶっこ抜き続けられる。この後のことを考えたならば、こういうのは初回が大切なのだ。取引成立とともに軍船交換のレートが『前例』として残ってしまうから)


ロシアのこの極東での困窮具合を見れば分かる。

やつら使える軍船なら喉から手が出るほど欲しがる。日常の生活物資だって、おそらく商売になるだろう。少々常識はずれな対価であっても、ここは通ってしまうシチュエーションだった。


「…ここはそれがしに任せてはもらえませんか。その『であな号』の大砲については、ちゃんと取りっぱぐれないようにしますから」

「…しかし陶林殿」

「この交渉はいわば『大阪冬の陣』のようなものです。小栗様は、『列強国露西亜』という難攻不落の牙城に相対して、外堀も埋めずにご帰還されるつもりなのですか」

「…ッ」

「相手の腹のうちが見えなければ、相手の力量も見極められません。商売の駆け引きになりますが、一瞬の判断に迷うような厳しい要求に向き合ったとき、人は隠していた『素のおのれ』をよく曝け出します。もっとがつがつと行きましょう。そして相手が『いたしかたなし』と妥協する対価の一線を見極めます。…この街の様子を見たならば小栗様もお分かりでしょうが、雄国露西亜であっても、本拠地から遠く離れたこの地域では、補給の糧秣にも困窮する有様です。われわれが持参した新品の君沢型は、まさに喉から手が出るほど欲しいに違いありません。この売り手が明らかに優位な最初の取引は、いけるところまで行かねばなりません。最初の値付けが今後の取引においての目安、参照すべき『前例』となることを考えれば、我々のなすべきことは持参した君沢型をどれだけ高値で売りつけるか、その厳しい値付け交渉なのです。…いったん前例ができてしまえば、後任の者が攻め易くなります」

「………」

「こちらが優位なこの機会を逃さず、『外堀を埋めて』帰りましょう」


7歳児の気迫に押されるように小栗様は一瞬目を見開いたあと、「それでいきましょう」と苦笑いした。

ニコラエフスク春の陣がここに始まることとなった。




「…大砲がダメとなりますと、貴国はあの船にどのような対価をご用意していただけるのでありましょうか」


言葉の壁は高くとも、異文化交流の恥は恥でないと割り切ったリアクション芸人が体当たりで意思疎通を成功させる例があるとおり、片言の語彙と身振り手振りが出来れば意外と会話は成立するものである。

石井に英単語を出力させ、それを颯太が単語連呼とボディランゲージでアピールし、それに対する回答を松陰先生が『yes』『no』で回収するというサイクルで交渉は進む。


「…cannon、no! (脇に置いておいて)ジェスチャー “KIMISAWAGATA”price、how much!!」


まあこのような伝え方になるのだけれども、これが意外とダイレクトに伝わったりする。

相手のほうもそのやり方に慣れてくると、正確な英語でなくとも伝わることから交渉担当であるカザケウィッチ氏自身が単語連呼で応じてくるようになる。


「…8000、…10000ruble」


少し言いよどんだが、1万ルーブルという具体的な金額が出てきた。

むろん金銭の授受をしてしまうとそれは『通商』になってしまうのでここではNGである。

参考までに、1万ルーブルの価値をこの当時の日本のそれに置き換えると、だいたい2500両ほどとなる。(※生麦事件の賠償金および20世紀初頭の国際金本位制の法定平価レートを参照)。

むろん1万ルーブルの価値を日本側が理解できようはずもなく、颯太の「1pound、Exchange rate?(為替レート?)」のとの質問で探ることとなる。


「…oh、……1ruble、1pound」


相手が言いよどんだところからそれをウソと判定して、颯太がぐいぐいと問い詰める。


「1ポンド、100ルーブル」

「no!! …2ruble」


かますとすぐに倍になったことで、颯太は相手がしょせん『軍人』であることを見取って内心舌なめずりする。ちょろいのう。


「1ポンド、9ルーブル? …true?(本当なの?)」

「true!」


最後には顔真っ赤にして叫んだカザケウィッチ氏に、颯太はにこやかに微笑んで見せる。イギリスポンドの価値は、幕府側もある程度把握している。だいたい1ルーブルで1分銀程度ということになる。

4分で1両であるから、2000両~3000両ぐらいの金額となる。

むろんそんな額では足りない。製造原価だけでその倍は貰わないとだし、ここまで運んでくる輸送料……海賊まがいの某海軍が跋扈することも考慮すると、小判にして10000両は貰わないと割に合わない。

今後こちらの生産が手馴れたものとなれば、原価も安く抑えられるだろうしディスカウントにも応じられるのだけれども、この軍船セールスは他国領土にすぐに手を伸ばす貪婪なロシアという国の軍備拡張に寄与してしまう側面もあるので、安売りするわけにはいかない。船を手に入れたぶんだけ別のところで弱ってもらわなければ。

ぺろりと唇を湿してから、おもむろに颯太はテーブルに身体を乗り出した。

常に交渉を主導しているこの異様な7歳児に、カザケウィッチ氏は交渉馴れしていないこともあってすでにして気圧されている。その横でイワノフ氏が「油断したらやられますよ」みたいなことを小声で諫言している。

さて、こういう両者が価値観がかみ合わないまま交渉しているとき、大切なのは基準のポイントをはっきりとさせることにある。幕府側が金銭でのやり取りを受け付けないと言う前提を言わないまま、颯太は話の先を別へと転じた。


「1cannon、how much?」


大砲は一門いくらか、と聞いた。

そこでカザケウィッチ氏は少しだけ怪訝げな顔をしてから、相手が満足な大砲も持たない後進国であることを思い出す。

大砲はいくらかと聞かれたって、その大きさも種類もさまざまである。むろん価格だってピンキリである。

ふうと肺の中の空気を吐き出して、カザケウィッチ氏はようやく安堵したように椅子に深々と腰を落ち着けると、優越感を目ににじませながら値段を吹っかけるべく口を開こうとした。

その束の間の安心感を、7歳児がにこやかに破壊する。


「small cannon、no……『ダブル』cannon、how much!!」

「…ッッ!!」


カノン砲と一般に呼ばれるのは、42ポンド砲以下のサイズを指している。それ以上の重砲は特に『ダブルカノン』、あるいは『カノンロイヤル』などと称した。

いろいろと知ってるから、油断しないでね?

カザケウィッチ氏は開きかけた口から、あわあわと足りなくなった酸素を吸入したのだった。


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