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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【露西亜編】
251/288

045 ニコラエフスク・ナ・アムーレ






「…ううっ、さぶ」


北東からの強い風にさらされて、船団は沿海州沖を突き進んでいた。

もう4月も下旬に差し掛かろうという頃合(※新暦で5月下旬)だというのに、ここまで北上してくると一気に気温が低下してくる。

体感で雪解けがやってきた初春のような寒さで、日差しにあたっていても温みがあまり伝わってこない。吐く息は煙のように白くなった。


「プチャーチン殿が渡航にこの時期を選んだのも道理ですね」


小栗様は北国行だということで準備していた厚手の羽織を重ね着して、それでも身を縮めるように風のない物陰に立っている。物陰なのに日差しが当たる右舷の船楼の壁際は、乗組員らに大人気であった。


「…ひと月早かったら、このあたりはもしかしたら流氷で埋め尽くされていたのかもしれんね。…この調子だと、尼港(ニコラエフスク)はここよりももっと北にあるらしいし、最悪氷で入港できませんなんてことだって考えとかないかんやろうね」

「よくもまあこのような北方に人が住めるものです」

「露西亜帝国は欧州でも北の方にしか領土を持ってないから、南の温かい土地が欲しくてたまらない……やからこそ、その土地を巡ってよくいさかいを起こしとるんやと思う。先の英吉利人も、いま露西亜と交戦中とか言ってたし」

「…そんな露西亜国と、われらは秘密裏に取引をしようとしているのですから、まことに驚きです」


ちらりとこちらを見た小栗様が、小さく笑った。

その小さな笑いさえもすぐに白い煙となって散っていく。

あれ以来、イギリスを含めた他国の船は見ていない。清国の船さえも。

住民のほとんどいない寒冷で過酷な土地であるために往来する船そのものが少ないのだろう。

船団を引っ張っていくのは鄭家の船である。このような人気もない寒々しい場所を迷いなく進む彼らの物慣れた様子に、いまは正直脱帽したいくらいである。金のためとはいえ、よくもまあこのような場所にまで足を伸ばすものだと思う。幕府船はただ粛々と、そのあとをついていくだけである。

やがて大陸と樺太(サハリン)、船から見て両側の陸影が急激に迫ってきて、まさに『海峡』な光景が姿を現し始める。実際にはここ2日ばかり、船の右側に樺太の陸影を眺めながらの航行なのだけれども、樺太という巨大な島と大陸に挟まれたその総延長600キロに及ぶその海域すべてが実は『間宮海峡』であった。

いま目の前に迫っている狭隘な箇所は、その海峡のなかでももっとも狭い場所であり、後世では『ネヴェリスコイ海峡』という名で呼ばれている。陸の地形が穏やかなために圧迫感はないものの、厳冬期には完全に海まで凍りついて、陸も海も判別がつかない白銀の地獄が現出する場所である。間宮林蔵はこの海峡を渡って、シベリアの地にまで足を伸ばしている。

そうしてその狭い海峡を抜けた先に、新たな景色が開けた。


「…船が近づいてくるぞ!」


物見の水夫がこちらに向けて声を張り上げた。

船上に居合わせた者たちが、色めき立って物見の指差す方の舷側に集まった。

見れば鄭家の船のほうでも人が慌ただしく動いているのが見える。

安政3年4月26日(1856年5月29日)、船団は海域の哨戒中であったロシア艦によって発見され、戦時中であれば仕方のない荒っぽい威嚇発砲を受けたあと、敵意のないことを証立てるように帆を畳み、停船した。

こちらがただの商船であると認めたロシア艦……フリゲートよりも一回り以上小さい小型船(スクーナークラス?)が近くに寄せてきて、ロシア語でいろいろと叫んできたので、幕府船は返答の代わりに日の丸の旗を掲げた。国識別のための旗である、ロシア人たちも相手がどこの国かを理解して、身振り手振りで後について来いと船団の先頭に立った。

そのスクーナーと思われる船は、君沢型に酷似していた。

というか、いっそそのものだと言われた方がすっきりするぐらいに似ていた。


「ありゃ、おれらの作ったやつだわ」


船大工のひとりがじっくりと検分して、そう断じた。

プチャーチンをこの地にまで届けた後、置き捨てになっていたものを船不足のロシア海軍が有効活用しているのだろう。

船団は導かれるままに左に旋回し、海域の大陸側へと舳先を向ける。その海としか見えない水面の広がりが、大河の河口部であることを理解するまでにいささかの時を要した。海と信じていた水面に滔々とした流れがあるのに水夫のひとりが気付き、いま船団が川を遡上していることを皆に伝えた。

すっかりと馴染んでいた潮の香りが薄まっていく。

いまだに川という実感に乏しい景色に、針葉樹林の黒々とした緑が陸地に広がりだしている。

ときおり細かな雪が空に舞った。だれかが「雪だ!」と叫んだ。川を遡上するほどに、周囲の気配はどんどんと冬に逆戻りしていく。河口部に至って、ロシア艦と思しき影が多くなっていく。たまに小舟も浮いていて、漁師らしき男が投網を投げていた。

そうして二刻ほど進んだところであったろうか。

ようやく景色の先に、『拠点』らしきものが見えてきた。大小10隻ほどの軍艦が係留されているその軍港には、人の暮らしがあるに違いない建物の集まりが張り付くように固まっている。

ニコラエフスク・ナ・アムーレ。

ウラジオストクの不凍港が開発されるまでの間、ロシアの極東支配の拠点となった軍港である。


「Приезжайте сюда!!」


手振りするロシア人の様子から見て、「こっちについて来い」とか言っているふうなので、船団はその後ろにくっついて軍港へと接近していく。

近づくほどに、止まっている軍艦の大きさが途方もないものだと分かってくる。10隻中2隻が、おそらくは戦列艦とされるサイズのものであった。


「…なんだあれは」


小栗様が唖然とした。

その南蛮列強国では当たり前に所有されている驚くほどの巨船は、入港していく幕府船からはまさに見上げるようなスケール感を有しており、舷側が壁のようにそびえている。

唖然としているのは小栗様だけではない。水夫や船大工たちも想像以上のその大きさに打ちのめされていた。戦列艦の横を通り過ぎると、その影で幕府船がすべて覆われてしまうほどであった。

二層甲板に片舷だけで大砲が40門近く顔をのぞかせている。砲門数から颯太は第三等戦列艦だろうと推察する。

全長が幕府船の1.5倍、喫水までの高さも二メートルぐらい高いであろうか。大きさだけでも、大人と子供ぐらいの差がある。


「途方もない巨艦よ…」

「しかしよく見るといろいろとひどいですよ。敵にやられて逃げ帰ってきたんやと思う。あそこも帆布をかけて雨風養生しとるし」


あっけにとられている大人たちとは対照的に、7歳児は至って冷静に軍港の様子を観察している。


「修理はいちおうできるみたいやけど、まだ順番待ちしとる感じかな……満足に動ける船が少ないから、うちが作った小型のすくうなあが大車輪で活躍しとるっていう感じなのかな」

「…たしかに……あの船など帆柱が根元で折れていますね」

「この港の船がほとんどあんな感じなら、露西亜も相当にヤバいことになってますねー」


商売相手の露西亜の尻が燃え盛っているほど、君沢型の希少価値は高まるのだけれども。


(この時代のロシア、なんかスゲー弱そうだな)


後世の、アメリカとガチで事を構えられる唯一の国として、軍事力に関しては紛れもなく世界2位に君臨している姿を知っているだけに、颯太の中のおっさんの戸惑いは大きい。

この時代のロシアはまだそれほどの工業力を持っておらず、その巨大な国土がもたらす人的資源を背景とした圧倒的な陸軍力を強みとするだけの後進国家だった。いままさに行われているクリミア戦争が押されっぱなしであるのも、敵であるイギリス、フランスとの間にある工業力の格差に敗因の多くが求められていたりする。

例を挙げるとするなら、その戦争の名の由来ともなったクリミア半島での戦闘で、自領内という地の利に恵まれたロシア軍100万が、イギリスを含む連合軍7万にまさかの敗北を喫してしまう。補給物資を荷車で引いていたロシア軍とは対照的に、連合軍はイギリスなどが蒸気船でぽんぽんと後方補給を行い、前線の戦地まですばやく線路を敷いて、産業革命を起こした国ならではの技術力で潤沢な物資を常に届け続けたという。

そのぐらいにこの時代のロシアは残念な国であったりする。むろん颯太は知るべくもない。


(…まあ金だけはしっかり持ってるから、まあいいんだけどさ)


やがて船は、軍港の空いた桟橋に誘導された。

土地ばかりは死ぬほどあるので、仮設で作られた浮き桟橋は方々に伸びている。船上に集まった日本人たちは、冬のピンと張り詰めたような冷気の中にたたずむ異国情緒のある町並みを眺めて、わいわいと騒いでいる。

蟹の両腕のように湾を取り囲む突堤には、珍しい異国船を見つけた現地のロシア人たちが同じように騒いでいる。


「ようやく着いたのか…」


颯太はニコラエフスクの町並みを食い入るように見つめていた。


(…どれが総督府なんだろう)


この町にシベリア支配の要である、総督府があると彼は素で誤解していた。

しけった泥を擦りつけたように茶色っぽいニコラエフスクの町は、ひどく閑散とした印象だった。


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