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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【露西亜編】
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035 師弟






何であんたがここにいるんだよ。

行きたかったのはアメリカだろ、逆方向じゃんか。


「…是非に是非に。どうかご同道をお許しいただきたく!」

「すべてはそれがしの一存にて! 罰するならばそれがしを……我が命を持って償いまするゆえ、どうか先生のお命ばかりは!」


絶賛、取りすがられ中です。

いや体格的に、両膝をふたり掛りでホールドされて、立ったままでいるのも辛いんですが。ていうかおまえらいいかげんにしとけな? 武士っぽかったから温情で解放したけど、またぐるぐるに縛らせるよ?

後ろから後藤さんに持ち上げられてようやくくびきから脱すると、あわあわしている密航者どもを水夫たちに抑えさせて……やっとのこと尋問ができたのだけれども。

案の定というか、相手が幕府の人間だと分かっていてなおおのれの要求ばかりを叫び続けられる恐るべき一方の主観力の持ち主からは、吉田寅次郎……そう名乗られたのだけど脳内補正で別の名前がアウトプットされる。

吉田松陰。

カキ氷を食べ過ぎたときみたいな突発性の頭痛が襲ってくる。頭痛が痛いわ。

そして弟子と思しきほうなのだけども、金子善兵衛と名乗られた。金子ってたしか松蔭の一番弟子で、黒船密航にも付いていった人だっけか。

あれ? その後の獄中で早死にしたとか見た気がするんだけど……記憶違いなのだろうか。

むろん松陰先生はいまだ獄中生活を送っているはずである。密航に失敗して故郷の長州藩に護送されたあと、しばらくどっかの牢屋で閉じ込められていたはずなのだ。

脱獄?

いやいやそれ以前に、どうして牢屋の中の先生が、この訪露使節団のことを嗅ぎ付けられたのだ。金子と名乗った男のほうが取り押さえられたとき、懐からごろんとこぼれ出した明らかにそれと分かる位牌。それを慌てて回収した男が言うには、それは先日亡くなった兄の位牌なのだという。

それでようやく颯太の中でつながった。兄の代わりに先生を手助けしようと、けなげに弟が出張ったという構図らしい。

そして脱獄について問い質すと、まったく悪びれるふうもなく「弟子が助けてくれたのだ」と松陰先生自ら自供してくれた。

弟子? 高杉? それとも桂か?

どっちでもいいがまったく余計なことをしてくれたものだ。たぶん幕府の訪露使節団の件も、そっち経由で松陰先生の耳に届いたのだろう。

罪の意識が希薄そうな松蔭先生にそのあたりのことも追求して見ると、こういうやりとりに駆け引きとかいっさい頭に浮かばないらしく、あっさりとそれらしいのが出やがりました。

ソースは長崎海軍伝習所の長州出身者。松島なにがしとかいうやつの手紙から情報が漏れたらしい。松島剛蔵? 名前いわれても顔なんか覚えてるわけもない。

飛耳長目(※注1)の教えのとおりに、幕府の動静に気を配っていた弟子がその驚きの情報に触れて、すぐさま獄中の師匠の元に走ったのだろう。あとは幕府船が必ず通るだろう関門海峡を監視し続けるという地道な努力が行われて、この密航が成就したというわけだ。


「…どうやらそちらの人間らしいので、処置はお任せいたしますが」


密航者の処遇に迷っている颯太を見て少し気持ちよかったのか、鄭士成がかがんで耳元に囁いてくる。会話の内容から密航者が「脱獄囚」だと察して、反応を確かめるように毒を流し込んできた。


「…処置に困るようでしたら、簡単なことです、海に『捨て』てなかったことにするのも一手かと思いますが」

「…あんたならそうするの」

「時と場合ですが、後に揉め事になりそうな手合いなら、わたしなら迷わず『捨て』ますね。そういう場合、たいてい無理をして助けても何も返ってこないばかりか、恩を仇で返されることも度々でございます。助けたことを恩に着てくれる人間などおよそまれなことですから」


まあ腐敗の進行が激しい大陸(あちら)ではそうなのだろうけど。

じいっと、鄭士成の目が颯太の反応を見定めているのが分かる。もしここで処置の甘さを見透かされこの男の失笑を買うようだと、このあとの長い航海、その侮りが明らかなマイナスとして働くだろう。

捕まえたのがただの一般人であったならば、あるいは颯太も鬼になれたかもしれない。もう後戻りもできないところにまでやってきてしまっているのだ。送り返すことができないのなら捨て置いていくしかない……そう割り切れた可能性もあった。

しかしこの先生だけはいけない。取り除いた後のバタフライ効果が恐ろしすぎる。

颯太は決意をこめた眼差しを後藤さんに向けて、わずかに頷いてみせる。


「…両名はこちらで預かります。この失態については、おめおめと脱獄を許した長州藩に尻拭いをさせることにします。士成殿、のちほど書状をしたためますので、どこぞに寄港の折に長崎奉行所に届くよう計らっていただけますか。両人の所用経費を藩から吐き出させます」

「…なるほど、この者たちはチョーシュー藩の要人でございましたか。なるほど、それならば『捨て』てしまうよりも得ですな」

「ひとり頭、千両箱ひとつで放免いたしましょう」

「人ふたり運ぶだけでその実入りは、いい商売でございますな」


くつくつと笑う鄭士成に対して、面白くもなさそうに肩をすくめて見せた颯太は、後藤さんに目配せしてふたりを引っ立ててもらう。幕府船に手を振って船を寄せてもらい、戻りは渡し板で行くことにする。

運賃ひとり千両と言う颯太の発言に、ふたりの反応はまさに両極端であった。


「これは重畳! それではそれがしらは同行を許されたのですね! 善兵衛よ! ついにこの目で列強国を調査するときがきたのです!」

「せ、千両も……長州様に……殺されよっと」


超絶プラス思考と人並みマイナス思考が噛み合わな過ぎて、なんとも凸凹な主従であった。




さて、かくしてふたりの密航者を連れて幕府船に戻ったのだけれども。

むろん極秘裏に進むロシアとの取引を外部の人間に好きなように見学されてはたまらない。小栗様と相談のうえ、ふたりは船の下層中央、颯太が貯蔵庫として作り足させていた区画に軟禁することとなった。

その措置を当然というように、従容と受け入れた弟子とは対照的に、この世の終わりでも見たような顔をした松蔭先生。それでは意味がない、この目でしかと観察しなくては得られるものがないではないかと暴れられたので、そこは荒事に慣れた警護隊に出張ってもらって、一発の鉄拳が容赦なく先生を沈黙させた。

…首に手刀とかじゃないのかよ。気絶というよりは悶絶なんじゃなかろうか。

取りすがる弟子のほうに、遅まきながらいちおうこの船でのルールだけは伝えておいた。

基本外に出られるとは思わないこと。

この船の存在自体が幕府の機密であり、本来お前たちが知るべきものでないこと、知りすぎるのは身のためにならぬということ。

そして、従わぬのなら海に捨てる、ということ。


「…き、肝に銘じまして」


弟子は真っ青になって何度も首を縦に振っていたのだけれども、まあこのふたりを無事に長州に帰した時点で、いろいろと情報が漏洩するだろうことはもう颯太も覚悟した。そのときは長州藩を黙らせるために、強権を発動することとなるかもしれない。まだこの時期、長州藩は普通に幕府の権威を恐れているし、自国がまさか二百年続いた徳川体制を転覆させることになるなどとは露にも想像していない。阿部伊勢守の名で釘を刺してもらえばそれなりには効くはずだった。

事後のことを覚悟はしても、やはり松陰先生に船上での自由を与える気にはとうていならなかった。あのおのれの欲求に対して忠実すぎる生き様は、おそらくだがこのロシアとの取引できっと問題を起こすはずだと確信さえある。


(…吉田松陰がもしもこの幕府の裏取引を見たとして、なにを思うのか……のちの日本が『帝国』となるあの急激な海外領土の拡大も、青写真を引いたのはこの男……武備を強化し、海外領土を求める道を松下村塾で明治政府首脳に教え込んだのは紛れもなく吉田松陰なのだ。その言行と『日本帝国』の版図が非常に似ているのは有名だし)


ほんとこの先生はびっくり箱である。

南蛮列国の外圧を軍備強化で跳ね返し、これに対抗するために朝鮮、満州、フィリピンを支配下に置くべしとこの先生は言ったとか。その薫陶が新政府に浸透し、太平洋戦争での敗戦に至るまでその行動に影響を与え続けたのだと聞くとほんとうに恐ろしい。

情報が命だから幕府以下全国の諸藩に密偵を送るべしと藩候に進言したり、天皇制のもとでの天下万民の平等を謳って、後の尊皇思想に影響を与えたり、時代へのキラーパスを何度も放っている。

そんな吉田松陰が、この秘密裏のロシアとの取引を見てなにを考えるのか……烈公のようにけしからんと一喝するのか、はたまたもっとやれと扇動してくるのか。

もしもその目の前で、颯太が想像以上の大取引を実現してしまったなら、この時代では絵空事にも近い海外侵略戦争などを提唱し始めるかもしれない。


(…眺めてるだけでいいなら、いっそのこと問題の渦中に先生を放り込んでみたいのだけれども……そんないい加減なことはさすがにできんし、さて、どうしたもんかな)


とりあえずは貯蔵庫に軟禁して、よくよく考えるか。

まだニコラエフスクまでおそらくどんなに早く見積もっても10日以上は猶予がある。しばらくは懲罰の意味も兼ねて閉じ込めておくのが吉だろう。対外的にも(鄭家に対して)厳しい態度をはっきりと示しておく必要があった。

面倒ごとを抱え込んだな、と嘆息する颯太であったのだけれども、この遣露使節団にはさらなる問題ごとが起こることとなる。

密航者騒ぎが起こったさらに2日後のことだった。


「船が近付いてくる!」


物見に立っていた水夫の叫びが始まりだった。

すわ海賊かと、全員が甲板へと飛び出して指されたほうへと目を凝らした。水平線のかなたに、たしかに船影が見えた。


(…あれは)


騒動の始まりだった。


久々に楽しくなってきた。

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