031 出発
安政3年3月21日(1856年4月25日)、颯太は後ろ髪を引かれる思いで故郷を発ち、急ぎ下田へと向った。
今回は少し目先を変えて、西浦屋が荷積みする木曽川の川湊、今渡から船に乗り、東行きの廻船を桑名で捕まえることとした。円治翁から「そっちのほうがずっと速い」と勧められたからなのだけれども、たしかにこっちのほうが歩く距離も短いし、行程の大半が川下りとなるので断然楽ちんなうえに速かった。それに桑名は濃州の産品を運ぶ木曽川物流の集積地であり、当然ながらそれを待つ廻船の数も多いときている。
いやー、速いわたしかに。
今後はこっちルートもアリかもしれん。昔ほど金に困っているわけでもないし、時間を金で買うという発想はおっさんの現代脳にもよく馴染む。載っているだけでいい川舟は、雲助の駕籠がタクシーならば、目的地の融通が利かない高速バスのようなものであった。
運賃も安いし大人数が乗れる。
(…というか、いまは名古屋寄ると捕まりそうだしなー)
おそらく名古屋では浅貞屋が今回の件で手ぐすね引いて待ち構えているだろうし、なんか嫌な方向で揉めそうな予感もする。開所式に来ていた大番頭の竹蔵さんがこっちで抜かりなく情報収集を行っていたので、西浦屋が父娘ともども陶林家に接近してきていることもすでに報告されてしまっていることだろう。
『天領窯』と『美濃製陶所』の製造品の住み分けについては、丁寧に説明すれば浅貞屋さんも理解してくれると確信はあるのだけれども、お伊登ちゃん絡みの話しについては素で『父親』な面も見せてきたりするので、なんとなく厄介な成り行きが予想されるのだ。西浦屋のお嬢は地元の有力者の娘ということで、その公然としたアピールの数々は恰好のゴシップネタとして近隣にまで知れ渡っている有様である。むろんのこと、大番頭さんの耳にも拾われたことだろう。
(…なんかいまだといろいろと下の方も反応してしまいそうだし、いつもみたいなことされたら自爆しかねんわ)
7歳にして思春期の予兆みたいな気配を感じるのは、身体がおっさんの精神状態に引っ張られているからなのだろうかとか思う。ともかく注意しておくに越したことはない。
浅貞屋にはすでに何セットか『根本新製』を納入済みだし、今回は急ぎということでご無礼することにする。川舟の船頭さんの口利きですぐに交渉成立となったやや年季の入った廻船の甲板から、名古屋のほうに向って勘弁したってくれと手を合わせる。
今回の帰郷は、いろいろと良いこともあれば悪いこともあった。
事業についてはおおむね満足であったのだけれども、祖父の容態のこともあれば太郎伯父がらみの悪い知らせもあった。悲喜こもごもとはこんな感じなのだろう。
春の日差しも強くなり始めている空は高く、岸辺近くのこんもりした林から飛び立ったたくさんの海鵜が、風に身を漂わせている。
この気持ちの良い春風を、見知らぬどこかで感じているのだろう太郎伯父を思うと、複雑な気持ちになる。まあ手は回したのでこれ以上おかしなことにはならないだろう。心配事を振り払うように、颯太はいっぱいに伸びをした。
潮の香りと海鵜の鳴き声、足元でぎしぎしいう廻船の床が、今おのれがいる場所の現実である。
おののくように背筋を這い上がってくる冒険行の予感。
いまからおのれはいつ死んでもおかしくないような危険と隣り合わせの大仕事に臨むのである。颯太は故郷での心配事を心の奥底に小さく押し込んで、しっかりと気持ちを切り替えるのだった。
***
「…太郎伯父さんが失踪!?」
最後に普賢下の屋敷に出向いたときに、祖父の病床を見舞ったあと、父三郎に引き止められて告げられたのが、勘当されていた太郎伯父の失踪という事実だった。
美濃の西部、垂井宿の近くにあるというさる神社に預けられていた太郎伯父は、ある日突然姿をくらませてしまったのだという。神社の関係者が総出で探し回ったらしいのだけれども、その行方はようとして知れず、ついに捜索は打ち切られ、その報せが昨日になって世話を頼んでいた根本代官の坂崎様に届いたらしい。
「おじいさまは…」
「たわけか。言えるわけないやろ」
たしなめられて、颯太も唇を噛む。
たしかにこれ以上祖父の心理的負担を大きくするわけにはいかない。祖父はいちおうだいぶ持ち直したもののいまだ寝たきりで、気もだいぶ弱ってしまっている。
もしかしたらこのまま最後になってしまうのではないかと祖母からも言われて、「いい薬を見つけるから」と当ての乏しい空約束したばかりだった。
保護された場所から逃げ出したということは、その時点で太郎伯父は『無宿人』となり、日向を歩けない存在となる。
いろいろと考えをめぐらせて、颯太は太郎伯父のいまいそうな場所におおよその見当をつける。それと同時に、協力を得られそうな人物についても思い出していた。
「もしも自分が太郎伯父さんだと仮定したら、どこをまず目指すと思う?」
「…何や急に」
「ええから、想像してみて。すぐに察しはつくと思うけど」
「…もしもオレが兄者で、無一文であそこを飛び出したとしたら……まあたぶん、何とかなりそうな大きな町を探すな。身元が怪しくても、そういう人の多いところなら抜け道のひとつやふたつはありそうやからな」
「…自分もそう思う。垂井宿の近場で大きな町って言うと?」
「……ッ、加納か」
「上方に旅したときのこと思い出した? そうやよ、あのへんで一番大きい宿場町って言ったら、加納宿やわ……そこでもう一歩踏み込んで、無宿人が使ってもらえそうなところ、仕事ってなんになる?」
「…無宿人で仕事するにゃ、簡単な人足仕事あたりやろうけど……っ、なるほど、人足寄せ場か!」
気付いた父三郎の顔を見上げて、颯太は見た目は小学生な探偵のようにドヤオーラを放ちながら補足する。
「…ぼくと一緒に乗り込んだでしょ。…覚えとる? うちに出入りしとる権八の薬種行李を買い叩いたやくざ者のたむろしてた人足問屋?」
「あんときの店やろ、覚えとるわ」
まさかこんなところで人の縁が繋がるとは。
あの店の主人、北方屋嘉兵衛と名乗った親分は、きっと薬種行李をかっぱいだ5歳児のことを覚えていることだろう。何かあったらいつでもこいと言ってたし。
父三郎もそのときの当事者の一人である。
「…あの主人に聞けば、知っとるかもしれんな。…というか、たぶんおるやろそこに」
合点がいくや身を翻そうとした父三郎をしがみつくことで止めて、なんやと苛立たしげに振り返るその顔に、颯太はまっすぐなまなざしを向けて首を振って見せた。
「…いかんて。連れ戻そうとかはいかんわ」
押し込めた神社から逃げ出した太郎伯父である。勘当した人間を実家に引き取るなどできないし、身柄を確保した時点で預け先の神社に再び戻されることは確定である。それではまた繰り返しになってしまうだろう。
「…ああいう脛に傷のある人間を扱っとる店の主人や、たぶん弱い立場の身内からのお願いよりも、代官様みたいな立場のある人から『よしなに頼む』とやったほうがたぶん話が早い。…太郎おじさんを連れ戻すんやなくて、北方屋にひそかに守りしてもらったほうがいい」
「…おまんっ」
「家には連れ帰れんのやよ!」
「…ッ」
そこで言わんとしていることを察して、父三郎は脱力した。
壁に背中を擦るようにずるずると坐り込んでしまう。
「…そうやな。…たしかに道理やわ」
普賢下の次期当主としていきなり登板させられることとなった父三郎にとって、太郎伯父は格好の『逃げ場所』であったのかもしれない。
しかし現状、普賢下林家に太郎という名の長兄は『いない』ことになっている。家族なら分かりすぎるほどにそれを分かっている。
そして太郎伯父がどんな性格をしているのかも、その融通の聞かなさも分かっている。
「…代官様へのお願い、頼めるか?」
「やっとく」
父三郎の言葉に、颯太は短く応じた。
それが今回の帰郷で、颯太が最後にやった仕事となったのだった。
(…今頃は、加納の北方屋にお役人の誰かが接触してるのかな)
船が桑名沖を出港して、3日が経っていた。座ったままぼんやりと空を見上げて、そんなことを思っていたとき。
「…陶林殿―っ、見えてきましたぞ!」
須藤さんの声を聴いて立ち上がった。
目線が舷側より高くなって初めて、遠く見える陸地が視界に入った。
見覚えのある形の陸影。それは間違いなく下田のそれであった。
改稿するかもです。