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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【露西亜編】
224/288

018 銅版摺り





銅版摺(どうばんず)り。

銅版絵付け、銅版転写などともいう。

いわゆる陶磁器の量産技術のひとつで、手作業で何かと手間のかかる絵付け作業を、印刷的に行えないものかと試行錯誤して生み出されたのがこの『銅版摺り』である。

銅版エッチングを凹版の判型として、下絵具である呉須などを和紙に転写、それを素焼きした素地に貼り付け、水をつけた筆などで叩くようにして移し付ける技術である。

トレーシングといったほうが分かり易いかもしれない。鉛筆画を裏返してこすり付けると絵が転写されるあれである。

その技法を世界で初めて発見し、特許を取得したのはイギリス人であり、諸説あるものの1756年に子供のいたずらから着想を得たというジョン・サドラーとガイ・グリーンがその最源流に位置している。

日本にその技術がどのように持ち込まれたのかはあまりはっきりとはしていないのだが、一九世紀の半ば、江戸の流れ絵師、笠井大五郎によって美濃焼産地である瑞浪の里泉焼(瑞浪市稲津町)にこの技術が持ち込まれたのが最初であるらしい。1846年(弘化3年)のことである。この2年後には瀬戸の名工川本治兵衛が、オランダ銅版の再現に成功している。

颯太のいる現在、1856年のちょうど10年前のことである。

この地に銅版摺りの技術が伝播し、その技術を所持する職人が天領窯に現れたのは歴史的にも必然であったりする。




むろん業界豆知識であり、特に『発祥は地元』的な記録に関してならば必要以上によく知っている。


(銅版摺りに日本で初めて先鞭をつけたのは美濃地区やったんやけど……結局一時の流行であっという間に衰退して、改めてその技法が脚光を浴びるようになるのは明治期になる。この辺はまあ、『早すぎたんだ』と言うしかない)


某巨匠の金色の野に降り立ってしまう少女の映画で、腐りかけのまま生まれた巨人兵器を見て某参謀が吐き捨てるように言う名セリフが脳裏をよぎる。

銅版摺りは、普通に描いていたら時間がいくらあっても足りないような緻密な絵柄模様を、原版を用意さえしてしまえば何度でも大量に作り出せるという利点がある。絵付け技術は牛醐先生以外がなかなか水準に達してこないことからも分かる通り、多分に『絵師的要素』があり、個人の技量もけっして均質化しないものであったから、この印刷技術が確立したら間違いなく量産品の品質が劇的に向上することとなる。製陶業で海外に打って出るのためには確立が必須の技術であるのだ。


「…名前は寺尾仁兵衛と申します」

「修行されていたのがあの瀬戸の名工、川本治兵衛先生のところだったと」

「銅版摺りは白い磁肌にこそ本領を発揮するものやから、ならばいまをときめく『根本新製』によう合っとるんやないかと」


川本治兵衛の弟子となれば、たしかにこの時代の銅版摺りの技術を正当に受け継いでいる人物だと思われる。

颯太はさらに一歩踏みこんで、聞きにくいことをずけりと聞いた。


「…川本先生のところを離れたのはどうしてですか? 瀬戸新製もうちと同じく磁器焼のはずですが。可能性を試すんなら、瀬戸でいくらでも機会があったはずやけど」

「………」


顎の長い細長い顔をした仁兵衛は、少しだけ言葉に詰まった後、


「銅版摺りは、ほんにお金がかかるもんでして」


理由は颯太が予想したものと一致する。

せっかく芽吹いた新技術が、大きな成果を残すことなくいったん歴史の表舞台から退場することになった理由……それは『お金がかかり過ぎる』という一点が大きく作用している。

発祥元のイギリスでは何の問題もなくいち量産技術として瞬く間に普及した銅版摺りであったが、それから100年後のこの時代の日本では、それが普及するための条件がいろいろと欠け過ぎていた。南蛮列強と江戸日本の、技術格差がこのあたりにも歴然とあったりする。

まず第一に挙げられるのが、この時代に転写用として使用される下絵具……いわゆる『呉須(ごす)』の発色が、要求を満たしていなかったこと。天然ものしかなかったため、発色が非常に薄かったのだ。

第二が、ここで使用されるもっとも発色の良い呉須が、とても高価な『支那呉須(しなごす)』(中国産の天然コバルト土)を多量に必要としたこと。

そして第三に、銅版を用いた『原版』を作る技術が未熟であったことが挙げられる。エッチング後の酸化工程の不良などにより、職人が直に(たがね)を当てて彫るようなことがまかり通っていたのだ。そりゃ線が太く歪になるし、細かな意匠が製作困難になるに決まっている。

発色が悪い。

絵具も高い。

原版がいちいち職人技。

んなもん、高くつくに決まっている。

仁兵衛が後生大事に抱えていた風呂敷の中身が明らかとなる。むろんアピールするために持ってきたのであろうが、それは自作の銅原版の数々であった。


「仁兵衛さんの『彫る腕』のほうは確かみたいやね」

「笠井先生にも厳しく教えられましたし、自分の作った銅版を使って作られた出荷品もあります。江戸でもかなり評判が良かったと聞いとります」

「『ステレキ』には何を使ってましたか」

「……銅版を腐らせるのを知っとられるんで?」

「そのぐらいは知っとらんとこの業界を渡っていかれんし。『ステレキ』はやっぱり硝石を水で溶いたものなの?」

「……まあ、はい。だいたい同じ分量で混ぜたやつを削った面に流して、腐らせます」


銅版のエッチングというのは、単純に銅版の表面を彫っているわけではなく、友禅染とかと同じで保護したい面を蝋などで被覆し、鉄筆などでひっかいた傷を酸で浸食させることで凹面を化学的に深くする。

エッチングに最適なのは塩化鉄溶液が便利なのだけれども、この時代にそれは容易に求められないので、火縄銃の火薬などでおなじみの硝石がここで登場する。

この時代の銅版は、硝石を溶かした溶液でかなり荒っぽく酸化工程をなさねばならない運命にある。

硝酸はわりと銅と激しく化学反応するので、濃いと反応が激しすぎて腐食がえぐるように進行してしまうし、びびって薄くしてしまうと腐食が弱くなり、(たがね)で補正する必要が生じたりするわけである。

まあチートというほどではないのだが、その硝酸の反応で出てくる気泡を細めに鳥の羽などで撫でて取り除くことで、品質は向上させることができる。後の世のノウハウである。


(呉須の発色が弱いのも、見方を変えれば別に悪いことやない。薄くなるのを前提にしたデザインを採用すればいいことやし、明治期の青を通り越して藍色にも見える『濃い』やつは、実際あまり上品ではないし。好き嫌いで言えばあんまり好きじゃない。それに支那呉須が多少高くても、それなりに高い値で売れれば十分に元は引ける)


銅版摺りは緻密な絵柄を簡単に量産できるので、現状江戸で売れている瀬戸新製の単純な筆描き下絵の商品よりも、高級品の位置づけで売ることは可能だろう。出荷の値段が4倍にならないと元が取れなかったと聞くけれども、商品性を高めていけば辻褄も合っていくだろうし、なにより量産工程がこなれていけば単価だってすぐに下がっていくだろう。


(よし、国内向けの廉価市場で、中間層向けのちょっとだけ高価な新ブランドを立ち上げてみようか)


まずは国内で実際に実績を積み、量産体制を確立しておかないと始まらない。『根本新製』もいまは成功しているけれど、希少品商売だけでふんぞり返っているのは長い目で見て非常に危うい。

うちの屋敷に用意してある新窯用の敷地に石炭窯を作るのは既定として、とりあえず新ブランドの初期の生産を外部委託にして、既存の窯を抱き込んでOEM生産とかどうだろうか。

もちろん窯というハードは『焼成』するために必要なだけであって、商品自体の生産はどこか一ヵ所に大規模な工場を建てて集中的に行う。

各美濃焼窯と個別に焼成委託契約を結んで、『素焼き』と『本焼成』は任せるとして、元になる商品の生産拠点をこっちでしっかりと掌握しておけば、生産ノウハウの流失とかのリスクは低くできる。家内制手工業的ではあるのだけれども、ろくろ成型から絵付けまで、一貫して行える大規模工場だ。

想像するだけでぞくぞくとしてくる。千両で足りるかな?


「…あの、どうですかね?」

「ええよ、採用するわ」


即決である。

目の前に偉そうに座っていた7歳児から握手を求められて、仁兵衛は戸惑いつつも手を差し出した。


「仁兵衛さんには銅原版の製造環境を整えてもらいたい。必要なものはどんどんと要望して。それがしがいれば直接言ってもらえばいいし、不在の時は代理人のところに持ってってもらえば、できるだけ対応するようにしておくし」

「…と、陶林様は、『銅版摺り』がこれからも通用するのだとお考えで」

「当たり前やないの。ほかで高くつき過ぎて話にならんとか言われてきたかもしれんけど、そんなものはやり方次第やとそれがしは思います。それよりもよううちに来てくれたって、感謝せなかんぐらいです」

「……全力で頑張らせてもらいます」


仁兵衛さんはうるんだ眼を乱暴に拭ってから、深々と頭を下げてきた。将来をかけた技術がいろいろと行き詰りそうで、気持ちが疲弊していたのか。


「成功させよ」

「…はい。かならず」


颯太は仁兵衛さんを小助どんたちに任せて、面接場になっていたろくろ小屋を後にした。颯太は次郎伯父の姿を探しつつ、すでにめまぐるしく今後の算段をシミュレートしている。

斜陽の美濃焼窯を抱き込んでOEM生産を始めるにしても、その前にクリアしなければならない関門がある。美濃焼窯は天領窯以外はすべて美濃焼総取締役によって厳しく統制されている。


「次郎伯父さん!」


絵付け小屋で牛醐先生と話し込んでいた次郎伯父を見つけて、呼ばわった。

気付いた牛醐先生が会釈してくる。それに応えつつ次郎伯父を引っ張ってきて、


「出かける準備して!」

「な、なんや急に!」

「仕事ができたし、付き合ったって」


一応あいさつしとこうかとは思っていたので、用事ができたのならもちろん一石二鳥で行くべきである。


「西浦屋へ行くし!」


むかうは本郷(多治見村)、西浦屋敷。


参考資料:『明治期における日本陶磁器の装飾技法(Ⅰ)-銅版転写-』久保木 真人

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