017 雑穀雑炊
「颯太様、朝ご飯やよ」
急遽決行した窯場でのどんちゃん騒ぎであったが、付き合い酒であっという間に出来上がってしまった颯太は、翌朝ひどい頭痛と酔っ払いによくある記憶の断絶に悩まされつつ寝床から起き上がった。
持ち上げようとした真新しい布団の意外な『重さ』に、ここが普賢下の林家の客間なのではないかと錯覚した颯太は、もそもそと起き上って布団を畳みだそうとして、はたとそれ以外の部屋の違和感にもすぐに気づいた。
(…畳のイグサのにおいもやけど、部屋自体が新しい)
ぼんやりと周りを見回している颯太の耳に、再び外から声がかけられる。
実母であるおはるの声だと気付いて、光を受けて白く輝いている障子を引き開けた。鉋をかけたばかりのような白木の手触りが、障子戸そのものも新しいことに気付かせる。
そして眼前に現れた冬晴れの大原郷……その見下ろすような景色に、思わず息を飲んでしまった。
ちょうどそこにはめ込まれていた雨戸を集めている見慣れた少女の背中を発見して、声を掛けようとしたのだけれどもすぐには喉が言うことを聞かない。
一枚ずつ雨戸を戸袋に押し込んでいた少女、お幸が背後に顔を見せている颯太に気付かずに、下の方から届いてくるおはるの声にいらえを返した。
「颯太様はまだお疲れみたいです! もう少し待ってましょう!」
「お雑炊が炊けたんやけどなー。庄屋様が特別にってお米もってきてくれたから、今日はお米の多いお雑炊さんやし、最初に颯太様に食べてほしいんやけどなぁ」
「…ならあたしが一度お起こしして…」
そこでようやく振り返ったお幸が、颯太に見つめられていることに気付いた。
「はぅ、そ、颯太様!」
「…ちょうどいま起きたとこ」
「お、おはようございます」
「あ、うん、おはよ…」
はにかんでいるお幸が何ともかわいらしくて、なかのおっさんが年甲斐もなく少しときめていしまう。
そこはできたばかりの陶林邸の一角であった。
冬枯れした上に工事現場で踏み荒らされてしまっているために、屋敷の建つ土手は雪の積もっていない荒れ果てたゲレンデのようである。葉のすっかり落ちてしまった渋柿の疎林がなければ、ほんとに何もない景色であったのだけれども、昨日からおかしなスイッチが入ったままなのか、世界のすべてがなんでもかんでも輝いて見えてしまう。
そこは三棟が段々に並ぶ予定である陶林邸の、一番上の棟のようだった。
工事はむろんまだ終わってなどおらず、真ん中の棟はまだ柱と屋根だけで、積む予定なのだろう瓦がからげられた状態で山積みになっている。
「朝ご飯は部屋までお持ちした方がいいと思っていたんですけど、おはる様が家族一緒に食べたいとご用意されてまして…」
お幸が指し示したのは一番下の棟のようである。
水源である旧宅の井戸にいちばん近い下の棟には、陶林邸のお勝手(台所)があり、たしかにいま盛んに白い湯気が立ち上っている。
伊兵衛以下母方の家族は、旧宅が取り壊されていたのでいまその下の棟を住処としているらしい。むろんそこにお幸も住み込みをしているのだと思う。
一番上の颯太が寝ていた棟は、おそらく主人である彼のプライベートエリアという設定であるらしい。窯場で寝込んでしまった彼を、次郎伯父が担いでここまで運んできたようである。
背後で物音がして、ついとそちらを見ると、隣の部屋があてがわれていたのか、須藤さん角田さんが刀を手に這いずるように廊下に出てきている。ふたりとも深酒したらしい。
お幸に目で尋ねると、「準備されてますよ」とのこと。
なので颯太はふたりの目付に声をかけて身振りした。
「朝飯にしよう!」
言葉が早朝の冷たい空気に白く色づいた。
まだ未完成である陶林邸の現状なのだが、どうやら代官様の指図でまず当主である颯太の居所となる『一の棟』(一番上の棟)を最優先で仕上げ、ついで『二の棟』、『三の棟』と作っていく予定だったらしいのだが、母方家族の代表者である伊兵衛が「おらたちにはもったいない」と中層である『二の棟』の使用をかたくなに拒んだために、先に一番下の『三の棟』が作られたらしい。本来応接や客間として使用されるはずであった六畳二間と茶室使いできる四畳半が、今ではすっかり家族使いされてしまっているらしい。続きの六畳二間は襖を払えば12畳の大広間になるわけで、そこが朝食会の場所となっていた。ちなみにそのすぐ隣がお勝手になっていて、女性陣としてはいちばん便のいい部屋ではあったりする。
もともと田舎の農家でこの日用意された具多めの雑炊は、かなり贅沢な部類であった。
部屋の隅に大きな土鍋がたたんだ筵の上にドカッと置かれ、『お代りはセルフで』というルールであるらしい。稗や粟なんかが混ざった雑穀米に、大根の短冊切りを大量に混ぜらて炊いた雑炊は、颯太のとってはなじみ深いものの、普通に米を炊いて食べている江戸者にしたら衝撃ものであったろう。
味のない熱々の雑炊に、おかずは少々酸っぱい沢庵と豆みそ、それに近頃採れるようになったという『ふきのとう』のおひたしが出た。
まあこのコンボなら、塩味の強いわずかなアテで雑炊を掻き込むのが正義という感じである。田舎ならば普通な光景であり、昔から裕福であったことなどなかった伊兵衛家族にとってはむしろ『ご馳走』に類すべき朝ご飯であったが、目付のふたりにはなかなか『珍しい』食事であったようだ。
目の前に出された『朝食』をみて、数瞬フリーズしていた。
「田舎なんてのはたいてい食糧不足でね。江戸みたいに米が外から入ってくることなんかないし、ここにおるあいだは、そういうのに我慢して慣れてもらわんと」
「…いえ、我慢などとは」
「こうして食事をいただけるだけでも…」
一応空気を読んでそんなことを言ってくれはしたものの、果たしてどこまでもつのやら。まあ田舎とはいえ宿場町の池田町屋まで行けば、普通に旅行者が食べるレベルの食事はあるので、最悪自弁で次郎伯父の義実家である木曽屋さんに泊まってもらうなんてことになるかもしれない。
最初のひと口ふた口をしょぼしょぼと食べていた二人であったが、颯太とその家族らに注視されているのに気づいて、慌てて掻き込みだした。
はは、熱いのに無茶しちゃって。
苦笑しながら久々に実家の食事を口にした颯太であったが、その忘れかけていた雑穀臭の強い味に彼も思わず瞬きしてしまった。人間、贅沢にはすぐ慣れてしまうものであった。
朝餉を済ませるなり、颯太はすぐに窯場に出勤した。
その後ろには帳面を抱いたお幸が続き、「あたしは有能な秘書」的なようすで、彼女がチェックしている資材の管理状況や職人の数とその人件費、窯焚きの回数とできた商品の歩留まり率などを説明する。
颯太に計数を教えられ、人よりも長じたその能力を周囲に認められることで彼女はなくしかけていた人としての自尊心を取り戻したのかもしれない。
もしもメガネをかけていたら、指でくいっと動かしそうなそのドヤ顔がおかしくて、つい笑ってしまう。笑われてはにかんだお幸であったが、そのとき一緒になって笑った近くの職人のほうは尻を蹴っ飛ばしていたので、颯太向きとそうでない向きの顔を使い分けているふうであったりする。早熟なお幸はもうほかの女中さんと変わらないくらいの背格好なので、ミドルキックなその蹴りは、振りでも何でもなく職人のほうも痛がっていた。
とりあえずその無作法をたしなめつつ、金平糖を一粒渡す。
それを手にしたお幸は、ニコッと微笑んで手拭いに包むようにして仕舞った。すぐには食べずに取っておくことを覚えたらしい。
特におかしな物の動きはなさそうなので、彼女を連れたままほかの用を手早く済ませていく。職人たちの仕事ぶりを見て回り、努めて声をかけていく。名前を知らない職人にはとくに時間を割いた。どこの出身でどんなものを作っていたのか、どんな取引先と関係があったのかなどを事細かに聞いた。天領窯以外は、やはりまだ一昨年の安政地震の被害から完全には立ち直っておらず、なかなかに苦しい経営を続けているところが多いようだ。
どこの援助もうけられない美濃焼は苦しい。すでに尾張藩の手当てで回復している瀬戸と比べると胸が苦しくなるほど立ち遅れている。
(…阿部様からゲットした資金は、ばらまくためのもんやないし)
いっそのこと、いくつかの斜陽窯を引き受けて、大量生産体制へのシフト工程に組み入れてしまうのも手のような気がしてくる。
「…颯太様」
見れば、小助どんと辰吉どんが、余所の人間らしき男を連れて歩いてくるところだった。窯頭の小助と古株の辰吉は、天領窯の職人の中では幹部扱いである。
後ろからついてきているその余所者は、後生大事そうに風呂敷にまとめた荷物を両手に抱え、落ち着きなく回りをきょろきょろとしている。
「そのひとは」
「…また『紹介』ですわ」
小助どんが疲れたような溜息をついた。この美濃地域で現在最も勢いがあるのはこの天領窯であるのは間違いなく、食い詰めた職人はともかく一度はここを訪れるという流れができ始めているらしい。
むろん無限に雇用を増やすわけにはいかないものの、腕のいい新参者は職人たちにも刺激になるので、面接だけは必ずするのだという。
「…それで、その人は何が得意なの」
つい問いただした颯太であったが。
「ど、銅版摺りをやったことがあるし!」
そのとき男が叫んだ言葉に、颯太は慄然とした。
それは紛れもなく天の配剤であった。
たくさんの感想ありがとうございます。いろいろと参考にさせていただいています。
庫之丞が同行していない件については、人材がそろいつつある流れの中で自然な形で補足する予定です。