012 颯太vs烈公③
「…面白い小僧だ」
えっ。
扇子叩きをもう一発食らうくらいは覚悟していたのだけれども。
腕組みしてうんうんと自分で頷いてみせるその分かりやすいしぐさが、なんとも某演技派俳優を髣髴とさせる。
「わしの考えをここまで堂々と粉みじんにした人間は初めてかもしれん。東湖めには何度もうまく言いくるめられたものだが、あやつとてここまで正面切ってわしに異を唱えることなどついぞなかったぞ」
東湖、という個人名が出た辺りで、なぜかうっすらと浮かんできた目の潤みを指で拭った斉昭公。
東湖とはむろんあの藤田東湖のことで、実は先日の江戸地震のさなかに崩れた建物の下敷きとなって亡くなっていたりする。颯太の中途半端知識では、斉昭公とセットで覚えている程度の有名人なのだけれど、実際のところ斉昭公の藩主擁立から名を上げる切っ掛けとなった藩政改革、諸々の幕府への働きかけに至るまで、名君たるその行いの多くを力強く支えていた紛れもない片腕であり、名参謀であった。
「議論とは、やはりこうでなくてはならんな。一方が言葉を投げるばかりでは心のうつろは満ちぬ」
「…ご老公様?」
「大勢の有識が意見をぶつけ合い、その喧々諤々の後に貴重な知識の実りが生まれてこそ本物の議論。いまわしの心のうつろには、さきまで想像もせなんだきらびやかな知識が満ち満ちておるぞ」
目の輝きが怖いほどである。
ここでなぜか扇子アタックが飛来して、颯太はまた「あいたッ」と悲鳴を上げた。
「叩きやすい高さにちょうどよい頭があるわ。…なにを急に後ろに下がる」
「痛いのがいやだからでございます」
「こら、もう叩きはせぬゆえ、もそっとちこう寄れ」
「ここからでも声は届きます」
「扇子が届かぬであろう」
「………」
なにを言われているのか分からなくなってくる。
叩く気満々じゃんか。
しばらくそんな取りとめもない会話が続き、ようやく笑みを収めた斉昭公が居住まいを正して新たな問いを発した。
「…伊勢殿のこたびの上奏も、先ほどちらりとは聞いたがその南蛮人どもを『転がす』算段がらみであるのか」
答えてよいものか判断に戸惑う颯太の横から、永井様がようやくフォローを開始する。
「…それがしらにはお答えいたす資格がございませぬ。ご容赦くださいますよう」
「わしは軍政参与よ。ゆえにこの部屋に自儘に立ち入っておる。…よかろう、そのほうらの舌のすべりがよくなるよう、軍政参与の名を持って命じてやろう。そのほうらがこの部屋に呼ばれる所以となった内容をわしにも教えよ。わしを軍政参与にと幕政に招じたのも伊勢殿だ」
あらら、斉昭公も阿部様の無茶振り被害者なのか。
などと颯太がとんちんかんな感想を思い浮かべている横で、永井様がこちらにだけ聞こえるように小声で囁いた。
「…筋は間違ってはおらん。いたしかたなかろう」
どうやらオランダ案件について、斉昭公に開示することとなったようである。
目を生き生きと輝かせている斉昭公に対して、ふたりの説明が始まったのだった。
「…そうか、攻め気の阿蘭陀を手繰り寄せて、見事に足払いを食らわせた格好だな。なるほど、先ほどの話にあった理屈を実践した一例ともなるのか」
「…そこまで周到に考え動いたわけではなかったのですが……阿蘭陀はもともと我が国と通交のあった間柄であり、なにゆえいまさら『和親』なのだろうと素朴な疑問を抱いたのがそもそもの切っ掛けでありまして。付き合いのなかったメリケン国などであればいざ知らず、すでに居留地さえも得ている阿蘭陀が、これといって意味もなさそうな条約に拘泥するさまはいささか滑稽でもあり、『隙』でもあるようにそれがしは思ったのです」
交渉時は、そんなレベルでなく最初から引っ掻き回すつもりで参加したくせに、澄ましたようすで颯太は得々と語る。
「阿蘭陀は幕府が喉から手が出るほど欲しているものを、いくつも持っています。同時に彼らもまた、古くからある我が国での『利権』に縛られてもいます。とくに通商権は南蛮列国においては唯一の独占者でもありました。幕府御用の金看板を与えられた特権商人のようなものです。その特権商人たちにとっての一番の『悪夢』は、金看板を取り上げられることです。言葉を交わしているうちに、阿蘭陀国が我が国との独占的通商を失うことを非常に恐れていることが分かりました。相手の欲しているものをこちらが手にしているわけです。メリケン国との対話がただ大砲の威力に脅されてのものだったのとは、まったく状況が違うのです。お互いに『欲しいもの』があって、確実に交渉の余地がある。…その状況をむざむざふいにするのは、よほどの愚か者のみでありましょう」
「しかし思いついたからとて、思い切りが良過ぎよう。勘定所の木端役人が、僭越だとは思わなんだか」
「そもそもその場にそれがしを遣わしたのは伊勢守様でございます。この小賢しい木端を狙って放り込んだわけですから、そのあたりのことはとっくに織り込まれておいでであろうと意外とたかをくくっておりました」
「伊勢殿もまこと思い切ったことをしたものよ……まあこうして小僧の『小賢しさ』を目にしておれば、そんな気にもなったのも多少は頷けるが」
扇子を懐に仕舞いながら、斉昭公は隣の永井様を見て、
「…こやつの性は、『陶林』とか言ったか」
「…『陶林』殿にございますが」
「珍しい名の御家人はそれこそ無数におるであろうが、『陶林』とはまた変わった響きよ。その名の出所はどこになるのか」
「…それは」
言いよどんだ永井様の目配せを受けて、颯太は平然と頷き返す。
片田舎の農家の家に生まれ、妾腹の子として半士半農の庄屋に引き取られた小汚い子供がおのれのルーツである……そのことに颯太は何ら恥ずかしさを覚えない。
「林丹波殿の分家筋にあたります」という永井様の歯切れの悪い答えに斉昭公が首をかしげるのを見て、颯太は半身前ににじり出た。
「…父は濃洲の東、大原郷の庄屋の三男坊、林三郎と、柿木端の伊兵衛の娘、はるのあいだに生れたるがそれがしでございます。故郷にてつましいながら焼き物窯を立ち上げ、これを経営いたしております。…縁あって伊勢守様に引き上げていただき、その後いささかの功あって栄えある八万騎の端に名を連ねることを許されました。由緒ある名跡などにはとんと縁のない卑賤の身ながら、いまはおこがましくも名を陶林颯太と名乗っております」
対面するのはこの国で最も高貴な血筋のひとつから生まれた貴人であり、なかなかに両極端な取り合わせといえた。
まったく臆することもなく出所を口にした颯太は、じっと斉昭公を見た。
斉昭公もまた、堂々とし過ぎな7歳児をおかしそうに観察している。
「『陶』の字は、経営する窯から採ったか」
「それがしの窯が産する焼き物は、海の向こうにも通用する非常に上等な一品であるとそれがし自負しております。円山派の絵師による上絵付けが施されたていかっぷの一揃いで、露西亜国は対価に鉄製大砲を10門も寄越しました。幕府の御用もいただきました。…それがしのいまがあるのはまさにこの窯のおかげ、窯から生まれた『林』なれば、『陶林』がふさわしかろうと思いました」
「負うておるではないか」
「窯経営の浮沈は、すなわちわが人生の盛衰とみなしておりますので」
半歩にじり出て前かがみになっていたがゆえに、颯太の頭は再び扇子の射程圏内に入っていた。
ずびしっ!
「あいたッ!」
「気に入った!」
押さえていた手の甲の部分に、矢継ぎ早に二撃目の扇子がクリーンヒットする。颯太はまた悲鳴を上げた。
「小僧、水戸に来い」
「…はえ?」
「立派な窯と職人も用意してやろう。厚く遇してやろうゆえに、わしに進むべき道を示せ」
颯太ばかりではない。
永井様も、開いたままであった襖の向こうの若年寄たちまで、斉昭公の発言に度肝を抜かれていた。皆して開いた口がふさがらなくなっている。
「東湖めがおらぬようになってからというもの、わしの目は暗うなってしまった。悪鬼どもが迫りくるこの国難のときに、何も見えぬめくらと何も変わらぬことの恐ろしさよ……あやつは夜道を照らす行灯のように、わしに進むべき道を示してくれた。…そのありがたさをいまになって惜しむこの愚かなじじいに道を示せ」
斉昭公の目は、本気だった。