007 老中会合①
安政3年1月20日(1856年2月25日)、颯太が江戸に帰着してより4日後に、体調の回復した阿部伊勢守は登城した。
日蘭の間で交渉が続けられていた条約交渉がその潮目を変えたこと、その要求条項の変更に伴い商館側が国許との調整のため、日を改めて交渉を再開したいと申し入れてきていることなどを将軍家定公に奏上せねばならなかったためである。
老中首座である阿部伊勢守であっても、重要な案件についてはほかの老中たちとまずは合議せねばならない。そのために午前中に老中会合が予定されていた。
「七五三みたいだな」
「………」
老中会合に際して、阿部様より呼び出しがあるかも知れないので同じく登城する運びとなった永井様と颯太。むろんTPO的に礼装である必要があったので、颯太は林本家で庫之丞が元服の時に着たというものを急遽貸し出してもらっていた。
肩衣は肩幅よりもかなり大きめで、袴も仮縫いでどうにか裾を詰めてもらうしかなかったのだけれども、何とかなってかなりほっとした。肩衣の下に着る小袖も熨斗目というお腹の辺りに縞模様を織り出したやつで、こちらはもうサイズ的に厳しく、大事な縞模様が完全に腰より下になって袴に隠れてしまっている。
そのお仕着せ感を、永井様は『七五三』と評したわけだ。
まあ否定は出来ないので黙っておく。
ふたりが待機しておくよう言われたのは、本丸御殿の一室である。登城からこの部屋まで、むろん勝手の分からない颯太が迷子にならぬよう永井様が付き合ってくれている。永井様いわく、「オレも自信はあまりないがな」とのことだが、要職につく高位の幕臣をして「自信がない」と言わしめる本丸御殿のダンジョンのごとき広大さは、そこに住まうだろう権力の魑魅魍魎どもとあいまってまさに『伏魔殿』の形容がふさわしかったろう。
御殿に上がるとき姓名を告げると、すでに連絡が通じていたらしく、ふたりはまっすぐにこの部屋まで案内された。100メートル近く廊下を歩いて、何度道を譲って頭を下げたことか。エンカウントする御殿の住人はほぼ間違いなく颯太よりも高位にある。
そうしてかなり奥まったところにまで通されたのだが、永井様いわく「『表』全部でも御殿の半分に満たない」らしい。この『表』というのは、将軍の居住スペースや奥向きのゾーンを除外した大名旗本たちが侵入可能なエリアのことを指す。
じっと座っていても暇なので、待つ間いろいろととりとめもないことを永井様に質問をして過ごした。
現在の幕閣のトップである老中は、阿部伊勢守を入れて5人らしい。
牧野忠雅 (備前守/越後長岡藩主)。
久世広周 (大和守/下総関宿藩主)。
内藤信親 (紀伊守/越後村上藩主)。
堀田正睦 (備中守/下総佐倉藩主)。
むろんすべてどこぞの大名、お殿様ばかりである。
幕臣はおろか諸藩の生殺与奪の権まで握る彼らは、小領であれど大大名よりも上位の扱いを受け、御三家、御三卿に次ぐ席次を与えられるのだという。武家社会におけるその権威は恐るべきもので、同格未満の大名旗本たちが『~守』の官位がかぶるだけで不敬だとして、自主的に変更をせねばならないほどであった。
つまり現時点で『伊勢守』『備前守』『大和守』『紀伊守』『備中守』は、同格以上の大名しか持たないので、その官位だけでほぼ個人が特定される状態であった。ゆえに阿部派閥の部下たちは領袖を指して『伊勢様』、『伊勢守様』と呼んでいたわけで、それはほかの老中にも当てはまる。
ちなみに老中同士は、『(官名)殿』と呼び合っているらしい。官位で個人が特定されているからこそ通じる慣習である。
彼ら幕閣のトップが執務している部屋を『御用部屋』と言い、セキュリティを保つために『御用部屋』の入場制限はハンパなく高い。老中自身とそのマネージャー扱いの若年寄、将軍との連絡役である御側衆の御用取次ぐらいしか通常は入れないのだという。唯一例外が発生するとすれば、それは老中自身が呼びつける場合であり、その『例外』のために颯太たちは待たされている格好である。
しかし偉そうな響きのある『若年寄』が芸能人のジャーマネみたいに、老中からこき使われる風景と言うのはあんまり想像ができないのだけれども、現実には体育会系の上下関係が確立されているようだ。より上に行くために通らねばならないいばらの道らしく、小禄とはいえれっきとした譜代大名である若年寄たちが、「お茶」と言われてパシリのごとく走り出す、そんな怖い世界であった。
そろそろ正午を回るか、という頃合に、その若年寄の一人がふたりを呼びに現れた。酒井忠毗(右京亮/越前敦賀藩主)という名の方で、物静かだが声音の強い弁護士にいるようなタイプの人物だった。
「お呼びである。ついてまいられよ」とカツゼツのよい口調で命ぜられて、最初の一見以来目線を伏せたままのふたりは、酒井様の足元を見ながら進んだ。
そうしてしばらく廊下を歩いて、控えの間を通り抜ける格好で『御用部屋』へと入ることとなった。控えの間にはほかの若年寄と思われる数人が、じっとこちらを観察していた。
「お連れしてまいりました」
一礼して下がっていく若年寄の酒井様。閉められる障子。
室内に残されても平伏したままの永井様を手本に、颯太も畳の目を数えている。香でも焚かれているのか、わずかに甘い香りが漂っている。
「面を上げよ」
許されて、二人は顔を上げた。
そこで彼らを待っていた5人の老中が並んで座っているのが目に入った。
上座に阿部様の姿を認めてほっとするのも束の間、その両翼に並ぶ4人の老中たちから矢継ぎ早に問いが発される。
「なにゆえに阿蘭陀国は意見を翻したのだ」
「先の(和親)条約にはない変更がなぜ急に提議されたか説明せよ」
「そのときのドンケルクルシュウス殿のご様子はどうであった。聞かせよ」
「商館長を翻弄した小天狗とはそのほうであるのか」
一斉に聞かれても答えようがないので、阿部様のほうをチラ見すると、意を汲んでくれて場を捌いてくれた。
むろん最初に答えるべきは永井様であったのだけれども、条約交渉の始まりから語りだした(老中のご指示から始まった仕事であったので当然ではあった)その長々とした答弁は「はよういたせ」というクレームでとどめられ、結局阿部様の目配せでお鉢が颯太へと回ってきてしまった。
偉い人相手に失敗しないためには、責任の所在が明らかとなるように、事前情報がない限り不必要と思われても我慢強く事の発端から順序立てて話すのが無難ではある。永井様にとっては不本意であったかもしれないけれども、おそらくは阿部様たちの事前の打ち合わせでそのあたりの情報はあらかた共有されているのだと見た方がよいのだろう。阿部派の能吏としては多少カチンとくるものがあったのだろう、永井様の平伏した肩のあたりが少し震えている。
「…陶林颯太と申します。それではお答えさせていただきます」
ある程度は情報共有されている、と前提して心を定める。
偉い人に対してプレゼンなどをするとき、これは当然人によるのかもしれないのだけれども、信じられないくらい無礼なことを言われたり、理不尽な見解をかぶせられて話の腰を折られるということがままある。
心に空気を目いっぱい入れて、潰されないように気合を入れる。
「阿蘭陀国が意見を翻したのは、自らが進めていた交渉内容が『本末転倒』なことになっていたことに気付かれたからだとそれがしは考えています」
相手をあまり直視すべきではないので、伏し目がちに言葉を続ける。
「それがしは詳しくはないのですが、阿蘭陀国との和親条約はある程度他国の『前例』に倣って進められていたと伺っております。阿蘭陀国といたしましても、他国が結んだのなら我が国も、と手拍子に条約交渉に臨んでいたのでしょうが、ふと疑問に思いまして……このような仕儀になるとは想像もしておりませんでしたが……その、こちらからひとつの質問をいたしたのです」
「…質問、とな」
「はい。…メリケンを始め、他国はつながりなど何もないところから我が国に対して『和親』を求めました。お互い初めてですから、これを機に親しくお近づきになりましょう、と。当たり前の話ではありますが、付き合いも何もない相手だったのですから、それは当然の流れでもあったでしょう。英吉利、露西亜など後に続いた条約も、そういうことでは『和親』にも意味があるようには思えました。…ここで翻って、阿蘭陀は」
仲間同士でささやき合っていた老中たちのざわめきが止んでいた。
皆が耳を傾けている、と感じる。
「そもそも神君の御世より続く長い付き合いのある阿蘭陀国に、その『和親』は必要なりや? 普通にそう思ったので、お聞きしたのです。すでにお付き合いも通商もある貴国が、なにゆえにいまさら『後発』の国に足並みをそろえようとするのかと……長崎での多少の便宜を我々から得たところで、それが大きな『利』につながる要素がどこにあるのかと」
「………」
「阿蘭陀国は現時点で我が国との付き合いの深度の点で、他を引き離しています。列強国という枠で申しますと、まさに唯一無二な立場にあるのです。遅れる他国と同じ土俵に立って勝負するなどどうかしているとしか思えませし、実際に商館長ドンケルクルシュース氏は、その取るに足らない質問から、期せず重要な『気づき』を得て驚いた様子でした」
あくまで相手が自主的にひらめいて、避けえぬ成り行きとしてそうなったのだ、としておく。誰かがつばを飲み込んだ。その誰かは分からない。
「では、わが国と阿蘭陀国との間で、より踏み込んだ関係を築くということは何を指しているのか……ここからは当時の論議をかいつまんでご説明いたしますが……他国武装船の圧力に苦慮しているわが国が不当な要求に屈さないようにするには、黒船を打ち払わねばなりません。そして独占交易を守りたい阿蘭陀国としても、わが国が攘夷に成功してもらったほうがいい。…ならば両者の『利』が一致するにはどうすべきなのか、解答は単純かつ明快でした」
息を飲む音がした。
身じろぎして衣擦れの音を出す気配がした。
「わが国が圧力に打ち勝つように、阿蘭陀国が協力すればよいことなのです。もしも新しい条約を考えるとしたなら、それはより緊密で相互補完的なものであるべきだということで一致いたしました。それは阿蘭陀国がわが国で不足している新式大砲を勿体をつけずにお値打ちに売ってくれることであり、黒船来航時には同等の阿蘭陀艦隊が防戦に合力してくれることなのです。…台場に新式大砲を山のように並べて、相手の度肝を抜いている間に背後に現れる阿蘭陀艦隊……その協力体制が成れば、メリケンの黒船艦隊など尻をまくって遁走することでしょう」
三つ目のご質問にもついでに答えておこう。
「商館長ドンケルクルシュース氏は、大変興奮されたご様子であられました」
ちょっとだけオーバー目に。