001 福山藩中屋敷にて①
颯太たちが乗る船は季節柄の順風を受け、足止めを食うこともなくほぼ半月ほどで江戸湊へと到着した。
例のごとく廻船が多数停泊する佃島近くでほっとするのもつかの間、阿部様から差し向けられた迎えの伝馬船に乗り込み、案内されるまま目的地へと向かう。しばらくスタンバっていたのか、ほとんどタイムラグもない乗り継ぎで、長旅でへばっている颯太たちにはありがたい送迎サービスだった。
今回はどうやらお城近くの阿部様の上屋敷ではなく、颯太が一時起居していた丸山にある中屋敷のほうに向かうらしい。中屋敷はしっかりした台地の上にあるので、しばらく行って最寄で川から上がり、そこからはやむなく歩くこととなる。
立地的に丸山の中屋敷は地盤がしっかりしていたらしく、以前江戸地震の折に颯太の逗留を受け入れられたぐらいで、地震の被害が少ない。藩邸の中の別棟、若いころ阿部様が普段使いしていたという建物に招じ入れられると、颯太はそこで布団に伏している阿部様と対面することとなった。
「療養にはこちらの方が馴染むようでな。このような形で済まぬが、わたしも足を崩しておるゆえ、おぬしらも楽にして坐ってくれ」
ずいぶんと肌の張りもなくなり、しぼんだように体が小さく見える阿部様に、颯太の中の危機感がチクリと刺激される。
ついと阿部様の枕もとに座るお付の医師を見、見覚えのあるその顔が颯太の視線を受けて小さく左右に振られる。
療養はうまくいってはおりませぬ。医師の無言の回答だった。
「お加減がまたかなり悪そうですが、ちゃんと先生のお言いつけを守っていましたか?」
開口一番で颯太の口をついて出たのがその言葉だった。
束の間阿部様と視線が合わさり、そのあとに不養生者の目がふいっと逃げた。
「…まさかお酒をやめてないとかはありませんよね、先生」
どうせ答えないだろう阿部様をよそに、お付の医師のほうに話を振ると、
「酒は憂いの玉箒よと申されて、おそばの方に用意させてしまうものですから、いっこう病状の回復につながらず…」
「こらこら、多少はわたしも我慢して」
「伊勢守様! 一日2升が1升になったからとて、そんなものは目くそ鼻くそ、普通に飲み過ぎです」
「………」
目くそ鼻くそって。
医師の剣幕に黙り込む阿部様に、颯太も乗っかるように参加する。
まったく、ダメな患者の典型のような人である。
「約束破りはいただけませんね。…このようなダメな病人には、少しお仕置きが必要かもしれません」
遠慮のない颯太の突っ込みに、同じく座っている永井様から驚いたような眼差しを向けられたが、颯太はとくに気にも留めずにびしばしと言葉をつづる。
気に入らない、お役を罷免すると言われるのなら、どうぞご自由にというのが颯太の本心であるから、遠慮とかが生まれようもない。
またそのような遠慮のないやり取りを阿部様が好んでいたのも事実であった。
「手指の痺れはないんですか?」
「……少しばかりのことだ」
「あるんですね、やっぱり」
「酒は百薬の長とも言うであろう。お前の言うておった体に負担の少ない『蒸留酒』という酒も、まだ手配できておらぬのだ。ならば少しぐらいは目こぼしいたせ」
「…いろいろともげてからでは、おとよさまとお楽しみもありはしませんが」
「この病が進むと、まことに手足の先からいろいろと腐れもげてしまうのか?! わたしをたばかろうとしてはおらぬか」
「信じていただけぬということでしたら、それはそれでも構いません。別にそれがしの手指がもげるわけではありませんから」
「………」
「不摂生しておとよさまを愛でることもできない体になってしまってもよいのなら、何も言いません。大丈夫です、そのときはおとよさまが嫁ぎ先に迷わぬよう、不肖それがしが間に入って、田安様にもとに謹んで送って差し上げまする。ご安心めされ」
「わ、わかった、そういじめるな」
「分かっているなら、さっさと観念してください」
「…うむむ」
結局糖分の塊である日本酒の摂取はやめにするという言葉を本人から引き出して、そちらの話はひとまず区切りとなった。医師がうれしげに涙ぐんでるし、相当に気に病んでいたのだろう。
そうして颯太らは改めて今日の本題、長崎での条約案件についての報告を始めたのだった。
そこからの報告は当然ながら永井様の役目で、聞き役の阿部様も布団の上で胡坐をかく格好で真剣に聞いている。
おのれの派遣した小天狗の乱入により、日蘭和親条約がものの見事に吹っ飛んだこと、その代わりに現れた前代未聞の安全保障条約もどき……オランダ艦隊による江戸防衛の与力と、大砲その他あちらの先進兵器の供与にまで話が及ぶと、阿部様はいたく興奮しておのれの膝をぺしぺしと叩いた。
「あの仏頂面で何を考えているのかわからぬ食わせ者の商館長を、舌三寸で篭絡して見せたか! うはは、さぞやうろたえたことであろうな!」
「ドンケルクルシュース殿もこの話にはたいそう乗り気で、早速本国の国王に報告をいたし、条約について改めてこちらと詰めていきたいと申されております。もともとわが国と阿蘭陀国は通商を行ってきた間柄でありますれば、和親などとわけのわからない段取りなど飛び越えて、最初からこのような関係強化を論じるのが本筋であったのではと、いまではそれがしも考えております」
「古くから付き合いのある阿蘭陀国との取引ならば、水戸殿もそううるさくは言わぬだろう。論議をややこしくする前に砲台陣地の守りを確固たるものにできれば、あちらの顔を立てつついろいろとやりやすくもなるだろうて」
ここで言う『水戸殿』とは、幕末の名君のひとりとされる、御三家水戸藩、前藩主徳川斉昭候のことである。
藩の誇りでもある『水戸学』……黄門様でおなじみの水戸光圀が『大日本史』を編纂するために全国から招聘した学者たちに端を発した、日本古来の伝統を追及する学問のこと……を学んだ斉昭候は、生粋の保守思想の持ち主であり、強硬な攘夷論者でもあった。
幕末で攘夷論の旗頭として、いろいろなシーンで露出しまくるので、幕末好きならば名前を見る機会もかなり多いことだろう。老中首座として権勢を振るう阿部様でも無視し得ない、この時代の大立者のひとりである。
この時期、斉昭候は阿部様から海防参与として招かれ、江戸藩邸に在府しているらしい。
(…斉昭様か。いまの自分の立ち位置からすると鬼門のひとだよなー)
阿部様という風除けがなくなったときに、ずぶずぶの開国論者の颯太はあの人的に相当に目障りになるだろう。できるならいつまでも遠くから眺めてたい人である。
「…それでまた近いうちに、メリケンの黒船艦隊がやってくると、商館長が申したのだな?」
「…正確に申し上げますと、まずその点をそこのちんまい天狗が指摘いたしまして、それをあちらが追認したような形でして…」
「………」
「………」
無言でそんなに見つめなくても、分かりましたよ、説明すりゃいいんでしょ。
「簡単な推測の結果です。新大陸……ああ、メリケン国のある大陸を欧州の列強国ではそのように申すそうです……その地の先住民を駆逐して日の本の数十倍に及ぶ巨大な土地を手に入れたメリケン人たちは、その富を元に広大な農作地、工房などをあまた作り、膨大な産品を列強諸国と取引しているようです。彼らは国同士で商売することで豊かな生活を成り立たせています。いまはまだこちらに向けては、クジラを取る捕鯨船の航海が多く、補給物資の入手を喫緊の問題としていますが、どうせ海を渡るのなら、同時に商売もしたい、未開人に高く物を売りつけたいと考え始めるでしょう。…現にいま我が国では、列強国のひとつ阿蘭陀が、我が国との取り引きで莫大な利益を上げ続けています。欧州列強国から人が入植して成立した国がメリケンなので、当然ながら阿蘭陀出身の者もいるでしょうし、彼らがそのあたりの事情も知っていて不思議はありません。…そんな儲かる国なら自分も商売がしたい、捕鯨船から我が国を眺めたメリケン人が、そう考えるようになるのはいたしかたないことかと」
「………」
「ゆえに、先の和親条約で無理やり殻をこじ開けたのですから、間髪を入れずに次の段階の『関係』をごり押ししてくるだろうと推察いたしました。ゆえにそれがしは、予想したことを商館長に尋ね、それに対して阿蘭陀国の見解が回答として返ってきただけでして」
「…ずいぶんとメリケンの事情に詳しいようだが」
「ひとから聞きました」
言い訳に一切躊躇がない。
慣れとは恐ろしいものである。
実際清王朝をアヘンで無茶苦茶にしたイギリスに対して幕府は恐れてもいたし、イギリスという国についてもかなり調べている。事情通ならば、そのイギリスの植民地であるアメリカが農産大国で、列強国を主な顧客としていることぐらいは知っているだろう。
たぶんどこかで、誰かが知っているはず。
きっとそう。
てこでも動きそうにない颯太に、阿部様と永井様がそろってため息をつき、次なる黒船来襲があることを前提に、議論が続けられることとなる。
さあどこまで続くことやら(^^)
しばらくはストックありますが、気持ち悪くなったときには容赦なく立ち止まりますのであしからず。