019 選考結果
どうしてこうなった……そんな煤けた背中を見せるのが自分でないことがなんだか新鮮な颯太です。
「…選ばれるべくしてえらばれたな、やっぱり」
人選が済んだ後、別室で茶をしばきながら永井様が笑った。
ぐっと膝の上の拳に力を込めて、何か言いたげな様子の永持青年であったのだけれども、おのれの上役が許しもしないのに愚痴を口にするわけもなく。
さすがは総監理、ということであるのだろう。
こうして決定してから改めて伝えられたことだけれども、この青年、実は伝習生という以前にもともと長崎に派された永井玄蕃頭の下に付けられた者であり、当年で29歳、幕府の職位は勘定格徒歩目付。
支配勘定並の颯太とはほぼ同格……というよりも、阿部伊勢守に思いつきのように役を与えられている颯太に対して、必要な職務を果たしてきた結果その職位にいる彼のほうがずっとまっとうに扱われるべきなのだけれど。
長崎奉行所絡みの端役程度で食指が動かなかった一端もその辺りにあったのかもしれない。まあ老中首座阿部伊勢守の強い肝いりで動いている颯太の一存は、そのまま雲の上からの鶴の一声に等しく、永井様の部下ならば派閥も同じ、流れに背いて否といえるような立場ではなかったろう。
伝習生の事故死を極端に恐れている永井様から見て、颯太の相方として裏日露交渉スタッフに一本釣りされ、失敗即切腹とか非常にリスキーな立場に立たされた永持青年であるのだけれども、そのあたりについての永井様のコメントはなかなかに清々しかった。
「おぬしもいろいろと振り回されて大変だが、次は外事の大一番に臨む伊勢守様の秘蔵っ子の目付だ。御目付冥利に尽きるなあ!」
黙ってその御託を聞かされている青年の眉尻がぴくぴくと引き攣っている。
彼の職位である勘定格に続く『徒歩目付』とは、分かりやすく言うと幕府が定数的に抱えている『隠密』である。隠密同心心得の条とか時代劇好きならすぐに浮かんでしまうところなのだけれども、そういう秘密警察的なものではなく、老中が遠地の幕臣たちを遠隔操作するための繋ぎ役、という感じであるのかもしれない。
長崎でかつてない事業……海軍伝習所の総監理という要職に就くことになった永井玄蕃頭に『目付』として付けられた彼は、もともと考慮されていたのかあるいは員数合わせであったのか、着任2ヵ月後には扱いを『伝習生』に替えられ……そしていままた突然現れた颯太の都合で裏日露交渉の『目付』にされるわけだ。
「振り回される」という表現はまさに的確であったりする。お気の毒というしかないが、組織人とはそうしたものである。
「永井様、なんだか嬉しそうですが」
永持青年の精神衛生上よくないと思い、いちおう指摘してみた颯太であったが、
「こやつはほんと細かくてな。オレの夜遊びの回数から店のツケ勘定、果てはあくびの回数まで帳面につけてやがるんだ。座学の間も懐に忍ばせた帳面を机に出して、こう『正』の字を書き足してやがってな…」
「それは大げさすぎましょう。それがしそこまでは…」
細い永持青年の眼がそのときばかりはくわっと少しだけ見開いて、それが相手をよけいにワクテカさせることに気付いてまた黙り込む。
言葉半分にとらえるとしても、二人の関係はこんなもののようだ。
さて。
実は颯太の一本釣りで釣り上げられたのは永持亨次郎だけではなかった。
「しゅ、主家にご同意をいただかねば……それがしの一存では」
金壺眼をはげしく瞬きさせて、石井青年がテンパっている。
蘭語に通じ、君沢型スクーナー建造にも携わったというこの青年も、この際露西亜行に連れて行くことにした。上から造船術習得を命ぜられていた彼は、生来のまめさを遺憾なく発揮して、全体の設計図から部品ひとつひとつの模写まで自分の帳面にまとめあげていたのがある意味運の尽きだった。
航海中に破損などのトラブルが発生したときに、水夫たちに指示するにも道理を分かった人間がいないとなかなか難しいだろうという判断である。
「これから大変ですけど、おふたかたともひとつよろしくお願いします」
「………」
「何か質問があればお答えしますが」
「…それがしどもは、これからなにをさせられるのでしょうか」
おお、そうだった、そうだった。
まだこのふたりに、『海外視察』の内容を詳しく説明してなかったんだっけか。
ちらっと周りを見渡して、襖の向うに選外となった伝習生たちが息を潜めて聞き耳を立てている可能性に思い当たる。
永井様も目配せに気付いて、軽く首をすくめたから想像は当たっているのだろうと思う。
「…念を押しますが、これはまだおおやけにはできぬお役であるので、説明は明日、長崎奉行様も交えまして処遇その他諸々と一緒にご説明いたします。くれぐれも秘中の秘であると心置きくださいますよう。…以後、もしもおふたかたの口からその話しが漏れて、由々しき騒ぎが起ころうものなら、主命に背くものとして相応の責任を取らされるものと覚悟ください」
「…相応の責任、とは、白装束を着させられる、ということですか」
「そんな……大事に」
「幕閣の強いご意向が働いておりますので……その程度のお覚悟はしていただきたいです。…まあいまはそんな後ろ向きに考えないで、ポジ……積極思考というやつでいきましょうよ。成功すればいやでもひと旗上がります、思いがけぬ出世の足掛かりになるやも知れませんよ」
「…はあ」
「…詰め腹を」
ちっ。
いまいちノリの悪いふたりである。
性格がどちらかというと保守的なのだろう。まあ颯太自身がイケイケ人生なので、これは偶然ながらもバランスのよい人選であったのかもしれない。
その晩、改めてささやかな酒席を設けて、裏日露プロジェクトの結成会と相成った。費用が颯太の持ち出しだと聞いた瞬間にふたりに鬼食いされて、想定外の散財で枕を濡らしたことは秘密である。
***
翌日、颯太が申し渡してあった集合時間の一刻以上早い時間に立山役所を訪れてきた永持、石井の両名。爆睡中を叩き起こされて目をぐしぐし擦りながら出迎えた颯太が見たものは、気合の入りまくるパリッとした裃姿のふたりだった。
さすがに時間が早すぎるので、庫之丞と後藤さんも叩き起こして部屋をかたすと、ふたりに少しだけいたずらをしてみることにした。
「門番の方には、そこで時間まで待つと申したのですが……お休み中申し訳ございませんでした」
「ああ、気にしないでください。どうせそろそろ起き出して準備せねばならない頃合でしたので」
「…して、陶林殿。さきほどからなにをなさっておいででしょうか」
「まあ朝の起き抜けには、ガツンと濃いやつが欲しいしね」
「濃い……それは『茶』でありましょうか」
庫之丞に運ばせた南部鉄瓶からお湯を注ぎながら、颯太はたちまち広がってくる豊潤な香りに目元をゆるませている。
「出島での頂き物です。カヒ、と申す南蛮の茶です」
この時代ではいささか贅沢すぎるものの、手習い用の和紙で『コップ』を折って、そこに薬研ですりつぶしてもらった豆を投入、お湯を少しずつ加えながらドリップを行っています。お湯の抜けが悪いので、何箇所か針で穴を開けてある。
もったいないので居合わせた5人分の湯飲みに、半分程度ずつコーヒーを造った。
「こ、コレを飲むのですか」
「泥水とかいわんとってよ。頭の硬い年寄りじゃあるまいし」
微妙に断りづらい空気を作っておいて、皆に湯飲みを渡した。
「飲む前に、匂いを嗅いでみたらええよ」
見た目はたしかに黒いのだが、コーヒーの芳しいアロマは時代を越えて共感されるはずである。あまり新しい豆ではなかったのだけれども、豆のまま暗所に保管されていたらしく香りは充分に備わっていた。
匂いの良さだけはすぐに分かったようだった。ひとしきりそのアロマを堪能した大人たちは、颯太に促されるままコーヒーに口を付けた。
「…!」
「うっ、にが」
「………」
苦さに驚く人もいたが、そこはいい歳した大人ばかりである。苦さ耐性を備えていたのですぐにその味を受け入れられたようだ。
「どう? 悪くはないでしょ」
「味はともかく、とてもよい香りのお茶ですね」
「これが書にもあった『カヒ』…」
コーヒー布教活動は幸先よく始まりそうだ。
「これが舌で味わう南蛮列国っていうもんやよ」
颯太はにやりと笑みを浮かべて、わずかな残りを煽ったのだった。
いよいよ既存部分のゴールに近付いてまいりました。
新規部分がなかなか進まないので焦ってきました…