017 永井玄蕃頭
海外視察、という言葉がすぐには理解できなかったのか、伝習生たちはきょとんとした顔をただこちらに向けたままだった。
腹ペコの池の鯉に餌を撒くような、分かりやすいリアクションを期待していた颯太には少し肩透かしであったものの、よくよく考えれば彼の言葉は音の集まりにしか過ぎず、「カイガイシサツ」と言う読みを持つ漢字の意味合いまでは伝わってはいなかったのだ。
目の前にちょうど黒板があった。
颯太はその教室風景に驚きつつも迷いなく転がっていたチョークを手に取り、『海』『外』『視』『察』と四文字を当てる。そこでようやく彼の言わんとしていることが伝習生たちに伝わったようだった。
反応は激烈だった。大きなどよめきが広がるや、全員が身を乗り出していたためにマンガのような将棋倒しが発生した。
これよこれ。
このリアクションが見たかったのよ。
むろん将棋倒しに巻き込まれたら子供ボディでは危ないので、黒板にひしっと張り付く形で間一髪かわす。無事ではあったけれども、黒紋付へのチョーク粉被害は甚大になってしまった。
***
「…やらん、だめだ」
その後に会った永井様の回答は予想外のものだった。
後の明治維新を駆け抜ける偉人たちを育んだ、学びの園の校長たる永井尚志が、生徒の海外派遣に消極的であるなどとはさすがに思ってもみなかった。
「遠くとつくににまで行かせて、もしもその身になにか危ないことが起こったりしたらどうするのだ。それをわれら上の者が誰も手を貸してやれぬのだぞ」
「………」
まさかの過保護発言。
意外さのあまり言葉もない颯太を見てどう思ったのか、永井様は胸の内を語りだした。
「伝習所の生徒たちは、諸藩のものを含めて選りすぐりの俊英を集めたものだ。後のこの国を背負って立つ優秀なものたちを、あたら死の危険のある外洋に出すわけにはいかん。幕府を信じて大切な子弟を任せてくれている親御たちに対して、無責任なことなど出来るわけがなかろう」
「えーっと、…ここは『海軍』を『伝習』するところなのですよね?」
「あたりまえではないか」
「海に出て蒸気船を扱えるものたちを養成するための学び舎なのですよね?」
「いかにも、そのとおりだ」
「ならばなおさら、世界を股にかける異人船員たちの生の操船を見る絶好の機会じゃないですか。それをふいにするなんて…」
「外洋は瀬戸内とは違って恐ろしく危険なところだと聞いている。勝手にやってくる南蛮人たちのことは知らぬ。オレが言いたいのは大切な生徒を危険な場所には簡単にやれぬ、ということだ」
「???」
すいません、よくわからないのですが…。
盛大に首を傾げつつも会話を重ねていくうちに、永井様の言わんとしているところはなんとなく理解できるようになる。
つまりは永井様は……伝習所初代総監理永井玄蕃頭は、非常に優秀な高級幕臣であり、かつ幕内での処世術に長けた『官僚』でもあったのだ。
彼は阿部伊勢守から期待されている『海洋航海術』をその他座学の延長線上のものと捉えていて、陸近くの近海で扱いに習熟すれば、それが世界でも通用すると考えていた。
ゆえに、無用な『リスク』はとりたがらない。失敗はキャリアに傷がつくからだ。
彼はこの時代の北前船などの海運業の危険さを資料を通して知っていた。無論それは和船による難破事故の数字であり、水夫たちの行方不明数の数字であったわけだが、南蛮船の事故死率を知りえない彼は、そこに既知の数字を当てることで仮初の判断基準とした。それが誤りであるかどうか結論を得るほどの任期を彼が勤めているわけでもない。
諸藩の委託してきた者たちは知らぬ。しかし同じ幕臣の子弟から選りすぐられてきた士官候補生たちを簡単に死なせるわけにはいかない。和船の事故率がそれに当てられるわけであるから、外洋に出た伝習生は一定の確率で死亡する予測が立ってしまう。
だから「だめだ」という回答となる。
伝習所の不祥事の責任は、すべて総監理である彼が負うことになるのだから。
「だめなものはだめだぞ」
「…ならばこういうのはどうですか」
永井様の中のロジックに察しがついた颯太は、相手を市役所の融通の利かない窓口職員であると見立てて、論理のすり替えを試みる。
「あなたの責任ではありませんが」という逃げ場所を別に用意することで、大人の会話は意外とスムーズに進むものなのである。
「伝習生から幾人か、長崎奉行の要請で奉行所に出向していただく、という形をとるのは……それならばいかがですか」
長崎奉行所の要請、というのがミソである。
そして『出向』という形が整えられた後ならば、その伝習生を預かる責任は永井様の手を離れて長崎奉行のものとなる。伝習生を冷や飯食いの次男三男とうそぶける川村様とならば、どうとでも話を決められるだろう。
6歳児から滲み出すような腹黒さを感じて、永井様は少しだけ引いたような感じを見せたものの、異人を手玉に取る小天狗の駆け引きを見ていただけに、見た目に惑わされることなく話の流れを汲み取った。
「…おぬしの言う引渡しすくうなあ同乗武官というのは、伊勢様がご指示して長崎奉行が派する、そういう流れに沿った役務ということなのだな?」
「露西亜国との軍船取引はそれがしに任されております。大切な引渡し船に幕府の監視が同行するのは至極当たり前の話ですので、江戸に戻り次第それがしが必要性を説けばおそらくは容易に通る話でありますれば。この取引で得られる国家的利益は、先の商館での話し合いにもありました阿蘭陀国との新条約……仮に相互安全保障条約とでも申しましょう……それにも掛かってくる恐ろしく重要なものとなりますので、長崎奉行所に新た端役が生まれたところで伊勢様も気にもいたしますまい」
「…露西亜国とのすくうなあ取引とは、そこまで途方もないものなのか」
「永井様はまだ、この取引で幕府が得られるものが何であるのか、詳細にはご承知ではないのでいたし方ありませんが、交渉次第では新型大砲なら数十門は持ち帰ってこられるかと」
「……ッ」
「それも低く見積もってのこと、交渉を上手くやれば、こちらでは知りようもない南蛮の最新技術や兵器をも手に入れられるやもしれませぬ。…そういうことです」
そのとき永井様が思わず背筋を伸ばした。
背中を駆け抜けたおののきがあったのだろう。数瞬の間永井様は颯太をまじまじと凝視していたが、眼前の小天狗の破天荒振りを改めて思い出したように、ゆるゆると肺の中の空気を吐き出した。
「…手に入れるとは聞こえがいいが、とどのつまり、おぬしがやつらから強請りとるということなのだろう。どんな手妻があるのかは知らぬが」
「強請るなんて人聞きの悪い。正統な取引です」
「ああ分かった分かった。その露西亜行きのすくうなあには陶林殿、そなたも同行するということなのだな」
「……えっ?」
颯太は間の抜けた声を漏らした。
彼の反応が気に入らなかったのか、永井様が片方のまなじりをピクリとさせる。
「おぬしがどのような人材を求めているのかは知らんが、そんな紅毛人相手に大風呂敷広げて、口八丁手八丁勝手気ままにできるやつがおぬし以外にいるとでも思うのか。おらんおらん、認識が甘かろう……それほどの交渉を成功させるためには、舌先三尺で異人を転がす交渉巧者のおぬしの同行がまず第一に必須であるだろう」
「………」
「…ふむ、おぬしが一緒におるという前提であるならば、おもしろい、いろいろと外事交渉の経験を積ませるためにも生徒を同行させるのも悪くはないな」
なんとなく代理人を立てて、指示書か何かで遠隔操作すればいいぐらいに思っていた颯太であったが、第三者の目から見て、それも幕府高官の目から見て颯太の同行が一等の前提条件であることをこのとき初めて示されたわけである。
たしかに官僚組織である幕閣の判断が責任回避に重点を置いていたとするなら、この重要かつイレギュラーな取引の責任は単純なラインとして阿部伊勢守、長崎奉行、伊勢守の秘蔵っ子陶林颯太、この三者に集約されることになるだろう。
取引の重要性とリスクをかんがみれば、最初の取引の正否を見極めるために責任能力ある者の同行が求められるのは当然で、老中首座阿部伊勢守はもとより、重職である長崎奉行が国を離れるわけにはいかない。
取引の端緒から関わり、その重要性と可能性を理解し、期待し得る最大の交渉者となりうるのは颯太のみであり、なにかあってことが失敗したときに詰め腹を切って周囲を納得させられる幕臣としての重みがあるのも、おそらくは『40石取り』の直参であり『支配勘定並』という職位を持つ颯太のみである。
根本新製を売りつけて大砲をむしりとったときに、シベリアのロシア軍港に乗り込めば好きなだけかっぱげるのではないかと夢想したことがあったのは否定しない。夢のある話で好き勝手やったら楽しそうではあるのだけれども、いかんせん彼はそんなことにかまけていられないほどに『忙しい』のだ。
えっ、マジで?
責任は負ってるつもりだったけど、…えっ?
そうして思い返すに、この長崎に急に遣わされることになった阿部様の指示といい、露西亜代理人との折衝も丸投げされた成り行きといい、いろいろと想像以上の『重責』を負わされていたのかもしれないと、今になって『気付き』を得た。
天領窯の経営だってあるっていうのに……取引失敗で下手したら腹切りとか、とてもではないが人任せに出来ないのではないか。
確かに認識甘かったわ。
額に浮いた脂汗を手巾で拭きつつ、颯太は膝の上で握った拳に力を込めたのだった。